平成6年度障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告
1 障害者文化芸術振興の流れ
1-1 障害者文化芸術の新しい取り組み
身体的・知的・精神的に重い障害をもつ人、特に重い知恵遅れや自閉症といわれる人、さらには、身体的知的に重複する障害をもつ人々の、文化芸術に関する活動が見直され、その重要性が世に問われだしたのは、わが国においては1970年代に入ってからのことであると言える。
さらにこれらの人々の作品のもつ高い芸術性が、各般の芸術ジャンルにおいて、他の一般の人々のそれと比較しても遜色のないことや、他の人々にはない、またそれ以上のユニークな価値があることが正当に評価されだしたのは、1980年代半ばになってからのことである。
1990年代半ばの現在、大江光氏の音楽に対する評価に象徴されるように、障害をもつ人々の作品に対する正当で積極的な価値が認識され始めると同時に、こうした高い価値のある作品を誕生させた周囲の理解と支援が問い直されている。
重い障害をもつ人々の自己表現と自己表現をできる機会をつくることの大切さが理解されてきている。さらには、自己表現の機会が限られたり、まったく得られないこと自体は、その人の人権にも関わることであるという認識も生まれており、こうした機会の確保の重要性が、新たな認識として拡大されつつある。
こうした動きは、主に福祉分野のなかでの活動から掘り起こされてきたのであるが、今やすべての分野において見直されるべき課題として、目標として明らかになりつつあると言えよう。そしてそれは、障害のない人にとっても。基本的な課題であるという認識に進んでいく萌芽となることを期待したい。
これまでの進展と今後を、単純化して振り返れば、障害者の文化芸術活動とその評価は、下記のような流れになろう。
① チャリティーとしての芸術
重い障害をもつ人々の作品が他の人と同様な表現であることへの驚きと発見。また、こうした機会をつくってあげることといった恩恵的な対応。
② ユニークな芸術
他の人々にはない表現の発見、特異ではあるがユニークな価値としてみられ始める。
③ とっておきの芸術(ベリー・スペシャル・アート)
他の芸術活動に比して遜色のない、新たな価値のある芸術活動としての評価。
④ すべての人々の芸術(アート・フォー・オール)
重い障害をもつ人々の芸術文化活動が他の人々と同様な価値を持つことの認識の普及。
現在のわが国の状況としては、④の段階はその萌芽が見え始めたと言えるかどうか、というレベルと考えるが、③の段階に入りつつあると言えよう。
こうした流れのなかで、③までの捉え方、認識を確かにするのが20世紀であり、21世紀には④のレベルへ進んでいくことが期待される。国連の2000年以降の障害をもつ人々に関する戦略のテーマが、「万人の社会(ソサエティー・フォー・オール)」であるが、その中の一つに芸術文化活動が含まれることほいうまでもない。
これまでの流れをつくってきたわが国における1980年代の出来事を、以下に見ていきたい。
1 国際障害者年(1981年)における障害者芸術文化活動
国際障害者年(1981年/昭和56年)には、さまざまな分野におけるわが国の障害に関する実態が明らかにされたが、芸術文化の面でも各ジャンルの集大成的な催し物が開催されている。
そのうち主なものを以下に挙げてみる。
国際障害者年中央記念事業芸術祭(ひろがる希望の芸術展)
これは、その目的を、「国際障害者年にあたり、障害を持つ人々がその障害を克服して製作した絵画、写真、陶芸品等高等な芸術作品を展示し、広く国民に公開することにより、障害を持つ人々の自立促進及び国民の障害者問題に関する理解を深め、障害のある人々の社会への完全参加と平等という目標の実現に寄与すること」として実施された(1981年11月3日~8日 於東京)。
この芸術展は、さまざまな障害を乗り越えて創造された優れた芸術作品をとおして、障害に関する基本的な理解を深めようとするもので、出品者は、現在芸術のあらゆるジャシルの第一線に活躍中の作家55人である。洋画・日本画・版画・写真・陶芸・書道の約100点の展示がなされたが、いずれも心に強い印象を刻まれるものばかりであった。また、特別展示として、「現代邦楽の父」といわれる故宮城道雄氏が「春の海」や他の多くの名曲を作った「検校の間」を再現したほか、故山下清氏の未公開作畠を展示するコーナーも設け、障害にかかわらず後世にも影響を残した二人の芸術家を偲んだ。会場に集まった多くの人々は、素晴らしい芸術作品の数々に大きな感銘を受けた。
出典作品は次頁の通りであり、15名1団体の93点が公開されている。
★出典作品
(国内出典) 洋画 19点 日本画 14点 版画 1点 陶芸 7点 写真 2点 木彫 1点 書道 7点 俳句 2点 |
(特別出典)東京都美術館 4点 宮城道雄コーナー(検校の間) 山下清コーナー 3点 |
(ふれあいコーナー) タイプアート 4点 革画 1点 デッサン 1点 洋画 2点 陶芸 3点 ねむの木学園 14点 |
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(海外出典) 米国 6点 韓国 2点 |
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(合計 15名 1団体 1件 93点) |
このうち国内の出展者について、障害の様子とその作品に関する作者からのコメントをあげると以下の通りであり、当時の一線での活動と社会の受けとめ方の一端がうかがえる。
<洋画>
「飛騨白川郷の風景」
●安達巌(昭和14年生 大阪府)
世界身体障害者芸術協会/左上肢切断・右肩胛関節切断(1級)
『私は口に筆をくわえて絵を描いているため、目とキャンバスの距離が短くすみずみまでよく見え、ついつい緻密な絵になってしまいます。』
「柿」
●水村喜一郎(昭和21年生 千葉県)
主体美術協会世界身体障害者芸術家協会/両側肩関節離断(1級)
『秋になると、まっさおに晴れた空に映える柿は、ひときわ美しい田舎の風情です。なるにまかせて誰もとらないので、カラスがつついて食べているので、僕もいただいて描いてみました。』
「トレド」他
●飯島義也(昭和15年生 神奈川県)
光風会/ろう(2級)
「収穫」
●磯部則男(昭和20年生 三童県)
一水会/進行性筋萎縮症による体幹機能障害(1級)。
「絵にはテーマが必要だと思います。そこで私は小品(2号)から大作(100号)まで、常に「生命と土の香り」をキャンバスに求めています。この15号もその1点で、新たに農村の素朴さを追求しました。」
「沖縄の鬼瓦」他
●宜野座尚(昭和38年生 東京都)
アンデパンダン/脳性まひによる四肢のアテトーゼ・言語障害(3級)
『中学3年の修学旅行をきっかけに絵を描き始めました。水彩、油彩をやりましたが、今は自分の訓練にもなる木版に夢中になっています。」
「人」
●大塚晴康(昭和12年生 神奈川県)
横浜美術協会/歩行不可能
「土佐の河口」
●小松光男(昭和3年生 高知県)
日本墨彩画院・青峯美術院・美耕会/左手親指切断・右足大腿部1/2切断(3級)
『片足がないため、立って描くことができません。100号以上の大作の時は、何段も台をしてその上に乗って描きます。その時、親指がないためパレットを持つのに不自由を感じます。」
「マリーネ」
●山田真由美(昭和24年生 東京都)
風子会・都民美術会・アビリティーズ美術工芸クラブ/四肢機能まひ(1級)
『私は夕日とか日没の風景を描くのが好きです。自然の空を描くと、何か心がのびのびできるような感じがしてきます。』
「地蔵尊」
●山田益弘(昭和32年生 東京都)
創造美術会/小児まひによる四体機能障害
「果実」
●山口成子(昭和25年生 東京都)
都民美術会・風子会/脳性まひによる上下肢まひ(1級)
『手が不白由なので細かいタッチが苦手です。大きな表現の中に色で変化をつけるようにしています。日常の身近なものをテーマとして、暖かい絵を描きたいと思っています。』
「雪嶺」
●井本恵裕(明治45年生 兵庫県)
青峯美術院主宰/右足大腿部切断
「青い輪」
●石川白圭(昭和2年生 神奈川県)
歴程美術協会/小児まひ
『作品は真の心の姿がそこに見られますので、作品の意図は見る人が自由に解釈されるものと思いますが、あえて作者の意図を申しますと、小さな生命も消滅することなく美の中に生きたいと考えています。」
「収穫の頃」
●島輝郎(大正13年生 静岡県)
写実画壇/肺機能障害(4級)
「マンダラ」「牛」「黒人の女画家」
●西江三千子(昭和13年生 東京都)
心臓機能障害・右半身まひ・失語症(1級)
『画題は佛陀、マンダラ、動植物が多く、画材は水彩からポスターカラーさらに油彩となりました。』
「あじさい」
●西村勇三(昭和20年生 大阪府)
太平洋美術会・大阪美術家協会/脳性まひによる四肢まひ
『油絵用具一式を持って旅行することと、山野で画架の安定が困難なため、どうしても静物画が多くなります。工夫と馴れで今日まで何とかやってきましたが、それは対象との心の交流という限りない喜びがあるからです。』
「バラ」
●鈴木信太郎(明治28年生 束京都)
一陽会・芸術院会員/左半身不随(2級)
「外房州海辺」
●寺田政明(明治45年生 東京都)
主体美術協会/右足障害
「らん」
●増田恵子(昭和25年生 束京都)
創元会・たぶろう会・アビリティーズ美術工芸クラブ/脳性まひによる体幹機能障害(1級)
「パリの凱旋門」
●山本良比古(昭和23年生 愛知県)
ひかり学園/難聴・言語障害・精神薄弱
『自ら画材を求めて絵を描くことはなく、指導者の指示に従って描いています。絵画制作はほとんど現地でスケッチしたものを学園に持ち帰ってから行い、絵は人物より風景画が好きです。絵の具の重色、混色ができませんので、色づかいは原色を主としています。』
「南天」
●大塚全教(大正7年生 京都府)
閉雅会・世界身体障害者芸術家協会/小児まひ(2級)
『4歳の時小児まひとなり、両肩の運動神経まひ、足の動きによって左手指を動かして描きます。右手は使えません。』
「観音様」
●大石順教(故人 明治21年生)
両腕切断(1級)
昭和43年逝去。口筆にて書・画を書く。
「晩秋鳥海」
●太田秋耕(大正7年生 秋田県)
東方美術協会/両下肢まひ(2級)
「大磯Y邸」
●岡田三穗麿(大平12年生 神奈川県)
日本美術院/難聴
「白棒の朝」
●大坪由明(昭和22年生 富山県)
日本美術院/右下肢・股関節カリエス
『「歴史」(べロドトス)を主な出典として、人物画を中心に制作していますが、過去と現実に起こっていることの類似性は驚くばかりです。人間にはこうあってほしいと思う思い入れが、かえって我の勝った画を描くことになっているようです。』
「山水」
●木村浩子(昭和12年生 山口県)
世界身体障害者芸術家協会/両腕まひ・右足まひ(1級)
「棒菓」
●小西國葉(大正3年生 東京都)
日本美術院/左股関節骨髄炎
『大きな制作の時は車いすで描きます。絵の中の私は実に自由に動けます。空が大好きで、天平時代の美しい女人達が青空の下で思うままに行動してくれます。画面の中は私の世界。絵描きであって良かったといつも感謝しております。』
「紅一点」
●中村貞以(明治33年生 大阪府)
日本美術院
「母子像」他
●三橋節子(故人 昭和14年生)
創画会/左鎖骨腫瘍による右腕切断(2級)
『「母子劇は朝日新聞社主催の歳末助け合い運動(昭和49年)に出品した絵です。絵本「雷の落ちない村」原画は、死後子ども達に何か残したいと思い死亡直前に描いたものです。』
「塔韻」
●平川敏夫(大正13年生 愛知県)
創画会/股関節脱臼関節炎(4級)
『高山などの写生には不自由を感じますが、制作には全く支障ありません。』
<版画>
「山里の家」
●菊地隆知(昭和5年生 山形県)
日本版画院・東北現代美術協会等/(4級)
<写真>
「霧氷」(上高地田代池)他
●高地志郎(昭和8年生 東京都)
失聴
<陶芸>
「沈金花虫文短冊箱」他
●鳥毛清(昭和30年生 石川県)
日本工芸会・漆光会/脳性まひによる四肢まひ(3級)
『小学生の時、学校の壁にはってあった絵葉書はとても上手で、私より重度の人が足で筆を持って描いたものでした。ショックでした。その時から私は作家になることだけを考え続けています。今思えば、どんな有名な作家のものよりすばらしい作品であったような気がします。』
「壺」他
●浜田竹草(昭和3年生 茨城県)
日本工芸会/右下腿切断
『私は茶陶を中心に制作していますが、今度の出品には会場が広いため、大きい壺を作りました。』
「灰彩大皿」他
●宮地芳久(昭和21年生 栃木県)
ろう
<木彫>
「ひまわり」
●斉藤良信(昭和25年生 東京都)
脳性まひによる四肢体幹まひ(1級)
『花びらはやさしく、その中にも力強く彫ってみました。
<書道>
「順風」他
●井村香千(大正14年生 東京都)
脳性まひ
『大字は体ごとぶつけて筆を動かします。細字は神経を集中し細やかな心で紙面に向かいます。色彩を用いる場合はまことに愉しんでにこにこしなが書きます。』
「秋萩の」(良寛のうた)
●鈴木美佐江(昭和12年生 東京都)
堅香子会/腎臓障害
「楚中秋思」
●竹内明峰(昭和29年生 東京都)
小児まひによる両下肢機能障害(2級)
『いつも半紙で練習することが多いので、今回のような大きめの作品は、どちらかというと苦手です。でも他の展覧会などでは、もっと大きい作品を書くこともあります。私は、これからもずっと書き続けていきたいと思っています。』
「秋興(杜甫作)」
●森霞邨(大正12年生 東京都)
謙慎書道会・書海社/両下肢まひ(1級)
『最近書道展で古文または篆書作品を見る機会が多いが正統的なものは甚だ少ない。そこで本格的な小篆で私の好きな杜甫の詩を書いてみました。』
<俳句>
「歩かぬは……」他
●花田春兆(大正14年生 束京都)
俳人協会・万縁・しののめ/脳性まひ(1級)
<書籍>
「がんばれろくしん先生」他
●井村千恵子(大正14年生 東京都)
脳性まひ(5級)
『自伝を童話風に幼い年齢そのままの語りで書くのが一番楽しい方法でした。この拙著は小学6年卒業で終わっていますが、その後は如何せん諸処の事情で筆が執れずにおります。つまんで書きたいとは思っているのですが。』
「もうひとつの太平洋戦争」(仁木悦子の著書の装画)
●大田利三(昭和16年生 静岡県)
日本表象美術協会/小児まひ(1級)
『生後7か月でポリオにかかり、歩行不可能のまま現在に至っています。私には青春時代はもちろん遊びたわむれる子ども時代もなかったため、失われた幼年期を取り戻したく、童心無邪気な世界を書き続けています。』
「さんちゃくあり、あさとともに」他
●香川紘子(昭和10年生 愛媛県)
日本現代詩人会/脳性まひ(1級)
『習性時代の初期は両親に口述筆記してもらいましたが、17~18歳以降は下書きは全部自筆で書けるようになりました。しかし、数年前から肩と腕の神経痛のためペンを持つことが極めて困難になりました。現在は電動カナタイプと口述筆記を併用しています。』
「ジロウプーチン日記」「あくたれわらしポコ』他
●北畠八穂(明治36年生 神奈川県)
日本文藝家協会
『人間は原罪の縄目をもつ、このことからの解放を志したいと思っています。』
「沈め夕陽」「パンドラの箱」他
●後藤安彦(昭和4年生 東京都)
日本推理作家協会・日本歌人クラブ/(2級)
「おんぶができなくてこあんね」「虹のたてごと」他
●島崎光正(大正8年生 東京都)
日本現代詩人会/両下肢障害(2級)
「常臥の歌」「はるかなる陽ざし」
●新堂博志(大正10年生 愛知県)
アララギ/(1級)
『私の生き方を多くの障害者に知らせ、障害者運動に役立てたいとの願いから歌集「常臥の歌」を出版いたしました。』
「終わりのない道」「ボンボンものがたり」
●永井明(故人 大正10年生)
脳性小児まひによる両下肢機能損傷、1970年逝去
『敬虔なクリスチャンでしたので、イエスキリストの栄光をどのような手段で児童文学作品に表現していくか、亡くなるまで追求し続けていました。』
「釣の魚」「赤い猫」他
●仁木悦子(昭和3年生 東京都)
日本推理作家協会/(1級)
「さざんか」「蕗の薹」他
●浜崎達美(昭和15年生 岡山県)
脳性まひ
「おんぶ」「お母さんのランドセル」他
●はらみちお(昭和3年生 広島県)
脳性まひ(2級)
『絵本「がんばれ」、エッセイ「車椅子からコンニチワ」を出版予定です。』
「花芯」「炎群」他
●横田弘(昭和8年生 神奈川県)
クラブ「しののめ」・詩人クラブ「象」/脳性まひ(2級)
『私の場合、両腕が不自由なので散文はすべて口述筆記です。言語障害も重いのでボランティアの方は大変だろうど思います。しかし、まだ書きたいことがたくさん残っています。どなたかそうした仕事に関わって下さる方はいらっしゃいませんか。ぜひ、ご協力をお願いします。』
「生きる日に」他
●矢島昭子(昭和2年生 東京都)
リウマチ友の会/リウマチ(2級)
『これは、私の生活の実際の記録です。慢性多発性関節リウマチによって不自由な体となり、さらに両親の病没にあってからは天涯孤独となってしまいました。そこに多くの知人に恵まれ、見知らぬ人々から肉親以上の愛を注がれたのです。この厚意以上の厚意を受ける度に、私はぜひとも文宇に変えて感謝を表したいと恩いました。』
<タイプアート>
「花」他
●伊藤隆夫(昭和31年生 東京都)
港区身障者の豊かな生活を進める会・風の子会・峰の会/脳性まひによる四肢体幹機能障害(1級)
『8色カラーリボンを使用して濃淡をつけ、写実的に奥行きを出すことに努めました。8色以外の色はリボンとリボンのつなぎ目の色が混ざったところを利用して効果を出すようにしています。』
「赤レンガの門」他
●今村政司(昭和32年生 千葉県)
千葉県肢体不自由児者父母の会/脳性まひ(1級)
『「赤レンガの門」はタイプアートコンテストに出品し入賞した作品と同じものになるよう、コピーを見ながら制作しました。「松島」は千葉市長室に贈呈した作品と同じような作品になるように制作したものです。』
<革画>
「オベリスクの前に立つドームのある教会(ローマにて)」
●鳴海幸保(昭和15年生 神奈川県)
アビリティーズ美術工芸クラブ・あかね会代表/進行性筋ジストロフィー(1級)
『5年前にヨーロッパ旅行をした際のローマ市内のいくつかの風景から選んで革絵にしました。先生がいませんので独力でやらねばならず、まだまだ半人前です。今後も努力して感性のある作品を作ってみたいと思います。』
<デッサン>
「虹のメッセージ」
●田原正美(昭和36年生 神奈川県)
サリドマイド(3級)
<洋画>
「フロイライン」
●浦田愛子(昭和20年生 神奈川県)
二科会・世界身体障害者芸術協会・アビリティーズ美術工芸クラブ/脳性まひ(1級)
『私は人形が好きで、いろいろな人形を描きましたが、白い歯がちらっとみえるビスクドールはかわいいし、絵画としては珍しいのではと思い描いてみました。』
「日暮れ」
●早瀬麻里(昭和36年生 神奈川県)
あかね会/四肢まひ(2級)
『窓から見た夕焼けがとてもきれいで描いてみたくなり、キャンバスに向かいました。夕焼け、コスモスともに初めての挑戦なので、うまく色が出せたかどうか……。』
「舞台のまり子」
●いとうあきひろ
ねむの木学園
「まリ子さん」
●かわむらたかゆき
ねむの木学園
「きりんの手紙
●ほんめつとむ
ねむの木学園
「雪のモビール」
●ほんめとしみつ
ねむの木学園
「赤い煙」
●わたなべとしお
ねむの木学園
「花」
●おかだかずよし
ねむの木学園
<陶芸竈>
「壺」
●松田永次(昭和34年生 長崎県)
三彩の里/脳性まひ(2級)
『脳性小児まひによる両下肢の著しい障害。養護学校卒業後、職業訓練校において洋裁の訓練を受けていたが目にも障害があるためそれを断念し、昭和53年10月三彩の里に入所。現在は柚薬の調整、窯焼成を勉強中です。』
「深鉢」
●山副幸男(昭和37年生 長崎県)
三彩の里/脳性まひ(3級)
『脳性小児まひによる右上下肢の障害、水頭症。幼児期よりほとんどを病院で生活する状態であったが、症状の固定化により昭和54年4月三彩の里に入所。片腕で大物の制作を勉強中です。』
「壷」
●金沢美保(昭和37年生 長い崎県)
三彩の里/交通事故による脳損傷(4級)
『交通事故後遺症による右上下肢の障害。長崎県更生指導所において洋裁の訓練を受けていたが断念。昭和53年4月三彩の里に入所。生来の明るさと邪気のない性格で訓練に励み、現在は電動ロクロに挑戦中です。』
<特別出典>
宮城道雄コーナー「検校の間」
作曲や随筆の著作などに使用した書斎。多数の名曲がこの部屋から誕生した。故人の住んだ部屋で現在残っているのは、葉山の別荘(雨の念仏荘〉とこの検校の間だけである。
「遠足」「本八幡駅「山の風景」
●山下清(故人 大正11年生 昭和46年逝去 東京都)
精神薄弱
千葉県八幡学園の出身。15~16年もの放浪生活を送り、さまざまな作品を残す。代表作には「長岡の花火」、「神宮外苑」などがある。
2 国際障害者年以前の状況
1--チャリティー協会の動き
昭和41年に発足した財団法人日本チャリティー協会は、障害をもつ人々の文化活動に力を入れてきたが、その30年の流れを概観してわが国の障害者の文化芸術活動を見てみる。
全国芸能コンクール
今まで家に閉じこもっていた人たちが外へ出て、パフォーマンスをやることによって、社会的に行動し、自己表現することによって自信を持つべきではないかと考え、始められた。施設の中では文化祭をやったり、施設で生産したものを展示したりしていたが、もっと純粋に、芸術的に、文化的に活動することによって障害者のもつ本質的なものを社会が認識することが必要ではないかということで手がけたのが芸能コンクールである。
障害者の多くが外へ出るチャンスもあまりなく、ましてやステージに立つなどというのは考えもつかないことで、そのような環境もチャンスもなかった中で、もっと積極的に自己表現をし、文化芸術活動に参加しようとした企画である。昭和45年に音楽・演劇・舞踊・作詞・作曲といった創作を公募し始めた。
カルチャースクール
昭和50年代の後半から、カルチャースクールをはじめ広範囲にわたる文化活動が始められた。文化センターづくりがスポーツセンター建設とともに始められた。
そのセンターの中での活動の一つがカルチャースクールであり、美術展であった。それまでは障害者の作品発表や作品展示というものは、授産とか機能訓練とか、情操教育とか施設の範囲のものに限られていたが、障害者の持っているエネルギーが純粋に、芸術的に、文化的に評価きれるべきだという主張がなされたのである。障害があると、悲観が先立って、夢や希望もない、すべてが終わりのような目で見るのではなくて、その人の特性に着目して、文化的な才能なり、参加意欲なりを引き出そうという努力がなされ始めた。
こうしたカルチャースクールの前提ともなったのが、障害児の校外スクールであり、文化活動を中心に社会的な参加を促進するきっかけづくりともなった。
また、より文化的な生活を目指して、音楽、演劇の鑑賞や美術展などへの参加を支援する動きが活発化した。車いすに乗った人が入場できるように劇場やコンサートホールが改造されたのも、こうした動きの結果と言えよう。
しかしながら、ようやく通常の文化芸術を楽しむレベルの参加であり、より主体的な文化芸術表現への参加は、後のこととなる。
こうした中で新たな活動が生まれためが、わたぼうしグループの動きであった。
2--わたぼうしの活動
わたぼうしの誕生
「わたぼうしコンサート」が誕生したのは1975年である。
奈良の重度の障害をもつ子どもを抱えた母親たちが、市民の協力を得て「たんぽぽの家」という自立の家づくりに立ち上がった。そのキャンペーンの一つとして、音楽好きな若者たちと手を組み、障害をもつ子どもの詩にメロディーをつけて歌うコンサートを思い立ったのである。
障害をもつ子どもが生きる証として書いた詩には、生きることの喜びや悲しみが歌われ、生きる強さや心の優しさがあふれていた。それらには、ともすれば忘れてしまいがちな生活感覚があり、希望や夢や願いに託した詩には、社会に対するメッセージが盛り込まれていた。これらがフォーク・ソングを歌っている若者たちの心をうった。
「日本のフォーク・ソングは、社会にメッセージを伝えるアメリカのフォーク・ソングに比べて矮小化されたものになっている。ほんとうのフォーク・ソングは、人々に生きる勇気や励ましを与えるためにあるのではないか。よりましな社会に変えていくためにあるのではないか。障害をもっ人たちの歌を歌うことが、日本のフォーク・ソングを生み出すことになるのではないか。」
社会の中で共に生きたい、人間として豊かに生きたい、そんな障害をもつ人たちの願いが世界中に広がってほしい。こんな思いを込めて「わたぼうしコンサート」と名づけられた最初のコンサートが、1975年4月26日、奈良県文化会館ホールで行われ、大成功を収めた。そして、その感動がレコード会社の好意でレコード化され、障害をもつ人たちの心を歌うコンサートは、全国で大きな反響を呼び起こした。
アマチュアだけのコンサート、障害をもつ人たちの詩を歌うコンサート。これを1500人のホールでやることは一種の賭でもあった。しかし、それには理由があった。
社会において障害者問題は大事な問題であるとされながら、それはいつも社会の片隅で語られている。ほんとうに重要なら、社会の真正面に持っていくべきだ。一流のミュージシャンたちが立ち、多くの人たちが見るステージこそ、ふさわしいステージである。そこで歌い上げてこそ、障害をもつ人たちの詩が新しい命を受ける。
全国各地から寄せられる手応えをバックにして、翌1976年に「全国わたぼうし音楽祭」を開くことになった。「詩を書いている障害をもつ人たちが、全国にたくさんいるはずだ。そういう人たちを奈良に招いて交流したらすばらしいだろう」という思いからである。特別なスポンサーもないのに、このような企画を立てるのは、まさに冒険に近いことだが、最初のコンサートの感動がはずみとなって、全員が切符売りや資金集めに奔走し、熱狂のうちに本番を迎えたのである。
そこで発表される作品は、全国から公募した作詩の部の作品をまず選考し、その作品の作曲を再公募し、改めて作詩・作曲の部で選考するというやり方で決めた。障害をもつ人たち、障害児の母親、養護学校の先生、ボランティアといった誰でも参加できる開かれた選考会では、多数得点を即入選としてしまわないで、少数得点の応援演説を聞いてから決めるという方法をとった。「多数決は必ずしもよいとは限らない。少数派にも十分な配慮をするべきだ」という考えからだ。
問われそいるのは、常にわれわれの社会の側である、という問題認識のもとに、この「わたぼうし音楽祭」では、「審査する側が審査されている」というポリシーで選考されている。だから、詩としてきれいにまとまったものが、必ずしも入選するとは限らない。詩としてはまとまりに欠けるが、ファンタジーにあふれた詩、心をなごますユーモラスな詩など個性あるものが選ばれることが多いのも特色である。
「ビューティフル・コミュニケーション--わかりあえることは素晴らしい」というコンセプトから、耳の不自由な人たちにも楽しめるように手話通訳(まるでダンスを見るような通訳)を取り入れ、目の不自由な人たちのために点字のプログラムを用意するなど新しい試みに取り組んだ。
初めての「わたぼうし音楽祭」と相前後して「わたぼうし全国縦断コンサート」が始まった。
これは、地域のさまざまな人たちが実行委員会をつくり、社会のいろんな人たちに働きかけ、いわゆるネットワーキングしながらコンサートを実現していく方式がとられた。また、地元でも発表する曲を募集し、それを地元の歌うボランティアが歌うというジョイント形式が多くとられた。このため、若者たちの間で障害者問題への関心が高まり、いろいろなボランティア活動が生まれて、「わたぼうしコンサート」は福祉風土をつくるための種まきとなったのである。
そして、何よりも大きなことは、障害をもつ人たちがコンサートをきっかけに町に積極的に出始めたことだ。それまで障害をもつ人たちは、社会の偏見と差別の前にたじろぎ、社会の無関心に絶望を感じていた。だが、このコンサートを通じて、同じ社会の仲間として受け入れてくれ、また、可能性を評価してくれる人たちがいることを知ったのだ。
例えば、「わたぼうしコンサート」に入選した障害をもつ人が、次は実行委員として参加し、やがて実行委員長となり、その後も地域で活躍しているケースや、自伝などを発表したケースも数知れない。
北は北海道から南は沖縄まで、全国各地を飛び続けた「わたぼうしコンサート」は、現在まで約500か所を超えるところで開かれ、約50万人を超える人たちの参加が推定される。ところによってはテレビ中継やラジオ中継もあったので、もっと多くの人たちが見たり聞いたりしているかもしれない。
スターもアイドルもいないアマチュアのコンサートが、どうしてこれだけの人を集めることができたのだろうか。スポンサーもついていないコンサートが、どうしてこのように続いたのだろうか。
人間のいのちの尊さ、共に生きることの素晴らしさを文化の形にして見せたこともあるだろう。そうしたものをテーマにすることは、これまでマイナーに見られていたが、「わたぼうし」では「重いことを軽く、軽いことを深く」見せる、明るく楽しいパフォーマンスに仕立て上げたからだろう。
また、社会的不公平をにくみ、共に生きることを望む社会意識から生まれてきたからこそ、今日まで続けてこられたといえるだろう。社会意識から生まれたものは、人々にとってなくてはならないものだから、その精神を人々が支えてくれるからである。
その後のわたぼうしグループの動き
「わたぼうし」の文化戦略は、障害をもつ人たちの文化の市民権を獲得する一方で、地域で共に生きる社会を実現させることである。そのためにも、音楽以外にも文学、芸能といった面そも新しい試みを展開している。1981年の国際障害者年を記念して、わが国で初めての障害をもつ人たちの文学コンクール「わたぼうし文学賞」を設け、これまでに童話や自分史の部門で優れた作品を世に出してきた。1990年の国際識字年にはアジア・太平洋地域にも活動範囲を広げ、ユニークな国際コンクールとして注目を集めている。
また、障害をもつ人たちが民話の語りを学ぶ「わたぼうし語り部学校」を1989年から開講し、新しい文化活動を試みている。これは言語に障害をもつ人たちがリハビリテーションをしながら、語り部として自立を図ろう、というものである。
「わたぼうし」の大きな特色は、社会のさまざまな人たちを立場を超えてつなぐネットワーキング方式をとっていることだろう。1981年の国際障害者年に開いた「世界わたぼうし音楽祭」も、世界各国のネットワークと日本の社会のさまざまな応援、とりわけ全国各地の「わたぼうしコンサート」実行委員会の支援を得て開くことができた。この10年来取り組んでいる上海市の障害者芸術団による文化交流も、全国各地のネットワークで実現している。
1990年代は、貧困と障害の二重苦にあえぐアジアの障害児を援助するためた「アジアわたぼうし音楽祭」をシンガポール、ソウル、上海、バンコックなどの都市で開く一方、CBR(コミュニティ・べースによるリハビリテーション)のネツトワークをつくる構想がある。
主題・副題:障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告書 平成6年度