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平成6年度障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告

3 国際障害者年(1981年)以降

 1--わたぼうしの新展開……語り部

 語り部学校の開講

 奈良にある財団法人たんぽぽの家では、障害をもつ人たちの文化活動を支援し、芸術文化を広く深いものにするために「わたぼうしコンサート」や「わたぼうし文学賞」などのさまざまな活動を行ってきている。たんぽぽの家が障害をもつ「語り部」に注目し始めたのは、1980年代に入ってからである。現在、たんぽぽの家にはさまざまな障害をもつ24人のメンバーが毎日通ってきてそれぞれの自立を目指しているが、その中の1人の女性上埜英世さんは語りをライフワークにしている。
 彼女は重度の脳性まひで手足がまったく動かず、緊張が強く、少し言語障害もある。そんな彼女がおしゃべり好きな口を生かして何かできないものかと思いついたのが「語り」であった。語りにも自伝や童話などいろいろあるが、彼女は主に民話を語る。これまで、「話を聞かせる」ということを障害をもつ人たち(とりわけ、言語障害をもつ人たち)が実際に行うなど誰も考えなかったことかもしれない。けれども障害があるからこそ、それがその人の個性となってさらに人の気持ちを引きつけるのである。彼女も最初は地元のわたぼうしコンサートや小さなパーティーに出演するぐらいだったが、今では地方で開催するわたぼうしコンサートはもちろん、福祉関係や教育関係の研修会などに呼ばれたり、灰谷健次郎氏とのジョイントをしたりいろいろなところに出演している。特に秋は毎日のように「語り」をして全国を横断している。たんぽぽの家では彼女に引き続いて語り部を目指すメンバーも増えてきた。
 また、さらに多くの障害をもつ人たちと語りの文化を作り上げていくために、1989年、俳優の沼田曜一氏を校長に、「わたぼうし語り部学校」を開講した。これは全国の障害をもつ人たちを対象に、通信教育の方法で講習を受けることができるようになっている。そして、年に3回スクーリングのために受講生が奈良に集まってお互いに聞きあったり、実際に芝居や語りをしているプロの人たちの演技や語りを聞いてトレーニングをしている。毎年最後のスクーリングには発表会を行うが、受講生たちはびっくりするほど上手になっていくのである。演劇活動をしていた人、アナウンサーの勉強をした人などがボランティアとして関わり、独自のカリキュラムを作、楽しみながら語りを学べるトレーニング法を開発した。そして生徒から送られてくるカセットテープにアドバイスを加える形で、自宅でも練習が重ねられるように工夫している。音楽を取り入れた体操などで体をほぐし、声をコントロールする発声練習にも力を入れているのでリハビリ効果もあり、相手に聞きやすい話し方になっていくようだ。
 この学校では、発声の方法、表現のつけかた、間の取り方など基本的な技術を教える。しかし、語る技術ばかりを教えるのではなく、語りの心を愛情を込めて辛抱強く教え、何よりも生徒たちにやる気を起こさせることに力を入れている。生徒たちははじめは課題となった民話で練習しているが、やがて自分にあった話を見つけたり、自分で民話を創作して語るようになる。開講後3年間、約40人の障害をもつ人たちが語り部として巣立っていった。彼らは、それぞれの地域で現在活躍中である。また、語り芸をさらに極めるために継続した学びを希望する人もあり、財団では専科コースを設け、フォローアップも続けている。
 前述の上埜さんが民話の語りにひとかたならぬ関心を持ったのは、1980年の「たんぽぽの家」の完成式に、俳優の沼田曜一氏が語りを披露してくれたのを聞いたからだ。日本人の心のふるさとともいうべき民話の世界を、限りない愛情を持って語る「沼田民話」のとりこになってしまった。このとき、いつの日にか一緒に語ることを夢みたのである。
 それから3年後、その夢が実現した。彼女の生まれた町で開かれた沼田氏の語りの会で、語りを学んでいる仲間とともに前座を務めることになった。1000人近い聴衆の前で語るのは初めてだった。目もくらむスポットライトがあたると、手足が激しく不随意運動を起こし、車いすの上で前進が前後左右に揺れた。体の奥底から、やっとのことで声をしぼり出した。
 言葉があがくようにして出てくる障害をもつ人の語り芸。初めて聞く人にとって、まさに驚きであった。しかし、聴衆はその迫力にいつしか飲み込まれ、聞き取りにくい部分を自分たちのありったけの想像力を駆使して聞き取っていった。彼女たちが満身の力を振りしぼって語り終えたとき、沼田氏は、「語るべきものを持った人が語る。これが本当の語りなんです」と聴衆に話しかけた。
 人の心を揺さぶり、その魂を目覚めさせる。そんな語り芸を目指しているのが、わたぼうしの語り部たちである。障害をもつ人たち、なかでも言語に障害のある人たちが、語り芸に挑戦しているという話をしても、最初は誰も信じてくれなかった。「語りは流暢でうまくあらねばならない」というのが、わたしたちの常識となっているからである。だが、わたぼうしの語り部たちは、あがくように語ることで、この常識を破り、多くの人々の心をつかんでしまった。
 財団法人たんぽぽの家が、障害をもつ人の語り芸に取り組むようになったのは1980年からである。「たんぽぽの家」に通ってくる脳性まひの女性が、「たんぽぽ自由学校」の「おはなし教室」で語りに初めて挑戦した。言語障害のある彼女は、小さい頃からリハビリの一つとして本の音読を続けてきた。介助の手を借りないと何もできない彼女に残された可能性の一つは、障害のある言葉であった。
 他人には聞き取りにくいところもあるけれども、大きく出るこの声を生かして、生きがいを見つけだすことができないか。自分の好きな民話を語ることを通して、自分なりの社会参加ができないだろうか。そう考えた彼女は、紙芝居を持って子ども文庫を回る活動を始めた。これをきっかけに全国各地から彼女たちの語りを聞こうという公演依頼が増えてきた。「役者は拍手によって育つ」という言葉があるが、まさに、わたぼうしの語り部たちは、まわりの温かい応援と多くの励ましによって成長していった。
 「わたぼうし語り部学校」での語り部たちの養成とともに、ここから育った語り部たちに各地で開かれる「わたぼうしコンサート」などに出演してもらうほか、さまざまな催しに出番をつくる努力もなされている。そしてこれに刺激を受けた宮崎、静岡などでも、障害をもつ人たち向けの語りの教室が開かれるようになった。「わたぼうし語り部学校」でも、全国数か所で「移動セミナー」を開き、語り芸に関心のある人たちに学ぶ機会をつくることにしている。
 国連・障害者の十年の最終年の1992年、3月にわが国で初めての障害者芸術祭「とっておきの芸術祭」が大阪で開かれたのにあわせて、初めての「わたぼうし語り部芸術祭」を奈良で開いた。全国各地で語り芸と取り組んでいる障害をもつ人たち8人が、さまざまに趣向を凝らして白分たちの語りの世界を披露した。そして最終年の記念イベントである国民会議芸術祭に協賛して、11月30日に、束京銀座セゾン劇場で初めての「わたぼうし語り部コンクール」を開いた。
 このコンクールのねらいは二つある。一つは、語り芸に挑戦している障害をもつ人たちに“花”を持たせることである。わたしたちは常々、苦しみや悲しみを乗り越えようとする人たち、自分のからだを使い切って人間としての尊厳を体現している人たちにこそ“花”が必要だと考えたからだ。もう一つは、語り芸がもう一つの芸術として確立していくために、お互いが磨きあう機会をつくることであった。
 同じ年、スウェーデンの知的に障害をもつ人たちのロックグループ「エコー」が招かれ、13の都市で公演が行われた。この「エコー」は、日本人の音楽セラピスト、大滝昌之氏が育ててきたもので、白分たちの音楽活動で経済的にも賄えるようなプロフェッショナル(生活協同組合方式)を目指している。
 その大滝氏は、「知的障害者に“生産”に役立つ技能を教え込み、産業社会に送り出すことだけがノーマライゼーションではありません。もっと大切なことは、人間としてうちにもっている可能性をのばし、他者と共感できる感性を育てることです」と話している。
 わたぼうしの語り芸の意義も、まさにこの点にある。

 2--とっておきの芸術祭

1990~91年(平成2年度)、財団法人日本障害者リハビリテーション協会は、芸術祭研究企画委員会とともに、障害者の芸術祭開催のための研究を行った。これは、障害をもつ人々の文化的活動への参加をすすめるとともに、障害をもつ人と障害のない人が共につくる新しい可能性について探るためのものである。従来、精神障害者・身体障害者等でそれぞれの障害別に音楽・絵画・演劇等の芸術活動が実施されてきた。全国各地で行われてきたこれらのさまざまな文化活動や行事とそれぞれの目指すものについて調査・検討し、障害をもつ人々に係る芸術祭のあり方をまとめ、実際に芸術祭の開催を目指した。
 この結果、芸術祭は、ノーマライゼーション、ボーダーレス、チャンスの平準化、アジア文化志向、スクランブルを理念にすることが確認された。また、芸術祭実現のために、既存ネットワークの保護・育成と協調、障害の特徴を生かした創造的文化活動の開拓、活動参加における物理的、心理的、財政的援助、障害者を中心とする地域拠点づくり、全国・国際的規模での障害者芸術祭の定期的開催、保護・奨励のための新財団または新協会の設立等も確認されている。
 この研究をもとに、1992年、「とっておきの芸術祭」が企画、開催された。本芸術祭は、障害者の文化活動への参加を推進するとともに、一般市民との交流を通じて、障害者が文化活動に参加できる可能性についての認識を深めるため、障害者の音楽、パフォーマンス、美術等の総合的な芸術祭を全国規模で行うものであった。

 芸術祭の開催

「とっておきの芸術祭」は、「障害をもつ人々の芸術は社会の大切なコミュニケーションメディアです」をテーマに、3月17日から3日間にわたって大阪市天保山ハーバービレッジ、海遊館をメイン会場として開かれた。障害をもつ人の芸術活動とこれに共鳴する一般芸術家の作品・パフォーマンスが一堂に会して、総合的に披露された。会場は大阪名物の巨大水族館「海遊館」。マーケットプレースという商店街があり、平日でも多くの買い物客などが集まるところである。ホールは自由入場制、観客の行き交う広場でのパフォーマンス、商店街の真ん中に舞台をしつらえる等、まさに街の中で展開される芸術祭となった。ステージ4か所で歌、ミュージカル、朗読、落語、太鼓などが披露され、展示会場には絵画、書、陶芸、手織が出品された。また、観客が実際に芸術活動に参加できるアートストップという場も作られた。さらにワークショップでは障害者の芸術活動の方法を講義するミニセミナーも開かれた。この間、障害者の芸術活動をテーマとしたシンポジウムが五つも行われた。
 出展作品は約1000点、ステージ数約50回、出演者約500人を数え、北は北海道から南は沖縄までの日本各地からの一般市民を含めたフェスティバルへの直接参加者総数は約2万8000人である。
 このほか、アイスランド、アメリカ、イギリス、インドネシア、オーストラリア、オーストリア、カナダ、ガーナ、スウェーデン、スリナム、タイランド、台湾、香港、マレーシアの14か国から67人の外国人参加を見るなど、国際色も豊かなお祭りであった。
 文字通り、人種や国籍を問わず、年齢や障害の有無や種類、重さ軽さを問わず、また行う創造的活動の個性や創造性の違いのすばらしさを体験できる楽しさを確かめることを問うたお祭りでもあった。

 展開されたユニークなプログラム

企画全体が壮大なそして多岐にわたるユニークな試みであったが、特に開催の趣旨を象徴する障害をもつ人の参加するアートは、以下に述べるネットアートであった。

数千点のネットアート

 マーケットプレイス正面には、「太陽」と「人」というテーマで日本中の障害者から寄せられた掌大の小品千数百点を10m×10mという巨大なネットにつけてそれをつり下げた。しかしこれは、マーケットプレイスの正面に位置し、野外でもあるので風雨の心配があった。このため、10cm間隔の網に掌大のものに限ってつるすことにした。また、布や紙などは雨水を含むと重くなるので、ビニールやセロファンなどの素材を用い、絵具も油性のものに限って制作された。このような制限があったにもかかわらず、ビニールの卵ケースなど意外でおもしろい材料が見つかり、多くの作品が集まった。

 このほかにも多くの試みがあり、全体を見た光野有次氏(デザイナー)は、次のように見聞記を残している。

ターミナルホール

 大ホールに入ると、まず岩下哲士さんの大仏さまの絵が迎えてくれた。彼の絵は大胆な構図とモチーフのユニークさ、そして力強さと豊かな色彩に多くの人が引きつけられる。描かれている世界に優しさと、その奥に潜む何か深いものがある。命への祈りなのか。あとで知ったが、この作者、1969年の生まれというから驚いた。
 今回の「とっておきの芸術祭」のシンボルマークとともに、多くの人の目に触れた、あの暖かみのある文字を書いた乾千恵さんの書のコーナーもあり、魅力的な作品が並んでいた。通常、書と絵画は分けられるようだが、そういう分け方はほとんど意味のないことと思っていたが、今回さらにその意を強くした。まあ、強いて分けようというなら、平面の部、立体の部というくらいでどうだろうか。
 立体作品といえば、千葉県立盲学校の生徒らの作品。実はひさしぶりに初恋の人に再会するときのようなわくわく気分で見せていただいた。そして今回は、目を閉じてゆっくりと手のひらで触ってみた。十数年前、確か束京のNHKホールだったと思うが、そこで初めて彼らの作品に出会い、そのときの感動はずっと忘れられなかった。ひょっとしたら、ここで再会できるのではという淡い期待があったのだ。彼らの作品は、造形のおもしろさなどと一言で片づけられない何かがある。たおやかさのなかにひょいとのぞいてくるシャープな緊張感が、不思議な気分にしてくれる。
 長崎から参加した永元さんの作品もスペースの関係でわずかしか展示できなかったが、身びいきでなく、多くの人に高い評価を得ていたのは確かだ。この会場の中央には、さをりで構成された塔が、あたかも人間の手で作られた命の木のように大きく枝を広げ、会場の人々を暖かく包み込んでいた。
 全国には、すでに有名になっている人だけでなく、そうでない人でもすばらしい作品を生みだしている人も少なくないことが今回よくわかった。今後は、このような企画で鑑賞するのにもっと良い条件の場で、例えば本格的な美術館などで見せていただきたいと思った。もちろん、各々作者の方は、既存の美術展や個展で活躍されていいのだが、それとはまた別に、こんな形の場を年に一度、そう、野球のオールスター戦みたいに開催されるといいなと思うのは僕だけだろうか。

エコーとあぶあぶあ

 今回特色のある二つのバンドの参加があり、実に楽しかった。スウェーデンのプロのロックバンド、「エコー」は総勢16名。うち4名のプロの指導員(?)がメインの音を出すが、12名も負けずに舞台を盛り上げる。彼らのよく鍛えられたリズム感と、皆を引き込んでしまう力はなかなかのもので、プロの意気込みが感じられ快かった。
 一方、日本の「楽団あぶあぶあ」は、まず自分らの楽しみ、趣味としての音楽で、どちらかといえば日曜画家みたいに見えた。プロとアマの違いといえばそうなるのかもしれないが、共通しているのは、単なるサービス精神でなく、白分らの盛り上がった楽しい気分を集まった人々と共有したいという思いが十分に込められたステージであるということだ。この特色あるスウェーデンと日本のバンドが、なんとジョイントしたのである。僕は近鉄劇場でその歴史的な場面に遭遇することができた。ラッキーだった。
 芸術は言葉も国境も越え、そして障害も越えることができるという事実に、僕は深くうなずいてしまった。条件さえ整えば、人は人と出会え、そして共感することができるのだ。

語り部と落語

 手の不自由な人に、手先を使う単純な作業を知ることの不合理さは、最近は誰にも理解してもらえるようになってきたが、逆にそれを武器にする人たちも現れた。「障害」を一つの個性ととらえ、それまでマイナスとされてきたものをコペルニクス的にプラスに逆転させている元気者たちが、日本でも増えてきている。
 今回、北九州から来られた岩井さんの語りを聞くチャンスがあった。岩井さんは車いすを利用している女性で、言葉はさほど不自由ではないが、独特のしゃべり方をされる。その岩井さんが、「語り」という一つのジャンルに挑戦し、見事にそれを「やっと見つけた生きがい」にまでしてしまった。
 岩井さんに特別にお願いして少しやってもらった。彼女のクセの強いしゃべりに最初の数分は正直とまどったが、それが物語の進行とともに、ぐんぐん引き込まれ、そのしゃべりが独特の輝きとなった。そういえば「昔、○○という人がおったげなあ」と語る常田富士男さんもクセの強いしゃべりであり、またそれが彼の売りでもあるのと共通しているようだ。
 海遊館ホールでは、手話落語も演じられた。言葉がなくても落語は笑える。身振り手振りの巧みさと、もう一つはその表情である。それは、舞台から少し離れた席にも十分なくらい、顔全体、いや体全体で表現し笑わせてくれた。いやはやまた驚き感激。

ミュージカルと神楽

 僕はミュージカルと聞けば反射的に「ウエストサイド物語」を思い出し、ミュージカルスターは、歌って踊れて演技ができ、しかもかっこうよい人じゃなきゃならないと思っていた。いや、今回のとっておきのミュージカルに出会うまでは、そう思い込んでいたのだ。
 ところが、踊れる奴は踊ればよい、歌える奴は思いきり歌えばいいし、せりふのできる人がせりふを言えばいいし、手を動かせる人、足を動かせる人、それぞれに自分のできることを自分のやり方で気持ちよくやれば、それでミュージカルになるという舞台があったのだ。「これから10年かけて完成させる」という東野洋子さんの意気込みと、そのユニークな発想に大拍手。
 神楽と接するのは初めてだったが、この桑の木園の大蛇の舞は、エライ迫力だった。世界中の人々に自慢して見せたくなった。神楽は実は、メイド・イン・ジャパンのミュージカルだったのだ。

 3--とっておきの芸術祭の評価

見聞記を残した光野氏は、この芸術祭全体の感想を次のように記している。

 芸術の始まりはいわゆる食うための生産活動とは全く別のもので、遊びとか暇つぶしみたいなものだったのかもしれない。きっとそれは、人類の発生と同時に始まったはずで、地球上のあちこちで自然発生的に始まったものだろう。
 今日の社会で「芸術」と名づけられたものは、そういう人類史のふるいにかけられ、洗練されたものなのだ。今日、美術や音楽、舞踊などと呼ばれるものはすべて歴史によって認定され、しかも安全性も保証されたものばかりなのである。もっとポジティブに言うなら、芸術というのは本来、人類を生き生きさせるものなのだ。だから命の糧とも言われる。食料とは別のもう一つの命の糧の生産者を、人類はやはりそれなりに大事に扱ってきた。だから今日の社会にプロの芸術家が存在するのだろう。
 心身にハンディをもつが故に、ミューズの女神とストレートに出会ってしまった幸せな人々によって、僕たちは、白分自身の奥深くに眠らされていた大切なものを少し目覚めさせることができたようだ。僕たちは、目の前の豊かさを求めすぎたために、人生を忙しくしてしまったようだ。
 芸術という人類不変の元気旗のもとに、身体障害も知的障害も視覚障害も聴覚障害などの別なく楽しく集えたという事実を、これからも大切にしていきたい。
  才能=情熱×時間=∞

 また、障害をもつ芸術家であるはらみちお氏は、「とっておきの芸術祭ありがとう!すばらしかった。衝撃的な提言は見られませんでしたが、確かにグローバルでゆるやかに共生している感触を感じました」と述べている。
 ともあれ、大阪の地から日本においても、障害をもつ人々の芸術活動を媒介とした相互理解のための試みが、ささやかながら「とっておきの芸術祭」として産声を上げた。これを機に、日本各地においてこのような試みがその地域の文化に色濃く染め上げられつつ恒常的に開催されるきっかけとなった芸術祭であった。

 4--ベリー・スペシャル・アーツの日本での展開

 ベリー・スペシャル・アーツとは

 VERY SPECIAL ARTS(以下VSA)は、1974年ワシントンDCのジョン・F・ケネディーセンターフォーザパフォーミングアーツの教育支部として、心身に障害をもつ子ども、青年、大人のため、質の高い芸術活動を対等にするよう設立された。
 創設者のジーン・ケネディ・スミスは政界にも深いつながりがあり、VSAはアメリカ議会に指名され、障害者の福祉に寄与する団体として、多額の予算を政府より受けている。本部事務所はケネディセンターに置き、全米50州に支部をもち各州の障害者の芸術活動を支援している。
 1984年に創立10周年を記念して、ワシントンのキャピトル・ヒル(国会議事堂のある丘)一帯で、盛大な全米大会を開催した。この大会は全国に報道され、障害者にこそ芸術が必要だという考え方が話題を呼んだ。
 この大成功を受けて、5年ごとに大会を開催することが決定され、同時に、国際部門として、VSAインターナショナルが新たに設けられた。現在では世界の50数か国に支部をもっている。そして、世界に広がりつつある「すべての人が芸術に参加することによって、文化的、教育的な利益が得られる」という認識が、広く理解されるよう活動を進めている。
 VSAは、演劇や踊りや音楽、文学、映像などの芸術の場を通じて、各個人の生活を豊かにするために役立っている。アメリカ全土で、100万人以上、1万5000の団体が、VSAの活動に参加した。その中には、パフォーマンスや展示、ワークショップ、トレーニングの集まりなどが含まれている。
 VSAの祭りは、活動の中心であり、1年間の努力の成果の発表の場の頂点である。1989年にはアメリカだけでも650以上の祭りが開かれた。そしてそこで障害者たちが自分たちの芸術的成果を祝い、分かち合える。

 VSA世界大会は、どのような理念で開催されたのか

 1989年6月、ワシントンDCに1000人以上の心身に障害のある人たちが全米のすべての州と51の国から集まった。そして、楽しい友情あふれた自己表現の4日間を過ごした。
 絵や詩、劇や踊り、音楽やパントマイムなどが彼らの言葉となる。そして、彼らの創造的な作品を通じて世界に向けてのメッセージが送られる。
 これが1989年ベリー・スペシャル・アーツ世界大会で、ハンディをもった人たちの芸術の力を示す祝賀会である。
 障害をもった芸術家たちが、全米から集まった1984年のベリー・スペシャル・アーツ全国大会にならって、1989年ベリー・スペシャル・アーツ世界大会においても、51の国からのパフォーマンスやワークショップ、展示、質の高い芸術の実地講習会などが呼び物となった。
 祭りに参加する人は、芸術活動の喜びをワシントンDCじゅう--ホワイトハウス、キャピトル・ヒル(国会議事堂)、ジョージタウン大学のキャンパス、そしてジョン・F・ケネディセンターのステージなどで分かち合う。映画や演劇、ダンス、音楽、純粋芸術の世界で最も卓越した芸術が、何人か両親や先生やボランティアやベリー・スペシャル・アーツと世界じゅうの支部によって実行される模範のプログラムや先進の技術の展示に加わる。
 「障害者の芸術が社会の奔流に仲間入りすること、そして、世間の注目を浴びることが目的のひとつである」
 芸術祭を各地で開く手助けをするのがベリー・スペシャル・アーツの仕事である。

 ベリー・スペシャル・アーツ・ジャパンの歩み

 1988年6月に、日本の芸術家と障害者の組織の代表が、外務省や厚生省を通じて、日本障害者リハビリテーション協会に召集され、米国ワシントンに本部を置くベリー・スペシャル・アーツ(VSA)の創始者のジーン・ケネディ・スミス氏と会談した。出席者は厚生省、聾・盲・知的障害者などの組織の代表の他に、ギャラリー・TOM、日本点字図書館、ねむの木学園、さをりひろばなどであった。話の内容は、VSAの組織拡大と、次の年に予定されていた第1回VSA世界大会への参加要請であった。
 これに応えて、さをりひろばの呼びかけにより、12人の知恵遅れの人たちを中心とした35人の代表が、1989年6月ワシントンDCで開催されたVSA世界大会に参加した。この世界大会参加をきっかけに、VSAジャパンはさをりひろば内に発足した。世界大会では、障害者自らが織り上げたカラフルな布で作った服を着てのファッションショーを行い、参加者に強いインパクトを与え、また、独特の織り方を参加者に教えるアート・ストップも大好評を博し、VSAの仲間に入ることを強く希望され、アソシェイツとして登録された。また、同時にメイン州のVSAに障害者のために特別に配慮された織機を寄贈し、その後も交流を深めている。
 これが、ベリー・スペシャル・アーツ・ジャパン(VSAジャパン)の始まりである。
 VSAジャパンは積極的に啓発活動を繰り広げ、中でもこの年の12月に銀座のソニー・ビルで開催した「無心に織る展」では、1万5000人以上の入場者を数えた。

 以下、その後のVSAジャパンの主な活動を例記する。

○1990年4月10日~14日:第1回国際障害者のための手織教育研究会を開催し、オーストリア、ベルギー、アイスランド、インド、スリランカ、台湾などVSAインターナショナルのディレクターなど、12か国37人を招いて、VSAの精神をはじめ、幅広い議題で討議。
○1990年6月:韓国のソウルで展示会や講習会をもち、身体障害者福祉施設に織機を2台寄付。
○1990年8月:西インド諸島、トリニダッド・トバゴにおいて、「カリブ海さをり夏季講習会」を開き、多くの参加者に手織を指導した。
○1991年8月:香港で開かれた第3回国際アビリンピックに参加し、レジャーの部門で銀メダルを獲得した。
○1991年11月14日~18日:VSA台湾主催「VSA世界大会」に参加(世界中から60か国の参加)。VSAジャパンは障害をもつ人8人とともに参加し、参加各国との絆をより強くした。
○1992年3月:大阪天保山における「とっておきの芸術祭」に参加。芸術祭の運営に中心的な役割を果たし、VSAの代表など15か国からの参加者を招待した。
○1992年3月21日~24日:「第2回障害者のための手織教育研究会」を開催。新しい考え方の手織や仕立て方をはじめ、障害者の芸術についても幅広い討論の場をもった。
○1992年7月:「VSAインターナショナル・デイレクター会議」(55か国の代表が参加)に出席し、さをりの講習会を開いた。
○1992年11月:VSAインド主催「障害者芸術祭」に招かれ、手織の講習会を開いた。10人が参加し、12台の織機を寄贈した。
○1993年4月:VSA台湾の障害者のコーラスや車いすダンスグループとのジョイントコンサートを開いた。
○1993年9月:大阪や神戸で「とっておきの芸術祭(VSAフェスティバル)」を開催。参加者に、障害者の芸術が、ある意味では障害をもたない人たちの手本となるようなものであることの認識を広めた。インドネシア、タイ、モンゴル、マレーシアなどの研修生を受け入れ、障害者に対する手織の導入方法などを指導した。
○1993年10月:沖縄で「第1回アジア太平洋NGO会議」が開催され、VSAジャパンの展示と実演を行った。
○1994年2月:VSAシンガポールの招きで障害者施設の指導者を対象とした「さをり講習会」を開催、6人参加した。
○1994年5月3日~5日:ベルギーのブリュッセルで「第2回VSA世界大会」が開催され、VSAジャパンから障害者や保護者など総勢35名が参加した。
 展示部門では、さをりの織物と善人工房の陶芸などが展示の中心に飾られた。さをりのワークショップや陶芸の指導など、多くの人に囲まれて指導に当たった障害をもつ人たちにとって、大いなる自信を持つ機会となった。また、あちこちで海外の参加者と直接交流する場面が数多くあった。中でもサヨナラパーティーのディスコでは、身体障害者や知的障害をもつ人たちとの交流が盛んに行われ、日本からの参加者は興奮の渦の中で多くのものを学んだに違いない。また、同時に開催されたヒロヤマガタのワークショップには、日本から応募した岩下哲士氏が選ばれ、実演を行った。この大会には、大阪府や京都府の職員も見学に訪れ、この様子は多くの場で紹介され芸術祭開催の参考にされた。
○1994年6月:「VSA生命の衝動展」が上野の森美術館で開かれ、高松宮ご夫妻のご臨席をいただいて開会した。
○1994年7月:フイリピンのマニラで開催された「第2回アジア太平洋NGO会議」に出席、さをり布の展示と実演を行った。VSAフィリピンの障害をもつ人たち47人に出席を依頼し、閉会式における手織作品のファッションショーを行い、大好評を博した。また、障害者用の手織機を1台寄贈した。
○1994年8月:VSAジャマイカに手織機を1台寄贈し、キングストンを訪問した女性が基礎的なことを指導した。
 「アジア・太平洋とっておきの芸術祭in熊本(VSAフヱスティバル)」が開催され、インド、フィリピン、香港、台湾、オーストラリアから総勢19名が参加した。それぞれ、展示や実演を行い、また手織の講習会にも参加し、VSAジャパンから手織機を各国に1台ずつ寄贈した。
○1994年9月:VSAシンガポールを訪問し、2月の講習会の成果の見聞と指導を行った。
○1994年10月:「全国都市緑化フェア」(京都)に参加し、展示や演奏、ワークショップなどを行った。
○1994年12月:フィリピンのフェスティバルに代表を送り、講習会を開催するほか、7月の講習会の成果の見聞と指導を行った。
 「アジア・太平洋とっておきの芸術祭inふくやま」にVSAのアジア地区の作品を出展。同時に福山、尾道、広島などで、VSAオーストラリアのカトリーナ・ブル氏の絵画のワークショップを行った。

 以上のように、VSAジャパンの活動は密接に本部との連係を持ちながら、同時に日本国内での芸術祭開催の支援や海外のVSAに対する手織機の寄贈や講習会の開催など、独自の活動を展開している。

5--重度重複障害者の音楽活動

ミックバラーズ(盲・知的障害)

 身体障害と知的障害の重複障害をもつ人々の生活の中にも文化活動の重要性と可能性が広がっている。
 ここでは、ミックバラーズを一つの典型的な例として紹介する。
 ミックバラーズというのは、福井県にある社会福祉法人・光道園(5種類の身体障害者施設と3種類の老人施設を運営)に入所し生活訓練に励んでいる盲重複障害者(視覚障害に加え知能・肢体・聴覚等のダブルハンディ)9人で編成された音楽愛好グループである。昭和32年に創設したこの光道園は、同41年全国で初めての盲重複障害者の専門施設を開設した。その後も全国的な関係者の要望が強く、相次ぐ増設を重ね授産から療護施設に至る各施設に330余名が全国各地から訪れ生活している。
 入所以前、彼らの置かれていた状況はいたって厳しく、盲学校に在学はしても、適した指導に恵まれた人は少なく、なかには障害が重度であるためと家族の無理解や教育体制の不備による就学猶予から未就学の者も相当数に上っていた。光道園は、このような基礎能力が未熟で日常生活動作も不完全で社会性の乏しい彼らの「学習・訓練の場」「働く場」「生活する場」として、人間復権を目指し努力してきた。
 彼らは生活指導、職業指導、社会性、とその生涯をかけても余りあるほど課題をたくさん抱えている。当園では、開設当初から、各指導とあわせ情操指導としてのクラブ活動を取り入れていた。その一つであった「器楽クラブ」は、視覚障害からくる音の世界の広がりとして最も身近に感じたのだろうか、入所者全体の7~8割の参加者を数えた。
 タンバリン、カスタネット、大太鼓、小太鼓、ハーモニカといった楽器で繰り返し繰り返し練習する月日は、まわりの人たちへの騒音だった。しかし楽器に触れる機会や経験の乏しい彼らが、一つの童謡や一つの唱歌をようやく演奏できるようになったとき、彼ら自ら体を打ち震わせて喜びを表し、自らに賛辞を送るようになり、また見聞きするまわりの職員も驚き、感激に包まれた。
 そして昭和42年の暮れ、ラジオから流れる歌謡曲やポピュラーのリズムに魅せられた彼らの中から、「こんな曲をやりたいなあ」という声が聞かれた。自分の楽器操作能力などとはまったく関係ない彼らの淡い希望だった。それがきっかけとなり、器楽クラブの中から6人が集まり毎夜毎夜誰もいなくなった食堂で練習を続けたのだ。楽器は器楽クラブの打楽器を利用し組み立ててドラムの格好をつけたといった具合で、メロディ楽器はメロディオン2台でおぼつかなく、何も持たない人は大声を張り上げて歌った。これがミックバラーズの結成時の姿である。
 しかしそのロックやブルースの(ような)リズムは、以前の器楽クラブのものとは比べようもない新鮮さと迫力を感じさせた。初めて聞いた当時の中道園長も我が耳を疑うほど驚き、盲重複障害者の施設づくりに専念してきた確かな足取りを、彼らの潜在能力のすばらしさ、成長への証として感じたのである。以降、ミックバラーズは他のクラブ活動同様、内外の人たちから暖かい声援を受け、1年1年新しい楽器への挑戦が続けられた。
 今日、彼らはドラムやコンガ、ボンゴをたたき、マラカスを振る。サキソフォン、エレクトーン、オルガン、キーボード、ビブラフォン、マリンバを奏で、9人が一体となって大きな大きな歌を作り出す。楽器を手にしたときの彼らは生き生きとし、練習の時はもちろん、人前での演奏の時も堂々としている。
 過去の生活の中で見られた「髪をむしって口にしたり」「欲求不満から自分の衣類を全部破いてしまったり、体中を傷だらけにしたり」「何か月も黙り込んでしまったり」「茶碗の中に手を突っ込んで食べたり」といった姿は消えたものの、普段の生活ではまだまだ課題が多い彼らに違いはない。しかし、二十余年にわたる彼らの努力は単に音楽の技術の向上に終わらず、生活面への大きな好影響となり、また生活・作業の経験と相侯って情緒的にも能力的にも着実な成長が見られたと言える。
 彼らの演奏する姿はその音響とともに、結成から7~8年後には次第に地域の中に知れ渡り、福祉関係を主とした集いや会からの演奏依頼がくるようになった。白分たちの趣味として自らが楽しむために始まった小さな小さな動きが、次第に自分たちだけの世界から同じ障害をもつ同僚のため、また社会のためへと羽ばたきだしたのである。
 ミックバラーズの外部での演奏活動が始まった頃、演奏とともに「この障害をもつ人たちを理解して欲しい、そして援助の手を……」という訴えを伴っていた。それから10年、地域に対する、また将来に対する広がりを求めて学校での演奏活動を試みた。折りしも青少年の生活、教育問題が学校・家庭を問わず社会的問題となったこともあり、ミツクバラーズの一学校での演奏会が一つの投石となって広がり、県内の各学校から演奏依頼がくるようになった。「このような条件の人たちも、長年の努力によりこれほどまでにすばらしく成長するのです」という生きた教材的活動に発展したのだ。それまでの「この人たちに世の光を」から「この人たちを世の光に」と、訴えは逆転の現象を呈し始めた。
 感受性の最も盛んな大学・高校生はもとより、中学生から小学生が目を輝かせながら、また涙しながら、演奏するミックバラーズに集中している姿に、同席する教師や父兄からは「自分たちのどんな言葉よりも子どもたちにとって強く重いすばらしい教育となる」と感想が語られた。
 楽譜も指揮棒も要しない彼ら9人の奏でる歌の一つひとつは、長年にわたって研ぎ澄ませた感覚(性)のスクラム・結晶と言える。どうにか100曲前後の歌を歌い演奏するようになったミックバラーズの地域での演奏活動は、ここ20年間に学校関係40余り、施設関係10余り、福祉関係等60余り、県外演奏20余りと、130数回を数える演奏機会に恵まれた。
 ミックバラーズは今や地域社会の中で「生きた努力の証」「人間の本質を語る姿」としての活動使命を背負い歩き始めているとも言える。音楽の向上や演奏活動の功績も彼らの大きな喜びとするところに違いはないが、「個々の存在」「9人の結集された存在」そのものの尊さを大切にし、さらに挑戦を続けていくことが期待される。

 重い知的障害グループ「楽団あぶあぶあ」

 楽団あぶあぶあは、神戸市で活躍するダウン症や自閉傾向の青年たちの音楽グループである。結成して10年、各地の施設や地域の行事で開いたコンサートは70回を超え、彼らの演奏に聴衆は心躍り、舞台に飛び入り、一緒に笑い、歌い、踊り出す。演奏する楽器は、ピアノ、アコーディオン、マリンバ、パーカッション、キーボード、フルドラムである。レパートリーは「マイウェイ」「渚のアデリーヌ」「南回帰線」「ライク・ア・バージン」など20曲余りである。
 団員たちは、養護学校を卒業して町工場などで働き、夜に集まって音楽を暖めている。知能に遅れはあるものの、音楽に魅せられた彼らは、一音一音拾うようにして、気も遠くなるような丹念な練習を重ね、1年近くもかけて1曲を合奏までに仕上げている。どうしてこんなに根気があるのか、仲間と一緒に楽しみたい一心からで、音を重ねる努力の10年は心を重ねる10年を生んだ。それは、友情を育む10年で、誰かが病気をすれば案じ、やむなき事情で失職して落ち込めば慰め励まし、再就職を我がことのように喜び、誕生日には家に招いてコツプー杯のビールに酔って語り合う。それは音楽の練習の中で自分の上達を自分以上に待ち、喜び合う仲間の心の中から生まれたハーモニーと重なり合う。学校や家庭で育てられて大人になり、働き、その賃金で趣味をもち、ともに友情を暖める。障害のあるなしに関係なく人々の求める幸せがそこにある。彼らは、周囲の人々に愛されながら人として必要な教育と社会の愛を受け、それに応えてひたすらに生きている。
 コンサートを終えた会場で、演奏とその心に暖められた一般の観客が、彼らの障害を忘れて声をかけてくれる。団員たちは、言語障害が新しい共通語に聞こえるほど朗らかな応対で再会を約束する。毎回のコンサートに必ず、どこからか聞きつけて会場の準備を手伝ったり写真を撮ってくれたりのボランティアの人たちの中には、軽い障害をもつ人もいる。コンサートの休憩時間には、あぶあぶあのサウンドに惹かれた同じような障害をもつ子どもや大人たちが、舞台の楽器と思い思いに遊び始め、そんな中から新しいグループも生まれてきている。
 「とっておきの芸術祭」では、スウェーデンから知能に遅れのある人たちがシンガーであるロックグループ「エコー」のバックバンドを務めて、コンサートを支えたのである。


主題・副題:障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告書 平成6年度