音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

平成6年度障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告

障害の特性別に見る現状と課題

1 ろう芸術・ろう文化の歴史と展望

-大槻芳子-

 1--ろう者とろう芸術・ろう文化とは

ろうという障害は見えにくい障害と言われている。それは、音による情報が全く入らないが、日常生活での動作に支障がないためである。それ故にろう者自身、自分を障害者と見なしていない面が強い。
 文化を広義に捉えるなら、ろう者は、聴覚と関係ないスポーツ・レジャーを含むあらゆる文化的なことは享受できるし、その主体者となれる。近年、健聴者とは逆の発想で、聞こえないからこそ独自の文化があるということで、アメリカで「デフ・カルチャー」が提唱され、日本にも広まってきている。それは、「ろう」として生きる中で聞こえる人との違いがまさしく「ろう文化」であり、「ろう文化」とは聞こえないことを中心に捉えた、ろうという人間の営みすべてをさすのであり、それの昇華したものを「ろう芸術」と名付けたのである。
 日本の歴史をひも解く時、どの時代でも障害者は社会の枠外であり、文化があるとしてもそれは健常者の規範の枠内での健常者の概念での文化であった。だから障害者の文化などはないに等しく、視覚障害者の琵琶・三味線・琴等も健常者の文化の枠内の音楽の分野だから認められたのである。
 同じ理由で、聴覚障害者も美術の分野では早くから認められた人が輩出している。しかし、それらはほんの一握りの人たちの話であり、裾野はなかった。また、その当時は日本の経済も未発達であり、ろうの人々も大半は貧しく、毎日の暮らしを無事営むことに腐心していた時代であり、文化を考えるゆとりをろう者の大半の人は持つことができなかった。
 近年、経済の高度成長により日本人の生活水準は飛躍的に高まり、障害者の生活水準も向上してきた。そのなかで人々は生きることの意味を模索し始めた。ろう者も例外ではなく、そのような社会背景の中で「ろう文化」という考え方が生まれた。その中心となるのが、手話である。健聴者が動物的であると蔑視したが、それをはね返し、自分たちで守ってきた手話こそが「ろう文化」の中心としてふさわしい。ろう者にとって手話は自己実現のための手段であり、人間として誇り高く生きるために必要不可欠な言葉である。その手話は「ろう文化」の中心として、芸術へと昇華しようとしている。
 ろう者には元来聞こえないことからくる優れた能力が三つあると言われている。一つは、視覚的感受性が鋭敏であること。聞こえる人とは違った角度から物事を捉えていくため独特の個性が生まれるので、美術・写真の分野で活躍するろう者が多い。
 二つ目は概して手先が器用であること。手話が日常のコミュニケーションの手段であるため手指をいつも動かすので、微妙な手指の動きもコントロールできることもあり、工芸・手芸等の分野に多くのろう者が進出している。
 三つ目は表情や身振りによる表現が豊かなことである。相手に訴えたいことを表情や身振りを駆使して伝えることが習慣化しているので、相手に分かりやすい視覚的な訴え方が自然に身についている。
 演劇のジャンルはこれら三つの特質を総合した能力が必要なので、ろう者にとって一番取り組みやすく、歴史も古い。
 聴覚障害者は手話・口話・筆談・補聴器などをコミュニケーションの手段としているが、日常生活の中ではコミュニケーション手段として手話を使用しているろう者が多い。ろう者にとって手話は自己実現のための手段であり、人間として生きるために必要不可欠の言葉である。しかしそれだけに止まらず、手話はろう者にとって「人間としての誇りと尊厳」の体現との思いがある。人類の文化が言葉と切り離せないということは、言葉が手話であるろう者には手話による文化があるということである。それが芸術にまで高められるという意味では、手話劇がろう者の文化・芸術を語るうえで一番良い例となろう。
 これは世界共通の現象であり、さらにはアメリカやヨーロッパなどでは一般の社会の中で俳優として活躍している人がおり、主役がろう者の設定になっているテレビや映画ではろうの俳優がそれを演じることが当たり前になっているし、聴覚障害者向けテレビ番組では、出演者はもちろん、プロデューサーやディレクターをろう者自身が担うことは当たり前になっている。日本は残念ながら「障害者はできない」という固定概念が強く、まして文化の面で障害者が優れた能力を持つことをなかなか認めようとしない風土がある。

  2--演劇活動の歴史

手話が成立したのは、ろう者が集団で集まるきっかけとなったろう教育の中であり、演劇の歴史もまたろう教育の開始とつながる。
 日本のろう者教育が始まったのは1878年であった。そのなかで各自まちまちに使っていたであろう手振り・身振りが手話として収斂されていき、ろう学校内で日本語と並んで言語として確立していった。
 口話法の影響の強まるなか、手話の素晴らしさ、ろう者の独自性を打ち出すために、大阪のろう学校の教師が中心となって手話劇団「車座」が日本で初めて結成された。大阪の活動に刺激されて東京でも「東座」が生まれた。東京はろう者が中心であった。しかし、残念ながらそれらの動きは全国への波及のないまま第2次世界大戦に突入し、自然解散してしまった。
 戦後すぐの1947年に全日本ろうあ連盟が結成されたが、当時は文化どころではなく、見えにくい障害のため福祉の谷間に置かれた聴覚障害者福祉の向上に運動の全勢力がつぎこまれた。また、国民全体としても経済は破綻し復興に必死の時期であり、文化に目を向ける時代ではなかった。また、戦前からの教育の中での手話を否定する口話法の採用により、国民の手話への蔑視感もまだ強く残っていた。
 全日本ろうあ連盟は、厚生省に手話通訳の養成を要望するとともに、自らの手で1969年に手話の辞書である「わたしたちの手紙」を発行した。翌年の1970年、連盟の長年の願いを受けて厚生省は手話奉仕員養成事業を開始し、1973年手話通訳設置事業が、1976年手話奉仕員派遣事業がすすめられ、一般国民に手話を学習する人が増え、手話の市民権が徐々に醸成された。さらに1981年、国際障害者年により、国内に障害者問題の大キャンペーンがくりひろげられ、手話がろう者の言語であることが国民の中に定着していった。また、1977年からNHKが「聴覚障害者の時間」を開始、国民の手話認知に拍車をかけた。
 それらの情勢と並行して各地にろう者劇団が生まれ始めた。最初は、ろうあ者大会や文化祭のアトラクションとして希望者を集めてろう者だけで学芸会的にやっていたのが、1974年大分に初めて、ろう者劇団が生まれた。1979年アメリカの「デフ・シアター」の日本公演があり、機運の高まっていたなか、各地にろう者劇団が次々と生まれた。また、翌年日本で初めてのプロ集団として「日本ろう者劇団」も誕生した。同じ年、全日本ろうあ連盟主催で第1回全国ろうあ者演劇祭典が大阪で開催された。またプロの劇団として、人形劇ではあるが「デフ・パペットシアター」も誕生した。
 1981年、それらの機運をさらに高めるため、8月に全日本ろうあ連盟主催で「ろう演劇セミナー」が開催された。これには全国から70人の参加があった。翌1982年には全日本ろうあ連盟に文化部が設置され、全日本ろうあ連盟はろう者の文化の創造発展の援助に乗り出すこととなった。
 1983年のイタリアでの第9回世界ろう者会議の演劇祭典に、全日本ろうあ連盟として初めて代表団を派遣して手話狂言を演じた。また、文化活動としては、演劇だけでなく、太鼓、手話落語、パントマイム、はてはミュージカルに挑戦する団体も出てきた。1991年に日本で開催された世界ろう者会議では、14か国26劇団が手話演劇、パントマイム、踊り、太鼓、漫才、無言劇などバラエティ豊かな演劇祭典をくりひろげた。
 それらの集大成として、東京での世界会議に先立つ1990年「全日本ろうあ者演劇会議」が結成され、その後1年に1回公演会を開催している。全日本ろうあ連盟も毎年全国大会で演劇祭典を引き続き開催し、今年で15回目を迎える。別にろうあ者文化活動者会議も開催し、ろうあ者の文化のあり方等を論議している。

 これらは欧米でも同じことが言える。欧米では、ろう者劇団の歴史は古く、ロシアのろう者劇団は観客の対象はろう者だけでなく、入場料も取る完全なプロの集団である。アメリカにも「デフ・シアター」があり、そこからアカデミー賞受賞者のマーリー・マトリンなども出ている。世界ではプロ劇団としてはオーストラリア、スウェーデンにもあり、プロはだしのアマチュア劇団は枚挙にいとまがない。
 テレビについても、ろう者の番組はろう者自身が制作、出演することが当たり前になっている。国によっては、専用のスタジオを持っているところもある。
 もちろん、それらの国々は先進国と言われるところに偏っているが、先進国に入っている日本では障害者がまだ主体者となり得ていないことは悲しいことである。

  3--ろう芸術・ろう文化活動の展望

ろう者の演劇活動を含むろう者の文化活動は、ろう者の生活に潤いを持たせるだけでなく、ろう者としての誇りを再認識し、自信を持って生きることにもつながっている。

 演劇活動

 現在の日本ではプロ劇団は二つあり、ろう者のみを対象とした劇だけでなく、聞こえるプロ劇団とのジョイントもやっているが、まだ、ろう者の範囲で終わっている。一般の舞台、映画、テレビでろう者を主人公としたものがあっても、ろう者にその役をやらせるという声は全く聞こえてこない。アメリカでは聞こえない俳優がプロとして聞こえる世界で活躍している。
 日本はそもそも、テレビでろう者の番組を作るときでも、担当や司会等を聴覚障害者が行うという発想が皆無の国柄である(外国では必ず当事者が出てくる)。社会は国連・障害者の十年の中で徐々に変わってきているが、まだまだ身体障害者自身が主役となる発想が育っていない。それは、障害者自身による運動で変えねばならないが、ろう者を主役にした舞台、映画、テレビはろう者が演じられるよう、ろう者自身ももっと訓練が必要である。
 訓練については、手話の工夫等は自分たちでできるが、リズム感、呼吸法等演技の基礎訓練は専門家の指導が必要である。また、演劇活動は演技(マイム、ダンス、日舞、太鼓含む)だけでなく、演出・舞台装置・照明・美術等広範囲にわたっている。各劇団とも聞こえるプロもしくはセミプロの人々の協力を得ているが、専門的な勉強の場はないに等しい。聞こえる人は専門学校なり、現場へ入っての実務を通して訓練ができるが、コミュニケーションに障害のあるろう者にはその道は閉ざされている。
 欧米では、ろう者の団体が自分たちのスタジオを持って、常にそれらのスタッフの人材を養成している。また、テレビにしても演出はろう者自身がやっているなど、人材は豊富である。
 日本では人材の養成の場が皆無である。個人の努力には限界がある。演技(マイム、ダンス、日舞、太鼓含む)、演出、舞台装置、照明、美術等総合的な専門学校を設立することが理想だが、現実的ではない。
 現在、これに関して二つのセミナーが開催されている。一つは全日本ろうあ連盟主催の文化活動者会議、もう一つは「全日本ろうあ者演劇会議」のセミナーである。ここで、演技等の学習をするとともに情報交換をすることが大切である。これらは現在、参加者の自己負担によって開いているので、招聘する講師も少ない。これらに財政的な援助をして、少しでもこの活動を芸術に高める努力が必要である。
また、全国ろうあ者演劇祭典を開き、日頃の成果を見せ、演技力を鍛えるとともに、ろう者観衆に豊かなろう者芸術を見せるとともに、観客に評価してもらい、より高い芸術性を追求する必要もある。さらに世界ろう者会議等の機会を捉えて、優れた国との交流も必要だろう。

 写真・絵画・工芸

 全日本ろうあ連盟では、全国ろうあ者大会の行事の一環として美術・工芸展、写真コンクールを開催してきた。美術展については、プロの大作を展示し、地域の一般市民にも普段触れることの少ないろう者の芸術を理解してもらっている。これは、経費がかかり運営に苦慮しているが、地方で開催することの意義は大きく、今後も引き続き継続していく。今後の夢は、日本だけでなくアジアのろう者の作品も集め、いつの日かアジアのろう者との合同展が開催できたら、どんなに素晴らしいことだろうか。
 写真については、今はまだコンクールということでアマチュアの作品を展示しているが、これもプロの作品を同時に展示するとともに、写真に携わるろう者を対象とした写真セミナーを開き、プロを志すろう者の研修の場を設けることも必要である。

 最後に

 それにしても、障害者の文化芸術活動に対してもう少し国の援助がなされてもよいのではないだろうか。経済大国といわれるが、あまりにも豊かさへの視点のない国の姿勢、精神の貧しさに慨嘆を禁じえない。

  4--聴覚障害者芸術文化交流
     --日米聴覚障害者芸術文化交流プロジェクト--

 本プロジェクトの目的

 国際障害者年(1981年)や国連・障害者の十年(1983~92年)を契機に、地球的規模でさまざまな活動が展開され、障害をもつ人たちを取り巻く環境は少しずつ改善され、それに伴い社会の意識も高まってきた。しかし、未だ障害をもつ人たちへの偏見、差別の根は深く、本当の意味での理解はなされていない。
 私たちは、「日米聴覚障害者芸術文化交流プロジェクト」の開催を計画している。これは、アメリカの聴覚障害者と教育関係者を日本に招聘することで、日米のろう者芸術とろう者教育の両面での交流を図ろうというものである。アメリカの聴覚障害者が生の日本文化や舞台芸術に触れ、学ぶ機会をつくると同時に、YSP(Young Scholars P・Ogram)の活動を日本に紹介することで、聴覚障害者並びに彼らの文化活動に新たな刺激を与え、社会の関心を高め、日米の草の根レベルでの理解を促進することを目的としている。また、これをきっかけとして、ろう者芸術及びろう者教育に対する新たな可能性を見出し、情報交換や研究会へと発展しうるネットワークを世界各地に広げていこうと考えている。

ギャローデット大学について

 アメリカ・ワシントン市にあるギャローデット大学は、1864年にリンカーン大統領によって大学資格認定を授けられて以来、世界で唯一の聴覚障害者専門の教育機関として知られている。ここではすべてのプログラムやサービスが聴覚障害者や難聴者のコミュニケーションにおける障害を取り除くように考案されている。教育、調査、公共サービスなど、あらゆる方面において聴覚障害者や難聴者を対象にプログラムされている多目的教育機関である。幼稚園、小学校、中学校、調査機関、訓練センター、情報センターなどが揃えられており、トップクラスの教育者、研究者などの専門家のサポートによって運営されている。130年間にわたり、ギャローデット大学は聴覚障害者の国際的シンボルであった。
 1990年7月に「アメリカ障害者法」が提唱されて以来、ギャローデット大学の役割はさらに広がり、国際的にも注目を集め、その指導性に期待が寄せられている。

ギャローデット大学青年学習プログラム(YSP)

 舞台芸術は、聴覚障害者の青春期の教育において、また豊かな感性を養ううえにおいて大きな意義がある。聴覚障害者は、その障害をもつがゆえに孤立してしまいがちである。しかし、音楽や舞踊といった舞台芸術を通し、他とコミュニケーションを図ることができる。日頃の訓練を経て舞台芸術に精通することは、彼らの芸術性を高めるだけでなく自信にもつながる。また、聴覚障害者に対する社会の間違った認識を改めさせ、自らの可能性を知ることにつながる。すなわち聴覚障害者は、能力のない人間ではなく、才能あふれる人間であると認識することができる。
 これが、ギャローデット大学が「青年学習プログラム」を創設した理由である。才能あふれる聴覚障害の若者たちを対象に毎年行っている、4週間の集中夏期演劇、舞踊プログラムは、参加者のアカデミックな発達に加えて、個人的、社会的成長に大きな役割を担っている。毎年、このプログラムでは、文化的なテーマを一つに絞っている。昨年は18名の学生たちがアメリカ、カナダ、イスラエルから集い、「日本とアジアの文化」をテーマに学んだ。
 このプログラムの指導者的立場で、中心となっているのはシズミ・シゲトウ・マナール(重藤静美)である。彼女はモダンダンス、日本舞踊、能、狂言といった舞台芸術に精通した日本人ダンサーである。彼女はYSPの4週間にわたるカリキュラムを開発し、ゲストとして和太鼓奏者、日本舞踊家、韓国伝統舞踊家などを迎えるなど、さまざまな分野において日本文化、アジア文化に触れあう機会をつくっていった。

 事業の内容

① パフオーマンス
 YSPの活動の成果をパフォーマンスとして紹介し、聴覚障害者に対する社会的評価を高めると同時に、その可能性を知る。東京と大阪において、一般を対象とした公演を予定している。
② ワークショップ
 世界的に評価の高いYSPのワークショップを日本において再現し、日本の聴覚障害者およびサポーター、また、こうした活動に関心を持つ芸術家や専門家などが、その考え方やノウハウを学ぶ。
③ 交流
 日米の聴覚障害者の舞台芸術活動についての情報交換、意見交換を行うと同時に、聴覚障害者同士の交流を図る。また、今後のあり方、展望についても話し合う。
④ 視察
 アメリカの聴覚障害者およびその他の参加者が、日本の文化や芸術(能・狂言・茶道)などを学び、理解を深めるためのプログラム。

期待される効果

① 日米の聴覚障害者およびサポーター同士の交流の輪が広がるとともに、日米の異なった文化に対する理解と共感が深まる。
② 聴覚障害者のネットワークが世界に広がり、芸術文化をはじめさまざまな分野において交流が深まる。
③ 聴覚障害者の芸術文化活動を通しての可能性が見出せる。
④ 聴覚障害者が偏見や差別の目から解放され、社会の真の理解が広がる。
⑤ 日米の民間レベルでの交流が深まる。
⑥ 聴覚障害者に対するギャローデット大学式芸術教育のあり方を学ぶことで、日本の聴覚障害者の芸術文化活動の質が高まり、活性化していく。
⑦ 聴覚障害者の文化に関心を持つ人が増えると同時に、彼らの芸術活動のサポーターの質が高まる。

 今後の展望

 財団法人たんぽぽの家は、中国・上海師匠会社連合会との文化交流を行っている。これは、日中の聴覚障害者、視覚障害者、身体障害者を中心とした舞踊や音楽などの舞台芸術を通した文化交流である。互いの風土、習慣、政治、文化などの違いを確かめあい、学びあい、15年問にわたり理解を深めあってきた。この民際交流事業が、後に「アジアわたぼうし音楽祭」「世界わたぼうし音楽祭」へと発展し、海外へのネットワークを広げるうえで大きな成果をもたらした。
 今回のYSPの来日、交流をきっかけとして、1996年には日本の聴覚障害者およびスタッフをギャローデット大学に派遣し、双方交流をしていくための基盤をつくっていくつもりである。そして、世界最高峰といわれるギャローデット大学のろう者教育、ろう者舞台芸術のノウハウを精力的に吸収するためのプログラムを今後も計画し、また、日本文化や伝統芸術をろう者文化を媒体としてアメリカをはじめ、世界各地へと広げていこうと考えている。

2 視覚障害者の芸術・文化活動

  1--視覚障害者の芸術祭のために

-田中徹二-

 視覚障害者と芸術

1 音楽
 視覚障害者の芸術活動の中で、プロフェッショナルとしても十分に通用するのが音楽の分野である。
 特に邦楽では、伝統的に視覚障害者が従事していたことから、人間国宝の富山清琴を筆頭に、数多くの師匠たちが演奏や弟子の指導に現在でも活躍している。文部省の芸術祭新人賞を受賞した地唄箏曲の富田清邦をはじめ、箏曲に現代的な感覚を取り入れた作曲や演奏で高い評価を受けている坂本務や高野喜長などの演奏会は多くの聴衆を集めている。
 また、洋楽でも、クラシックではバイオリンの和波孝弘が国際的な活動をしているほか、モスクワで開かれているチャイコフスキー・コンクールでベスト・バッハ賞を獲得した松村英臣、17歳でウィーンの国立音楽大学附属学院でピアノを学んでいる梯剛之など、プロとしてその将来性を期待できる人がいる。
 ポップスや歌謡曲、民謡、詩吟などの分野では、ステージで演奏活動をしている人が何人もいるほか、クラブやレストラン、バー、旅館などで演奏したり、地域の催し物などで活躍しているグループや個人は枚挙にいとまがない。ニューヨークで10年ほど活動している全盲ミュージシャン加納洋は、作曲した「ナイト・イン・ニューヨーク」が、わが国でもカンガルーが歌ってレコーディングされている。歌謡曲や演歌では、竜鉄也をはじめとして活躍している視覚障害者が非常に多い。素人でレコードやCDを出しているものまで含めて、日本視覚障害者音楽協会がかなりの人たちを把握している。こうした中に、伊藤あきひろ(歌謡曲)などエンターテイナーとしての才能を持っている人たちもいる。また、オカリナやケーナの演奏者や、縄文笛などの土笛を演奏する視覚障害者などがいる。
 このように、海外の視覚障害者音楽家のさまざまな活躍ぶりを見るまでもなく、音楽の世界では視覚障害はなんの障害にもならず、健常者と同じレベルで対等に競争しているのである。そのため、一流の人の中には、視覚障害者であるということを公表されるのを嫌う人が多く、その点では障害者の芸術祭を企画した際に、その人たちが参加するかどうかはたいへん疑問であるが、逆に言えば、それだけ芸術的価値が高いわけで、音楽は視覚障害者にとっても最もふさわしい芸術活動であると言えるであろう。

2 文学
 音楽と並んで視覚障害者の作品が一般社会で高く評価されているものに、短詩形文学がある。
 短歌、俳句、川柳といったものに対する視覚障害者の関心は非常に高く、独特の境地を切り開いた優れた作家が数多く輩出している。ハンセン氏病に加えて失明という逆境にありながら、後世に残る作品を多く発表している明石海人(歌人)や村越化石(俳人)などは有名である。その他には、新聞の俳壇で連続最優秀賞を獲得した中途失明者、歌壇、俳壇の名だたる会派に所属して優れた作品を残したり、指導的立場に立つ視覚障害者は全国に散在している。
 ところが、このような短詩形文学における結実に対し、小説や随筆といった散文や詩の世界では、視覚障害者の活躍はほとんど見られない。個人で創作に挑戦している者のほか、日本盲人作家クラブが毎年同人誌を発刊したり、随筆随想コンクールなどが行われているが、そこに寄せられる作品はいずれも趣味の域を脱していない。

3 写真・絵画
 以上のような音楽や短詩形文学以外の分野では、芸術性の高いものを探すのは難しい。よく話題になる視覚障害者の写真も、音や晴眼者の合図によってシャッターチャンスをつかみシャッターを切るのは視覚障害者であっても、できあがった写真の中から鑑賞に堪えられる作品を選ぶという時点で、視覚障害者が主体的になれない、というのは致命的な欠陥である。油絵やイラストを描く視覚障害者もいるが、これらも写真と同じように、その作品に芸術的価値があるかないかという判断を第三者の鑑賞眼に任せなければならない。
 これら写真や絵画などの作品を立体コピーによって触覚でも鑑賞できるようにという工夫が行われているが、立体コピーでは複雑図形は十分に表現することができないので、それによって視覚障害者が芸術性を感じ取ることは不可能ではなかろうか。

4 書
 立体コピーで出来栄えを判断するということでは、むしろ書道が向いていると言える。指導者の書を立体コピーで確認しながら書を楽しんでいる視覚障害者のグループがある。
 全国に1万人を超す会員を持つ学書院(柳田青蘭主宰)では、毎月第2木曜日に東京銀座の同院書道教室で、視覚障害者数十人が集まり、書に励んでいる。師の書いた書を立体コピーにかけ、浮き上がった字体を触察し、その形を頭に描いて筆を振るう。自分が書き上げたものも立体コピーにかけ、触覚で師の書と丹念に比較する。そうやって練習を積み、だんだん腕を上げていくわけだが、毎年正月の書初めには、青蘭さん自らが視覚障害者の書の指導に当たっている。

5 演劇
 聴覚障害者のデフ・シアターのように、演劇活動も視覚障害者によって行われている。視覚障害者が書いた台本を視覚障害者が演出し、視覚障害者が演じるといった劇団が神奈川県にある。劇団「くず」がそれで、平塚市や横浜市に住む視覚障害者で演劇に興味を持つ人たちが集まって結成したもので、毎年秋には発表会を開いている。劇団員は、盲学校の教師、マッサージ師、はり師、病院の理学療法士、主婦などで構成されている。しかし、視覚障害者による演劇は限られた人たちの間でしか行われておらず、演劇活動は視覚障害者には不向きではなかろうか。
 このように作品の評価をするという最も大切な時点で、作家の意思が反映しにくいものは芸術とは言いがたいのではなかろうか。こうしたものは、いずれも視覚に障害があると芸術的な域にまで達するのはなかなか難しいものであるうえ、ごく限られた人たちの間でしか行われていないという状況があり、視覚障害者に受け入れられているとは言いがたい。

6 造形
 その意味では、触覚を手がかりとした造形芸術も、主に一部の盲学校で美術教育の一環として行われているに過ぎない。以前、神戸市立盲学校に熱心な教員がいて、盛んに陶芸が行われたが、その卒業生が卒業後も陶芸を趣味にしているという話は聞かない。平成7年3月に鎌倉で行った「鎌倉 手で見る芸術祭」には、金原倫雄(長野県)、宮内勝(束京都)など視覚障害者の木彫りやブロンズ像が展示されているが、社会で生活している視覚障害者の間でも、このように造形芸術の活動を行っている者は少ない。
 視覚障害児に美術教育の一環として陶芸を教えて最も実績をあげているのは、千葉県立盲学校である。卒業後も自宅に窯を置いて作陶活動を続けている人が一人いるが、この人の場合はあくまでも趣味である。こうした視覚障害児の中からプロの作陶家を目指す者や、趣味としてでも作陶活動を続けていこうという者がなかなか生まれないのも事実である。
 そんな中で、視覚障害陶芸家としては次の二人が有名である。岡山県備前市に住む備前焼の藤原雄と、山梨県在住の野島和久である。
 藤原雄は父に人間国宝の藤原啓をもつ備前焼の窯元だが、それだけに陶芸の世界では有名である。幼少の頃からの強度の弱視のため、出版社でのサラリーマン生活をあきらめ、人生途中から父親の備前焼を手伝うようになったもので、ほとんど触覚で作品の形作りをしているという。イタリアやスペインなどの海外をはじめ、日本でも各地で展示即売会を開いているが、それだけプロとしての自負も強く、作品の価格は壺1個数十万円から百数十万円というのが相場である。
 一方、野島は、中途失明で視力がほとんどない。失明後生計をたてるための仕事として陶芸を選んだだけであって、芸術性の高いものより日常生活で使う雑陶器類の制作を目指しているという。しかし、作品展に出品されるものになると雑陶器とは言えず、ちょっとした壺でも数万円の値が付いてくる。
 この二人の作品がそれだけ高く評価されているということは、陶芸に関して言えば、視覚障害者が作ったものでも晴眼者が焼いたものでも作品の価値は変わらないという証拠である。
 視覚障害者の情報入手手段として、触覚は聴覚に次ぐものである。立体である造形物は、一定の大きさのものであれば触覚によって十分にその全体像を把握することができるし、視覚経験のある視覚障害者の場合には、その視覚的イメージを触覚によってしっかり確認でき、芸術的な感動を呼び起こすことができる。また、視覚経験のない先天的視覚障害者の場合でも、教育を受けることによって、その作品が芸術的評価の対象になる域にまで達することもあるだろう。
 現在最も盛んな千葉県立盲学校の活動や、ギャラリー・TOMの「TOM賞」などが、今後大いに成果をあげることで、社会へ出た視覚障害者の間に造形芸術に対する取り組みが定着していくことが期待される。アメリカのように視覚障害の造形作家が活躍するようなことになれば、その芸術性に対する一定の評価が与えられるものと考えるが、わが国の現状はまだそこまでに至っていない。
 視覚障害者が芸術に触れ、実際に芸術活動を行って感性を高める機会が得られるような環境をつくるとともに、より多くの健常者が障害者による芸術を知るために、以下のような催しが考えられる。

〔催し物の具体的な提案〕
① 演劇
 前述した劇団「くず」のような、視覚障害を克服しながら普通の舞台の上で一般の観客を相手に演じる活動を行っている集団による演劇の上演を行う。
② 書
 前述した学書院のような活動を行っているグループによる書の中で優れたものを何点か展示し、同時に視覚障害者が書を描いているところや鑑賞しているところを写真のパネルにして展示すれば、一般の人にとって大いに啓発になるものと思われる。
③ 造形
 造形に関する催し物としては、一流作家が触覚による鑑賞を目的に制作したものを展示し、視覚障害者を含めた一般の人たちが手で鑑賞する展覧会、視覚障害者の作品展、触覚による造形ワークショップなどが考えられる。これは、視覚障害者の可能性を引き出し、情緒豊かな社会生活を送る人が少しでも増えるために、また、一般社会を啓発するという観点からも大いに意義があるものと考えられる。

a 手で見る造形展
 彫刻家に、触覚による鑑賞を意識した作品を作ってもらって展示する。晴眼者もアイマスクで目隠しをし、視覚障害者と一緒に手で鑑賞してもらう。手で全体像がわかるように作品の大きさを指定し、触っても危険がないものを作ってもらう。作品についての作家のメッセージを添えてもらう。視覚障害者にも作品を出品してもらう。
b 視覚障害者作品展
 ギャラリー・TOMが2年に一度行っているTOM賞の応募作品を中心に作品を集める。美術教育に熱心な盲学校に依頼し、生徒に作品を作ってもらう。「点字毎日」などを通して、社会人の視覚障害者からも作品を公募する。素材は粘土に限らず、紙・木などを用いる。
c 触覚でつくるワークショップ
 素材は粘土とする。時間を区切って1日に2,3回、一般参加者にアイマスクをしてもらい、専門家の指導によって触覚による作品づくりのワークショップを開く。見本を触覚で確認しながら同じ形のものを作ったり、ことばや音楽から受けたイメージを造形して、触覚の世界がどんなものかを体験してもらう。

④ 手芸
 毎年、日本盲人会連合では全国盲人福祉大会に合わせ、全国の盲婦人を対象にした全国盲婦人毛糸編み物・生け花技能競技会を開いている。長い歴史があり、ここに出品される作品はいずれも視覚障害者が制作したとは信じがたいほどの出来栄えで、商品としても十分通用するという高い評価を受けている。
 過去にこの競技会に出品した人たちの作品を集めて、展示即売会を開くという計画は、十分考慮に価するものであろう。
⑤ 音楽

a 邦楽
 人間国宝の富山清琴は別として、富田清邦、坂本努、高野喜長といったプロの人には、演奏会を開いて出演してもらうためにはかなりの費用が必要となる。少し程度を下げるのなら、盲人の師匠が主催する箏曲のグループに出演してもらえば、ポピュラーで楽しい演奏会にすることができるかもしれない。
b クラシック
 ある程度の水準を保った演奏会を期待するのなら、バイオリンの和波孝弘に出演してもらうしかない。それ以外では耳の肥えた聴衆を満足させる演奏家は少ない。松村英臣の将来性には大いに期待できるので、和波とこの松村とを組み合わせてモーツァルトやべ一トーベンのバイオリン・ソナタ演奏会を企画するのも興味がもてるであろう。
c ポップス
 加納洋には、ニューヨークの雰囲気にあふれたエネルギッシュなライブが大いに期待できる。国内で人材を求めるなら、長谷川きよしなどがいるが、そのほかにもセミプロとしてバンドを組み演奏活動を行っている視覚障害者グループがいくつかあるので出演してもらう。
d 歌謡曲、演歌、民謡など
 日本視覚障害者音楽協会などの協力を得ることで、企画によっては単に歌だけでなく、バラエティに富んだおもしろいステージを作ることもできる。

⑥ 写真
 NHKが以前、障害者の日特集で、「こころに写す写真展」を企画、視覚障害者を含む全国の障害者が写した写真を募集し、その中の優秀作品を放映した。このとき、視覚障害者の作品が最優秀賞を獲得した。毎年秋には視覚障害者の写真コンテストが開催され、その優秀作品を展示した写真展が東京で開かれている。常連の応募者もたくさんおり、その人たちの作品も相当数にのぼるので、そうしたものを集めて展示すれば一つの催し物になる。
⑦ 散文、短詩形文学
 前述の日本盲人作家クラブの同人誌「芽」が毎年普通文字で発表されているほか、日本点字図書館が行っている随筆随想コンクールは35年の歴史がある。また、日本盲人会連合でも、短歌、俳句、川柳、随筆、短編小説の募集を毎年実施しているほか、「点字毎日」や「点字ジャーナル」などにもたくさんの短詩形文芸の作品が寄せられている。こうした作品から優れたものをパネル等で展示する。

 視覚障害者のアクセスに関する配慮

 「手で見る美術展」をはじめ、これまで視覚障害者を対象にしたさまざまの催し物で、視覚障害者にどのような配慮が行われてきたかという実績を中心に、視覚障害者が芸術鑑賞をするための望ましい配慮についてまとめてみよう。

 〔会場全体についての配慮〕
① 障害者案内センターの設置
 会場の入口付近に案内センターを設置し、そこに会場の全体像がわかるような触察用の立体図、または模型を置く。
 ・会場の案内パンフレットの点字版、カセットテープ版を作成し、センターで来館した視覚障害者に配布する。また、各催し物についての案内やプログラムも、それぞれ点字化したりテープ化する。
 ・ガイド・ボランティアをセンターに待機させ、視覚障害者の希望に応じて会場内を手引きできるような体制をとる。
② 物理的な配慮
 ・点字ブロックを会場入口、案内センター入口、階段の始めや終わりなど必要な場所に設置する。
 ・白杖でとらえられないもの、例えば上から下がっているものや通路に突き出たものなどは、できる限り取り除く。
 ・建物や催し物会場の入口に音声誘導装置を設置し、案内センターで貸し出した手持ちの小型発信器を視覚障害者が操作すると音声誘導装置が働いて入口を知らせるとともに、その会場の催し物などについて案内できるようにする。
〔展示物を展示するときの留意点〕
① 通常、陳列ケースは、足の爪先が入るように足つきのテーブル状となっているが、これでは白杖がケースの下に入って見学者の上体がケースにぶつかる恐れがある。危険なので、ケースや展示物の台座は下に空間を作らないようにする。
② 手すりは腰の高さにする。その理由は、見学者が前にのめってしまわないためである。
③ 展示物の高さは腰の高さよりも高く置く。
④ 展示物は手すりから10センチ以上離さないように設置する。触るのに上体を前のめりにしないですむからである。
⑤ 弱視者のために採光を十分に考慮する。また、視野の狭い弱視者のために、展示物の全体像がわかるように、白黒のはっきりした写真を用意するのも効果がある。
⑥ 展示物を説明するキャプションを点字化し、展示物の近くに貼りつける。貼りつける場所は、展示物から少し離れたところで、手すりがあれば手すり、あるいは台座の上とする。
 また、展示するものによっては、展示物の前で詳しい説明が聞けるように携帯用カセットテープレコーダーと説明を録音したテープを貸し出すようにするのもよい。そのとき単なる解説だけでなく、視覚的なイメージが湧くような説明を加えると、視覚障害者の鑑賞の手助けになることが多い。
⑦ 展示物のレプリカをできる限り用意する。レプリカは、視覚障害者が展示物を理解するのに大変役立つもので、特に展示物が大きいときその全体像を理解させるのに便利である。また、主催者にとってもそのレプリカを販売することによって財政的な助けとなる。
⑧ 展示会場を案内するガイド・ボランティアは、視覚障害者が満足して見学できるように、視覚障害者に対する基本的な知識を身につける必要がある。手引きの方法はもちろん、展示物をいかに分かりやすく説明できるかということなどにも注意を払えるようにしなければならない。
⑨ 展示物を触覚によって鑑賞する場合、見学者に対して、手を洗うこと、腕時計や指輪などを外してもらうことを義務づける。

2--視覚障害者の美術鑑賞のための実践
    「手で見る美術展 セブン・アーチスツ--
    今日の日本美術帰国展によせて」に関する報告から

-角田美奈子-
(名古屋市美術館)

 名古屋市美術館は、鑑賞者のすべてが出品作品に触れることのできる展覧会「手で見る美術展 セブン・アーチスツー--今日の日本美術帰国展によせて」(以下「手で見る美術展」とする)を1992年8月15日より9月27日までの会期で開催した。
 名古屋市美術館は、1989年4月1日より4月9日まで開催した「触れる喜び--手で見る彫刻展」の終了後、視覚に障害があり、通常の美術館活動では十分に美術鑑賞の機会を得ることができない方々の便宜を図る展覧会を、隔年で開催することとした。「手で見る美術展」は、その2度目の展覧会であり、「触れる喜び--手で見る彫刻展」の体験を踏まえて企画・実施された。
 「触れる喜び--手で見る彫刻展」は、障害の性格上、日頃美術鑑賞を行う機会に恵まれることの少ない視覚障害者の方々に、美術館という場所で、作品に自らの手で触れることによって直接的に美術鑑賞を行ってもらうという意図で開催された。同時に、視覚に障害をもたない鑑賞者には、触覚を手がかりにして視覚以外の感覚に目覚めてもらい、美術鑑賞の見失われがちな一つの側面に注意を向けてもらおうとする意図を持っていた。
 「触れる喜び--手で見る彫刻展」で企画者に問題と感じられた事柄は、視覚障害者に対しては、美術鑑賞の手段にすぎないはずの「触れる」という行為が到達すべき目的のすべてになっているということであり、視覚に障害をもたない鑑賞者に対しては、「触れる」という行為が興味本位で、作品を選ばず、視覚の優位性を確認するものでしかないということであった。
 「手で見る美術展」では、「触れる」と「見る」をあくまでも鑑賞の出発点と考えて区別せず、「触れること」「見ること」から鑑賞者が体験として何を引き出し、自分のものとするのかということを重視した。

 視覚障害者の美術鑑賞の実例はあまり多くない。鑑賞を経験した人の意見を聞くためと視覚に障害があることから生じる鑑賞上の制約を補うために、ガイド・ツアーを実施した。
 ガイドは、「手で見る美術展」のみならず「セブン・アーチスツ--今日の日本美術帰国展」に対しても行った。ガイド・ツアーの参加者には、ガイド・ツアーの間に可能なものに限り、「セブン・アーチスツ--今日の日本美術帰国展」の出品作品にも触れてもらった。
 この展覧会では、解説用に入場者すべてに無料で配布したリーフレットとそれと全く同じ文字内容の点字のリーフレットを作成した。点字のリーフレットの文字内容を一般用と同じにしたのは、鑑賞にあたって両者の条件をなるべく同じにしようという意図からであり、内容も視覚障害者向けに詳細にする必要のないものを意識的に選んでいる。
 ガイド・ツアーを「セブン・アーチスツ--今日の日本美術帰国展」に対しても行ったのは、将来的には、視覚障害者のために特別に企画された展覧会でなくても、自分の興味にあわせて日常的に展覧会や美術館を利用してもらうきっかけを与えようとする意図からである。
 ガイド・ツアーは、一方的なガイドに終始することなく、参加者各人との対話を重視して、各回ごとに細部を変更している。作品の説明については、参加者の人生経験や関心の所在によって具体例を変える柔軟さが必要である。
 ガイド・ツアーの参加者については、はじめ美術館側でスケジュールを定め個人募集を行ったが、期待通りには応募がなかった。付き添い者の手当の困難さ、初めて訪れる場所と体験への不安が、個人参加を困難にしている主な原因である。予約をしてもらうことを条件に、視覚障害の方々が所属する団体に対してもガイド・ツアーを行うことに変更した。
 当初予定した1回当たりの定員は最大10名であったが、団体の場合は10名を超えることもあり、その場合は対応が行き届かず、時間も余分にかかってしまった。細かい対応をするには5名程度がよいと思われる(参加者には付き添い者か美術館で用意したボランティアが付くので、実際に行動するのは倍の人数になる。また、付き添い者が美術鑑賞に理解と経験のある人とは限らないので、付き添い者に対しても様子を見て対応をしなければならない)。
 ガイド・ツアーは小学5年生から中学生を対象とするコースと高校生以上を対象とするコースの二つを用意したが、小学5年生から中学生を対象とするコースには応募がなかった。美術館から盲学校や視覚障害児童の在籍する学校に積極的に働きかけをしなかったこともあり、団体の申込みもなかった。前回は盲学校をはじめ学校からの団体鑑賞が比較的多かったが、今回は現代美術を対象としており、教科書に紹介されているような著名な作家の作品が出品されていないことが関心を惹かなかった原因であると考えられる。
 視覚障害者に限らず、障害者については本人に催し物の案内をするだけでなく、付き添い者となる家族やボランティア、学校にも案内をし、彼らの関心と理解を得ることが大切である。障害者本人が行きたいと希望しても、付き添い者が見つからなかったり、家族の同意が得られないと外出をあきらめてしまうことがある。また、一般に障害者は健常者と比べて、限られた範囲でしか情報の提供を受けられない傾向にあるので、本人に対するだけでなく、家族や日頃接し得る人々に対しても情報提供することが理想的である、
 ガイド・ツアーの参加者に対しては終了時に、参加してみての感想、不満や改善して欲しいことなどについて意見を寄せてくれるようにお願いした。今回は一般向けにも会場にアンケート用紙は用意せず、時間の許す限り展示室で鑑賞者の意見を聞くように努めたが、面と向かっては批判もしにくいだろうと考え、また、戸惑う実際の様子を見て時間を少しおくほうが体験を客観的に顧みることができるのではないかと考えて、後日、手紙などの形で意見を寄せて欲しいと依頼した。約20名の方が便りを寄せて下さったが、個々の作品や展示についての意見は、その都度直接話を聞いていたせいか、あまり見受けられなかった。私を驚かせたのは、長い間忘れていたような幼い頃や障害をもつ以前の体験を思い出したという、極めて個人的な事柄が多く記されていたことである。このような理由でお寄せいただいた手紙を紹介することは差し控えたいが、このことから、この展覧会がただ単に、美術を鑑賞する機会を視覚障害者の方々に提供したということ以上の意味と可能性が発生したように思われる。
 現在は、先天的な原因よりも、病気や事故などの後天的な原因によって障害をもつことになった障害者の割合が高い。成人後に障害をもった場合は、精神的にも大きな痛手を受けていることが一般的である。視覚障害関係の施設や集まりには、必要から出入りすることはあってもそれ以外の場所を積極的に利用する人は少ない。良いか悪いかの評価は別として、展覧会を訪れることで健常者の注目を否応なく集めることになった体験は、社会と自分とを考え直す契機を少なからず参加者に与えたように思う。また、作品と接した体験は、自分が失って二度と手に入れることはできないとあきらめていた人並みの体験を呼び戻し、眠っていた感性を目覚めさせるものとして受け止められたように思う。
 ガイド・ツアーの構成については、参加者の体力や精神力を考慮して事前に十分考えていたつもりであった。現実には、移動にも説明にも予想以上に時間をとられ、予定の1時間を大幅に延長せざるを得なかった。これは日常生活に復帰したとはいえ、病後で体力的にハンディキャップのある参加者にとっては、相当の負担であったと大いに反省している。
 じかに接して生の意見を聞きたいというのが、視覚障害者を対象とするガイド・ツアーを企画した主な理由であった。また、前回の展覧会で、視覚障害者の方々が美術館や美術について、漢然としたごく狭い範囲での理解しか持っていないのではないかということを感じた。展覧会を行う場合、必ず何らかのテーマなりコンセプトがあり、それに合わせて作品が選ばれるという、学芸員の世界では自明の事柄を理解していない人が多く見受けられた。また、名古屋市美術館はもとより日本の美術館の多くが近年新しく設けられたものであり、したがってコレクションや展覧会の展開の仕方にも館独自の方針があるということを知らない人が多くいた。このような理解不足は、無理を押して美術館へ来たにもかかわらず、自分の期待する歴史的に有名な作家の作品に触れることができないという、美術館への失望を生む。
 現代美術を取り上げた今回の企画が、障害者と健常者を問わず鑑賞者にどれだけ理解されたかということについては、正直言ってはっきりとはわからない。「触れる」ということを一義的に重視するならば、出品作品の質的価値は問題を十分に解決していたとは言えないであろう。しかし、企画者は作家に、「触れる」ということを一義的に重視した展覧会である、ということは説明をしなかった。「見ること」「触れること」を同列に置いた展覧会として、視覚に障害のある人も作品を自分の力で鑑賞し、健常者と体験を共有することができるように「触れてもよい作品」を出品してください、とお願いしたのである。
 ガイド・ツアーは視覚障害者の方々に企画者から、美術について、’美術館について直接説明し、理解を求めるための試みであったと私は理解している。対話を通じて、私の知らなかったことを知り、思い込みを訂正する機会にもなった。こうした試みは一度で完成するものではないだろう。今後も続けていきたいと考えている。
 また、今回は健常者の鑑賞者に対しては、リーフレットを無料で全員に配布したこと以外、特に何の働きかけもしなかった。健常者がこの企画に対して一般的に抱いている視覚障害者のための展覧会という意識を積極的に変換していくためには、視覚障害者に対してと同様に、企画者としてさらに積極的な働きかけをしていく必要があると感じている。
 (本稿は、「名古屋市美術館研究紀要第3巻」(名古屋市美術館編集・発行 1994年3月31日発行)に提出したものを本報告書用に一部省略し、再録したものである。)

◎手で見ることのできる作品カタログ--名古屋市美術館
「手で見ることのできる作品カタログ--名古屋市美術館」の写真

3 重度身体障害者の演劇活動
--芸術活動としての劇団「態変」の歩みから--

劇団「態変」は、1983年、「障害者の障害そのものにこそ最大の表現力がある。それを引き出していくこと自体演劇である。わたしたち障害者の感じている世界観を露呈することで、障害者にしか持ちえない世界、あるいは文化をさぐれるのではないか」という着想に基づき、金満里さんの提唱で創立された。脚本、演出、役者はすべて身体障害者であり、身体障害者が自主管理する劇団である。
 役者は脳性まひ者、ポリオ、脊椎カリエス、サリドマイドなど重度の身体障害者が多く、日常生活に介助が必要な人が3分の2である。彼らの大半は地域で自立生活をしている。公演時には介助者を含めた裏方が参加する。芝居の練習のために、和歌山から介助者を探して出てきている人もいる。芝居以前に一人ひとりの生活が劇的である。

★公演演目
1983年 5月 「色は臭へど」(作・演出:金満里)京都・大阪連続公演で旗揚げ
1985年 6月 「ゲリラ・クヨクヨがおんねん」(作・演出:金満里)
1985年 6月 「でたいねん、コンチクショウ」(作:紺谷佳清・柏木正行、脚色・演出:福慶之介)
1987年 4月 「水は天からちりぬるを」(作・演出:金満里)
1987年10月 「カイゴ・香異湖・KAIgo!」(作・演出:金満里)
1989年 6月 「銀河叛乱'89」作・演出:金満里)
1990年10月 野外劇「いざいほう in ながい」(作・演出:金満里)
1991年 5月 野外劇「Hea1・癒しの森」(作・演出:金満里)
1991年 9月 「銀河叛乱'91」(作・演出:金満里)
1992年 3月 「静天のへきれき」(作・演出:金満里)
1992年 5月 「夢みる奇想天外(ウェルウィッチア)」(作・演出:金満里)
1992年 9月 ケニアで活動している演劇グループ・ナイロビプレイヤーズの依頼を受けて、ケニア公演「天国の森」(作・演出:金満里)を行った。

 現代演劇の中で障害者のイメージは、舞台での非日常性を表現するために使われることが多かった。病院や人形、看護婦、包帯、車いすなど「障害っぽい」ものは、健常者が自己を表現するために引っぱり出されたが、それ自体が問題とされたのではなかった。代弁者として語らせる一つの道具となっていたにすぎない。
 しかし、その道具自体が自分のことを語りだしたらどうなるか。障害者が直接舞台に上がって、自分たちの感じている日常の世界を表現する。単なる道具、代弁者ではなくて障害者が自らの肉声で自らの日常感覚でものを言い出せば、これまでにはない世界が展開するのではないか。これが、劇団「態変」が動き出すきっかけである。舞台の上で楽しませる側にいながら、舞台の上で自分たちが楽しみきることに挑戦しよう。自分たちの日常感覚を舞台で表現したら、見ている観客としての健常者がどういう反応をしてくれるだろうか。演劇は、障害者が健常者を挑発していくエネルギーを伝える場であった。「態変」の芝居は、役者が奇抜な格好をし、客席に向かって挑発するという形で始まった。しかし、次第に、障害者が自分の日常の中に持っている動きや感じ方を芸術性にまで持っていこうとする方向を目指していく。
 舞台表現の中で、日常にある何気ない表情や仕草が、障害者の場合は健常者よりリアルに出る。例えば手が曲がっていて動きにくいのを動かそうとするとき、そのエネルギーのかけ方、表現には、その人の人間性までも表してしまうような瞬間があり、健常者では表現できないものがある。日常の中では表面に出てこないその人の埋没した感情、エネルギーが、体を一瞬一瞬動かす中で表現され、人にショックを与える。それは、単なる存在感ではなく、存在の中身とでも言うべきものの表出である。
 この日常の何気ない動作に潜む力は、身体障害者のほうが引き出しやすい。障害者はそれぞれ体が違ううえ、動作がリアルである。そして、重度障害者の肉体がより精神や魂に近い表現ができる。動きが真剣になされたときに、魂が自ずからそこに現れるからである。
 このことは当然、健常者の表現にもつながっていく。誰でも表現者であり、日常に持っている力に気づくことは自分の日常に気づくことであり、自分の人間性に気づくことである。つきつめればアートと日常の境目がなくなるのだが、現実には舞台の上の作品として見せられて気づく。「態変」はそういう気づかせるものを見せていくことを目指している。
 確かに重度障害者の身体表現はすばらしいが、身体障害者だから、重度だからいいというのではない。身体障害者であるということにこだわらない演劇活動を行ってこそ、本当の意味での文化活動になると言えよう。
 日本では、障害者の芸術活動を「障害者運動」という感覚でくくってしまう嫌いがある。当事者は芸術活動としてやっていても、社会からは芸術としてとらえられず評価されにくく、障害者福祉と結びつけた評価を受けがちである。そしてまた、前衛的アートは、誰かが先に評価しないと怖くて誰も評価しないものである。多くの人は自分から新しいものを認めようとはしないだろう。

 身体障害者自身、社会からのそういった捉えられ方に甘んじ、受け身の活動に陥ってしまうことがある。芸術活動として舞台をつくっていくなら、個々の参加者はそれを成り立たせるための責任を負わなければならない。集団は参加する個々に対して責任を求めなければならない。それをなおざりにしたり、わざと目を背けてしまうと、芸術活動からは遠ざかってしまう。これは、自分の関わることについて主体として責任をとるかどうかという、障害者すべてにとっての問題である。
 人と何かをやることの中で自分の存在を確かめたり、相手との交流によって充実感を持つためには、社会参加が必要である。社会参加の概念は仕事である。自己の存在を他者に認めてもらおうとしたり、共有することを、社会参加の中でそれぞれが問う。健常者は、社会参加の形が仕事しかなく、一生懸命働くのだが、仕事の価値評価が収入や地位といった結果でしかなくなっている。自分の存在価値を見つけ、それを人と共有したり、交流することが社会参加であり、本来の仕事ではないだろうか。
 現在、多くの障害者は、自身が個人の適性によって職種を選べるようになっていない。作業所で行われている仕事には個人によっては向き不向きがあるし、一律に単純な作業を割り当てられるなど、仕事に無理矢理自分を合わせていることが多いと言える。確かに障害者が就労することの意義は大きいが、現状は「就労」を目的に仕事をやらされているという感じがある。これでは責任感は持てないだろう。自分の時間を仕事をして費やさなければいけないという考え方は問題である。これでは、健常者が一生懸命働いている現状に追随するだけではないか。障害者が創造的に自分の時間を支える仕事をするのが理想であり、だからこそ障害者は障害者にしかできないことを仕事とするべきである。
 そのような本来の仕事とは、自己実現である。自己実現を助けること、あるいは自己実現の自由を助けることこそ本当の福祉であろう。本当にその人がその人らしく、思う存分生きがいを持って生きていけるというようなところまでもっていかなければ、福祉という意味は貫けない。
 しかし、自己実現は極めてプライベートなものであるため、仮に抱える不利な条件のためその人の自己実現が阻害されていたとしても、介入、関与はためらわれる。生半可な関与は人間性の冒とくに転化しかねない。そこへ意を決して踏み込んだ場合、結局「自分自身の自己実現にも本当に向き合ったことのない私自身」を突きつけられることになりかねない。他者の自己実現への一方的な援助は成り立たず、自己と他者の自己実現をどうリンクさせるかということになる。本来の仕事をするということにはそれだけの重みと責任がある。
 劇団「態変」は、芸術活動として社会から捉えられず、責任を負わなかった。しかし一方、社会から切り離されたところで自由に発想できたので、これまで活動が進展し継続できたと言える。今後、「態変」は、責任をとろうとすることで「社会」との関わりができ、同時に社会から侵食される。そこでは、いいものと悪いものを判断する、ときには断る、というようなことをやっていく必要がある。例えば自分たちの活動に対して企業から寄付金が出たとしても、それが要らないのであれば「要らない」と言うことである。主体として“NO”と言うことで、今までの障害者観を変えていこうというのが一つの課題である。
 そしてもう一つの課題は、これまである程度社会から切り離された状態で「独自性」をうたっていたものが、社会の一員として責任を果たしだしたとき、はたして自由な発想や「独自性」を持続させ、活動し続けることができるかということである。それは、参加者の自己実現と劇団としての自己実現に向き合っていくことでもあろう。


主題・副題:障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告書 平成6年度