ひと~マイライフ-言葉を武器に、「患者」から「病気とともに生きる人」へ

「新ノーマライゼーション」2020年8月号

池崎悠(いけざきはるか)

1992年生まれ、15歳でCIDP(慢性炎症性脱髄性多発神経炎)を発症。以後服薬と点滴治療をしながら生活。九州大学在学中、福岡県で難病者の就労問題を考えるグループ難病NET.RDing福岡を立ち上げ、勉強会や難病カフェ等を開催。卒業後、医療機関にて広報、秘書業務に従事。現在、慢性疾患をもつ人のエンパワーメントを支援する団体一般社団法人ピーペック事務局を担当している。

私は15歳から、手足に力が入りにくくなる難病、CIDPをもって暮らしています。運動神経が障害される病気で、筆記、着替えなどの動作の困難さに加え、人より簡単に疲れやすい症状もあります。症状は日内変動も大きく、朝元気だったと思えば夕方には電池が切れたように寝込むこともあります。今はフルタイムの在宅で、慢性疾患をもつ人の支援に携わる仕事をする傍ら、福岡を中心に難病者の支援活動もしています。

発症当初、病気は、自分のやりたいことの前に立ちはだかる大きな障壁でした。病気のせいで勉強も満足にできない、友達と遊べない、恋愛もしづらいと感じていました。治療も、2週間入院して行う点滴か、年ごろの女の子にはつらい、顔が腫れる副作用のあるステロイド剤を使うしかありませんでした。私の生活は、治療のため、それも治らない病気の治療のためのものでした。それまで健康体そのものだった私は、人生の手綱を病気に奪い取られてしまった気分でした。

自分の体がままならないことに加え、周囲の人に自分の病気を理解してもらえないことも悩みの種でした。高校の授業でノートをとるために電子機器の利用を打診したところ、「社会にでると特別扱いされない」と、受け入れてもらえませんでした。自分の困難さを言語化する難しさと、それを相手に適切に伝える難しさ。病気の症状以外に、自分の言葉を持っていないことがもたらす影響を日々感じていました。

結局望む配慮は得られませんでしたが、何とか家族や理解ある友人、教師の助けを得て、大学へ進学し、一人暮らしを始めました。試行錯誤しつつ、自分でコントロールできる範囲(運動、考え方、食事など)を徐々に増やし、症状や生活しづらさを語る言葉を身に付け、人生の手綱を取り戻していきました。

ただ、就職活動だけは自己管理スキルだけではどうしようもありません。「難病」の負のイメージや働けないイメージに加え、支援先の情報もありませんでした。さまざまな難病者や、就労問題解決に取り組む団体とつながりをもち、病気が違っても、情報の少なさや偏見等、抱えている課題は同じだと気づきました。そこで出会った仲間と、福岡で難病者の就労問題を考える団体、難病NET.RDing福岡を作ることになりました。

そこでは、難病の種類を問わず、あらゆる世代の方が気軽に集まって、課題を共有したり、解決に向けて考えたりする場として、難病カフェや交流会、若者限定の交流会などを開催し、難病者の就労問題、生活環境の向上を目指して活動しています。当事者同士が集まって、自分たちの困難さや生きづらさを語る「言葉」を獲得することで、自分でもおかれた状況が客観視でき、人へ伝える際も伝わりやすくなると思っています。

また、昨年からは難病だけでなく、あらゆる慢性疾患をもつ人のエンパワーメントを支援するためのグループ一般社団法人ピーペックを仲間とともに設立し、もっと広い分野でも活動しています。

すべての活動を通して私が目指すのは、病気をもつ人が「患者」でなくなる社会です。病気はあくまで当事者に付随する属性であり、「患者」は常に病気の治療に専念するべき主体ではありません。病気があっても、自分の言葉をもち、就労含め、やりたいことを当たり前に実現できる社会をつくりたい。そして病気をもつ人だけでなく、すべての人が生きやすい社会を皆と一緒につくっていくことが、私のライフワークだと思っています。

menu