ひと~マイライフ-今できることを全力で

「新ノーマライゼーション」2021年8月号

岩崎恵介(いわさきけいすけ)

1981年東京生まれ。34歳当時、脊髄小脳変性症と診断が下る。以後、体幹障害や歩行障害と対峙しながら、現在も都内で一人暮らしを継続中。2017年から脊髄小脳変性症・多系統萎縮症の患者会「全国SCD・MSA友の会」の理事に就任。2020年に身体障害者手帳の交付を受け、障害者雇用枠で正社員として都内の会社に就業。メディア出演や講演、寄稿を通じ、実体験や病気の現状を広く世間に訴えている。

朝、目が覚める。直前まで見ていた夢の中では、歩くことも、話すことも、走ることだって普通にできていた。股関節をさすると痛みはない。治ったかもしれない。でも、そんな期待はまたしても裏切られる。起き上がれば、大腿四頭筋の重さに顔が歪む。掛け布団を折りたたみ、カーテンを開けると、その間に何度もふらつく。下半身が、まるで自分のものではないかのよう。部屋の中での唯一の話し相手、AIスピーカーに向かって「アレクサ、おはよう」と話しかけると、声がかすれる。ああ、声が出にくいのは朝だからなのだと思いたい。

脊髄小脳変性症は、小脳の萎縮に伴い、ふらつきなどの運動機能障害や構音障害等が症状として出る病気です。指定難病の一つで、孤発性と遺伝性とに分かれ、病型もさまざまです。私は母親から遺伝しました。

34歳の時、交際相手と一緒に彼女の甥っ子とサッカーボールで遊んでいると、いつも通りの動きができない違和感を覚えました。それまでの私は運動神経の塊で、サッカー、テニス、スキー、登山、フルマラソン、と週末アクティブを標榜する人たちの仲間でした。

父親に違和感を告げると、すぐに総合病院に行くよう促されました。病院で母親を診ていた担当医が静かに口を開きます。残念ですが......、と。MRI検査の結果、まだ小脳の萎縮がわずかだけれど、他の医師なら見逃しているレベルだとのこと。できれば見逃してほしかった!交際相手と結婚を約束していましたし、転職先は急拡大のため、私はマネージメントレイヤーへの期待を大いに背負っていました。順風満帆だったのに、まさかの大転落。

この病気の特徴としては、進行性だけれども進行がゆっくりしていることが挙げられます。極端に能力が衰えることはありません。にもかかわらず、後に苦労したのが転職活動でした。私はこれまで何度も職場を変えてきましたが、都度、給与や職責を上げてきました。そんな矜持が雲散霧消するくらい、連戦連敗でした。企業がほしい戦力は、長く活躍を見込める人材、もしくは法定雇用率を満たすための障害者枠での採用。私は軽症のため、長らく障害者手帳の交付に待ったがかかっていました。自助努力を続ける中で、健常者でもなく、障害者でもない難病患者の私を受け入れてくれる会社は、100社を優に超えてなお、見つからずにいました。

そんな折に、一緒に働かないか、と以前の同僚から声が掛かりました。捨てる神あれば拾う神あり。時同じくして、「全国脊髄小脳変性症(SCD)・多系統萎縮症(MSA)友の会」の患者会活動に誘われました。最愛の婚約者との別れを経験し、孤独感に苛まれていた時分でした。働く機会を与えられ、水を得た魚のように活動量を取り戻すことができました。患者会には、正式に理事として選任され、現在は事務局次長として活動に携わっています。

時の流れは残酷です。ゆっくりと、しかし、確実に病気の諸症状が現れ、進行を感じます。大事なのは薬よりもリハビリトレーニングです。患者会の仲間や先生方の言葉に励まされ、1日8,000歩のウォーキングを徹底して継続してきました。2017年には、東京マラソンのフルの部にエントリーし、無事に完走を果たしました。まだ歩けます。まだ話せます。自炊もできるし、食事も普通に楽しめます。今はまだ、備わっている運動機能を手放したくありません。

できないことを嘆いても、楽しかった過去を振り返っても、悲しさしかありません。極論を言うと、未来にも絶望しています。十数年後、新薬が開発されて病気が治ったとしても取り戻せないものが多過ぎます。病気になる前のライフスタイルに戻したい。家庭を築きたい。アクティブな趣味を取り戻したい。でも、嘆かずに今やること、この瞬間にできることを全力でやりたいのです。

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