伊達眼鏡で人とつながる~喋れないことこそ、私の強み~

「新ノーマライゼーション」2021年10月号

日本学術振興会特別研究員(PD)/中央大学
天畠大輔(てんばただいすけ)

お出かけ前、洗顔や着替えが終わると、十種類の眼鏡を前に、介助者は決まって私に尋ねます。

「大輔さん、今日の眼鏡はどれにしますか。丸眼鏡?黒縁?緑?……」

私はその日の気分や服装に合わせて、眼鏡を自分で選ぶことで、おしゃれを楽しんでいます。私には、特殊な視覚障がいがあります。立体はぼやけ、平面の文字や絵は見えないという世界でも稀な視覚障がいです。しかし、私の所有する眼鏡は、その障がいを直すために特殊加工されたものではありません。おしゃれのための度なし眼鏡、いわゆる伊達眼鏡なのです。

では、私は視力矯正のツールではないのに、何故必ず眼鏡を選び、かけるのか?それは、この眼鏡が、私にとって人とつながるためのツールであるからです。

私は、特殊な視覚障がいに加えて、四肢麻痺と発話障がいをもっています。発話障がいは「あー」という声を発することはできますが、言葉でのコミュニケーションが一切とれません。そのため、「あかさたな話法」という特別なコミュニケーション方法を使って、自分の言いたいことを伝えています。例えば、「だてめがね」と伝えたい時、まず介助者が私の腕を取り、「あ・か・さ・た・な……」と行の頭文字を言っていきます。私は介助者の声のタイミングに合わせて「た」行のところで腕を引いて動かします。続いて、介助者が「た・ち・つ・て・と」と「た」行を読みあげます。私は、介助者が「た」と言う時に合わせて腕を引いて動かします。このようにして、一字一字、言葉を紡ぐと「たてめかね」となります。「ー」(長音)や「 ゛」(濁点)、「 ゜」(半濁点)や「ッ」(促音)、「やゆよ」(拗音)は、文字を読み取った後に確認しながら付け足します。こうして初めて、「伊達眼鏡」として伝わります。

これらの障がいや「あかさたな話法」を知らず、私に初めて会った人は、「はじめまして」と言わない私に対して、あれ、状況を理解することが難しいのかな?と感じることもあるかと思います。しかし、私の頭の中には「はじめまして、天畠大輔と申します!」という、決して相手に伝わらない文章が次々に、わき上がっています。

私にとってのコミュニケーション障がいとは、言語化できないことではなく、言語化したものをアウトプットできないことです。そしてこの眼鏡は、私がコミュニケーション障がいを乗り越えるためのツールとして、とても大切なものだと思っています。

介助者が私の言葉を聞き取る時、相手は初めに介助者を見てから、次に私の顔をじっと見るのです。これは、本当に天畠さんが言っている言葉なのかな?この不思議なコミュニケーション方法は、どうやって成り立っているんだろうか?と。その時、実はこの眼鏡が、私と相手の間にあるぼやけたピントをググっと合わせてくれるのです。どういうことかというと、この眼鏡は私を知的に見せ、次につながる会話のきっかけを与えてくれる、ということです。

「素敵な眼鏡ですね」「いや~実は、伊達眼鏡なんですよ」というお決まりのジョークは、私が重度の障がいを負いながらもユーモアをもち、明るく前向きに生きていること、そして相手に、言語的コミュニケーションが可能であることを、はっきりと伝えてくれるのです。

私は、頭の中で絶えず生成されては、声に出せない言葉を、いつも相手に受け取ってほしいと強く思っています。そして相手からは、私自身に対して返事をもらいたいと。それは、発話障がいという孤独と隣り合わせの恐怖の中、私が追求し続けるものなのかもしれません。

話をもう少し広義での、おしゃれ全域で考えてみたいと思います。私にとっておしゃれは、自らの障がい特性と、それ故に追い求める言語的コミュニケーションの達成のために、存在している要素が強くあると述べました。確かにそれは間違いありません。持論として、男性にとっての三大魅せどころは、「腕時計、靴、メガネ」だと思っていますが、自分も類に違わずここに力を入れています。できるだけ良いものを、こだわっていると思われるものを。

しかし、そこには、障がい者性と健常者性の間で揺れ動くジレンマの存在があることにも気付きました。私は日頃から自己のアイデンティティや価値判断を、障がい者ではなく、健常者に合わせているということを、こうした魅せ方からも実感させられます。一方で、私は実はあえて「スーパー障がい者」として自己演出する場面もあるのです。それは、重度の障がいを抱えながらも、自立し、社会に貢献しながら立派に生きる障がい者である自分をアピールしたいという気持ちの表れなのだと思います。

健常者と同じでありたいという「健常者性」と、あえて障がい者として見せようとする「障がい者性」の間で葛藤をしているのです。両性は一見真逆の性質のように感じますが、この私の葛藤の中にあるのは、能力主義的な優勢思想であることもまた、ジレンマを一層深くしているのです。何故なら、健常者に近づきたいと思うことも、スーパー障がい者であろうとすることも、根底にあるのは、他よりも自分が優れていることで承認されたいという欲求であり、それは、ありのままの生を肯定する考え方とは言い難いからです。

私にとっておしゃれとは、とてもキラキラしていて、自らの可能性を広げるものである反面、おしゃれをする意味を深く考えていくと、そこには必ずルッキズム的な偏った思考や、そこから派生する能力主義的思考が、避けて通れないものとして立ちはだかるのです。

実は最近、私はマッチングアプリに登録をしてみました。純粋に出会いを求めてです。ただ、そこで感じたのは「いいね」(相手の女性から私のプロフィールに対して気になる、というアクション)がくると、やはり言いようのない自己肯定感の高まりがあったということです。本音として、私は外見に対する他者評価に、大きな喜びを感じ自信がもてたのです。

皆さんは、見た目は大事だと思いますか?もしかしたら、今回の特集テーマを根底から揺るがすような問いかけをしているかもしれませんね。私たちは「人は見た目が大事」とよく言いますが、その裏には一体どのような考え方があるのでしょうか。今一度、立ち止まって、それを考えなければいけないのではないでしょうか。

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