障害者運動の、その先

「新ノーマライゼーション」2021年11月号

社会福祉法人山梨県障害者福祉協会 理事長
竹内正直(たけうちまさなお)

1.キング牧師の遺した言葉

アメリカ公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング牧師は、不幸にして1968(昭和43)年4月4日、テロの凶弾に倒れました。

キング牧師は生前、次の言葉を遺しています。

「変化は不可避の車ではやって来ない。変化は継続した戦いの中から生まれる」

私が現住地の旧増穂町身体障害者福祉会(現・富士川町障害者福祉会)を設立したのは、キング牧師の亡くなる5年前の1963(昭和38)年3月24日でしたが、この言葉のもつ可能性への激しい挑戦の新鮮な響きに触発されて、事後はそれまでの合言葉として使用してきた、「自主・自立・自愛」とともに、組織規律の不易のスローガンとして使用し活動してまいりました。

このスローガンに従って、団体としての活動はすべて自前・手弁当・自己研鑽で進め、当時はどこの市町村の障害者団体も役場の所管課、社協担当者の手に縋(すが)って運営が進められていましたが、私たちはこれを排して、貧しくとも稚(おさな)くとも独立を堅持して、役員の自宅を事務局に、運営を行ってきました。

2.障害者運動の要諦

1993(平成5)年、障害者基本法の成立により、県下で一早(いちはや)く団体名の「身体障害者」を「障害者」と改め、知的障害者、精神障害者との一体化統合化を図りました。

さらに周辺未組織町村の町村長を個別に訪ね、当該町村の障害者団体の設立・運営への支援を要請、13年かかって南巨摩郡下全町村(7町村)組織化を果たし、郡連合会を設立しました(1964(昭和39)年)。また、1973(昭和48)年「障害者の生活環境を拡げる運動増穂町民会議」(町長が会長、障害者団体は町議会議長ととも副会長に就任)を興し、町の中心部に町議会の議決を経て「障害者の生活環境を拡げる運動推進宣言の町」の宣言塔を役場の敷地内に設置し、町民への啓発を進めてまいりました。そして町の文化祭と共催で「ひまわり福祉展(障害者文化展)」も県下に先駆けて実施し、今日に至っています。

とりわけ役員については厳しい役割と使命を課し、役員は上下関係ではなく、会員とは対等平等で「使い走り」のできる人材、つまり「御用聞き」に徹するという約束を負ってもらうことにしました。そのうえ、地域事情にも明るいことなどの要件を満たしていることも緊要事です。それは高齢社会にあっては、お年寄りは障害者予備軍で、こうした人たちへの優しい目配りも絶えず果たしていくことが要請されているからです。

3.地域とのかかわり

障害者運動を進めていくと否応なく地域が抱える課題にぶつかります。それは必ずしも障害のある人、お年寄りといった災害弱者に限らず、すべての人の身に同時に降りかかることだからです。

私の町ではすでに私の提案で2005(平成17)年6月に、高齢者障害者の避難支援の防災チーム「五人組」の組織化と、支援のための自主防災マップの作成を終えています。「五人組」という耳慣れない言葉に思い当たる人はかなり高齢な方で、江戸時代に連帯責任や治安維持などを目的に、住民が自主的に編成した防犯防災の監視組織ですが、これを換骨奪胎(かんこつだったい)して私の隣保組の発災対応体制に取り入れた訳です。

図 防災チーム「五人組」の防災マップ
図 防災チーム「五人組」の防災マップ拡大図・テキスト

特に留意したいのは、防災に限り「公助」は発災時に間に合わないのが普通で、まずは自助・共助で初期災害を防ぐことを心がけなければならないということを肝に銘じたいのです。五人組という体制は、一単位が小さければ小さいほどよく、向こう三軒両隣程度が最良です。目の届く範囲、掛け声の聞こえる範囲を括(くく)るのが最適ではないかと思います。

4.他者への支援

障害者としての私が今までかかわった事業で、一番大事なこととして心していることは、障害をもった私ができないこと、不可能なこと、言い換えれば、第三者の手を借りなければ日常生活が満たされないそのことを、周囲に理解してもらっておくことです。つまり、自分のできること、できないこと、補ってもらえばできること等の自身の情報を周りの人たちによく知ってもらうことが肝要です。これは、決して恥ずかしいことでも失礼なことでもなく、このことによって余計な心配や無駄な手間をかけずに済むことで、私たちにとっても周りの人にとっても必要不可欠な配慮だと思います。

そしてその上で、もう一つ大切なことは、私たちが常に人の手を借りる、面倒を見てもらうという受益するばかりの立場に甘んじることから、可能な限り他者への目配りを欠くことなく、身に余って障害にさしさわりのない範囲で協力支援が可能である場合は、潔く惜しみなく他者への支援の手を差し延べることです。

私が障害者運動を進める端緒となったのは、障害があるため結婚を諦めたり、またはそれが隘路(あいろ)となって配偶者に恵まれない友人のために、結婚を希望する人たちの出会いの場と機会を提供する事業を起こすことでした。

この事業を「ひまわりの集い―すばらしい友人と配偶者を得るために―」と命名して、第1回を1974(昭和49)年10月19日~20日の一泊二日で県立愛宕山少年自然の家で開催しました。その後、呼びかけを関東近県まで広げたので「ジャンボひまわりの集い」と改称して、現在まで47回開催し、好評裡に事業を進めています。

障害は身心の一部を制約しても、能力のすべてを失っている訳ではないので、胸を張って働きたいという思いを常にもっていたい。障害者は庇護を必要とする「弱者」の立場を超えて、適切な支援があれば普通の日常が可能であることを身をもって証明していくことを忘れてはならないと思います。

私たちの障害が、この世にノーマルな日常の暮らしを構築する「青写真」になれば、これに勝る喜びはありません。人は、地域は、町はすべての人に拓(ひら)かれ、すべての人に優しくあるように、障害のある人がいて障害のない人がいて当たり前が常識である社会に育てていきたいものです。

5.特に若い人へ

若い人には無限の夢と希望と漲(みなぎ)るエネルギーがあります。たとえ失敗したとしても挫折したとしても、すぐに立ち直り、次のステップを誤りなく拾うことができる英知があります。かつて米大リーグの名選手ジャッキー・ロビンソンは、「「不可能」の反対語は「可能」ではない。「挑戦」だ」という言葉を遺していますが、この言葉も忘れないでほしいのです。

さあ、躊躇(ためら)っているその足を一歩前へ進めよう。

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