共生社会の実現を目指して

「新ノーマライゼーション」2021年11月号

公益社団法人東京都盲人福祉協会 会長
笹川吉彦(ささがわよしひこ)

徐々に視力が低下し昭和25年に完全失明しました。たまたま担任だった先生が盲学校経験者だったことからすぐに盲学校に入るよう勧められましたが、とてもその気にはなれずそれから2年間医者巡りを続けていました。悶々とした生活の中で楽しみといえばラジオを聴くぐらいでした。

ある日、NHKの放送で盲学校では、柔道をしていると知り、勉強よりもスポーツの方が好きだった私は一も二もなく県立の福岡盲学校に入学しました。試験の際、試験官に鍼・灸・マッサージ科を選ぶか音楽科を選ぶかと問われ、音楽科と答えたところ、「音楽ではメシは食えんぞ」と言われ否応なく鍼・灸・マッサージ科に入ることになりました。生徒のほとんどは寮か寄宿舎で小学生から高校、専攻科までの生徒が学んでいてびっくりしました。また、生徒の半数近くはいわゆる弱視者で全盲生徒の世話をよくみてくれていました。

まず初めに取り組んだのは点字でした。極めて合理的に作られた点字は日本語に翻案されており、一週間ほどでマスターすることができましたが、読みとなると指先で一文字一文字読むため大変苦労しました。

5年間の学校生活を終え何とか鍼・灸・マッサージ師の免許を取得することができました。アルバイトで技術もある程度ついたので、これならできると思いました。

昭和33年に上京し技術を高めるため就職先を探しましたが、全盲ということで就職できず、止むなく出張専業で開業しました。しかし東京は健常者が多く青息吐息の状態でした。そうした中、昭和35年に業者仲間に誘われて東京都盲人福祉協会(都盲協)の総会に出る機会があり盲人団体の存在を知りました。また翌36年には世田谷区に数人の仲間と共に視覚障害者団体を立ち上げることができました。私は健常者と障害者の間に大きなギャップがあると感じ、そのギャップを少しでも小さくできればという願いを持っていました。

昭和38年都盲協の理事兼青年部長に指名され、国会の陳情などの仕事の傍ら福祉活動も活発に行うようになりました。上部団体である日盲連が国会に行った時、担当者が不具廃疾という言葉を使い、当時の会長が激怒して発言を改めさせたこともありました。また、身体障害者雇用促進法についても障害種別や等級別に細かく規定する必要性を強く要求しましたが、全く取り入れられず悔しい思いをしました。

肝心の治療の方は競争が激しく相変わらず厳しい状況でしたが、当時低料金として敬遠されがちだった鍼・灸・マッサージの健保取扱いに手を付け、近所の医師の同意書をいただき脳卒中やパーキンソン病などの継続患者の治療にあたりました。従って午前中は継続患者、午後は福祉活動、そして夜は一般治療と、多忙な日々を過ごしました。

当時の都盲協の事務所は東京ヘレンケラー協会の階段下の狭い部屋に置かれていました。職員はおらず役員が奉仕的に出て活動していましたが、昭和39年に日盲連の事務局が大阪から東京に移転して来て狭い都盲協の事務所に同居するようになりました。職員が一人いて持ちつ持たれつの生活でした。都盲協の果たすべき役割もますます大きくなり、障害者に関する法律も徐々に充実するようになりました。また、国際交流も活発となり、WBU(世界盲人連合)や東アジア太平洋地域協議会との交流も盛んになり、国際会議にも積極的に参加するようになりました。私もその末席を汚すようになり国際会議の一員として出席することができ、アメリカの教育制度について意見交換が行われました。私は前々から健常者とのギャップを解決するためには統合教育を実現する以外にはないと考え、事あるごとに主張してきましたが、残念ながらわが国では実現できませんでした。たまたま意見交換会で教育問題が取り上げられ視覚障害をもつ子どもが母親と同席、委員会から普通校を希望するか盲学校を希望するかとの質問に対し、「普通校がいい」とはっきり答え、母親も同意して普通校で学ぶことが決定されるシーンを目の当たりにして「我が意を得たり」という気持ちになりました。当時日本ではどこの学校に入るかは本人や親の意思よりも教育委員会の意向の方が強く、目が悪ければ自動的に特殊教育を受けることになっていました。成人まで別々に教育され社会人になって相互理解といってもそうそううまくいくはずはありません。わが国も保守的だった文部省もようやくインクルーシブ教育に取り組むようになりました。

これから100年後どう変わっていくかが楽しみです。

ところで日盲連会長を務めていた頃、事務局長から「白杖が補装具から日常生活用具に移る」との報告を受け厚生省に単独で乗り込み大声でその必要性を訴え、担当者の安易な考えに対し厳重抗議をしました。その結果、白杖は補装具として存続することになりましたが、まだまだ担当者でさえ補装具の重要性を十分認識していないことを痛感しました。

私が幅広い活動ができた理由のひとつは、単独歩行ができたことです。私たちの時代には歩行訓練など全くありませんでした。その結果これまでにホームから4回転落したり、横断歩道ではねられたり、工事現場に転落、柵のない川への転落などを経験しました。その原因は正しい白杖歩行の訓練を受けていなかったからです。つまり、全く我流の白杖歩行でした。

先にも記したとおり失明した当時、何にもできずに悶々とした生活を送っていました。それを見かねてか近所のご主人が「これならできるでしょう」と、落花生の殻むきの仕事を持ってきてくれました。当時は落花生の殻むきは手作業で行われていました。私は夢中になって一日中殻むきをしました。何日か経て気が付くと親指の先にまめができそれが潰れていました。季節のものですから一年中とはいきませんが、働く喜びを実感し労働こそ人間の命だということを体験しました。

60年間の活動の中で会員の皆さんのご理解とご協力、そして日本船舶振興会(現・日本財団)、日本自転車振興会(現・JKA)や経済界のご支援をいただき日盲福祉センター(現・日視センター)や東京都盲人福祉センターの建設に関わってきましたが、平成14年都盲福祉センターの地続きに空地ができ思い切って借り受け都盲福祉センターの新館を建設しました。そのねらいは、働きたくても働く場のない視覚障害者の方々に私が経験した「働く喜び」を感じてもらおうと就労支援事業所を立ち上げることでした。幸いにも多くの方々のご協力をいただき、狭いながらも念願の「就労継続支援B型事業所パイオニア」を立ち上げることができました。現在22名の方が低賃金ながらも働くことの喜びを実感してくれています。

「パイオニア」で働きたいという視覚障害者は多く、常に待機者がいる状況ですが、あまりにも手狭でどうにもならず待機しておられる視覚障害者の方々に辛い思いをさせる結果となっています。働くことは人間の生命です。それは健常者であっても障害者であっても同じことです。これからはインクルーシブ教育が定着することによって、小中高校生の間で障害者に対する理解も深まっていき、力強い支援の手がさしのべられるものと期待しています。共生社会という言葉を聞きますが、残念ながら「道なお遠し」の感があります。

最後に、いずれの社会においても、少子高齢社会の中にあり、後継の育成や後進の育成が課題とされています。私たちの組織活動の理念や信念は、一貫性をもって取り組んでいかねばなりませんが、我々世代が次世代対して、これまでの成功体験、失敗体験をつまびらかにすることと同時に若い世代の価値観や考え方を積極的に取り入れ多様性を受け入れていかねばならないと強く感じています。そして、若い世代自らが進んで積極的に役割を持ちつつ、責任を持って取り組むことで一層の成長が期待できると考えています。

menu