若竹集う 楽しいわが家~♪わが家座敷はめでたき座敷、鶴と亀とが舞い遊ぶ♪~

「新ノーマライゼーション」2021年11月号

一般財団法人全日本ろうあ連盟 元理事
北野雅子(きたのまさこ)

わが家は、明治中期に建てられた古民家です。もうずいぶん昔、子どもたちが小さいころ、家の中で、鬼ごっこや隠れん坊などをしたりして遊び、祖父は、時おり訪れる友人と囲碁を楽しんだりしていました。私は、子どもたちにおやつをつくり、和菓子が好きな祖父たちには、季節彩の和菓子とお茶をお出しし、自由で気まま、のどかでのんびりした時代を過ごしていました。常日ごろから、「わが家座敷はめでたき座敷、鶴と亀とが舞い遊ぶ♪」この平和がいつまでも続きたまりますようにと心の中でメロディを唱えながら…。

今夏、全日本ろうあ連盟の久松事務局長がわが家を訪問された時、「北野さんの家は福を呼ぶ家」とおっしゃっていました。その言葉は、とてもうれしく、数多くの人々との出会いや通り過ぎていった忘れがたい思い出などが走馬灯のように頭の中をかけ巡りました。

祖父が他界し、わが子が大病をするまでは、それまでは至って素朴で平和な時代を、平凡な家庭の主婦として過ごしてきました。そのありがたみが、いまさらながら心に染みます。

その平凡な家庭の主婦が、どのような経過でろうあ運動に開眼し、手話通訳制度化を求めて一直線に邁進したのでしょうか。

私はもう80歳。人生でいえばもう晩節です。あと残りの命はどう過ごそうか、晩節は心安らかに過ごしたい、自分の心が平和で安泰で居られる場所、それは結局、たどり着くのは夫が残してくれた思い出多き、わが家です。ここを終の棲家に決めました。もちろん、一人では無理です。多くの仲間、家族の協力があればこそです。

わが家を中核にして、いろいろ通りすぎた幾一重の思い出、今までのことをいろいろ振り返ってみました。

1971年―わが子の大病と筆談の限界

私はもともと活動家タイプではありませんでした。ごく普通の家庭の主婦です。聞こえなくても会話に困らないように、子どものころから厳しくしつけられましたので、筆談には自信がありました。

昭和46年、わが子が重い病気にかかりました。薬の効果や副作用など、細かいインフォームドコンセントといいましょうか、微妙な説明は「筆談では非常に時間がかかり、医療現場で医師との会話に筆談の限界」を痛感しました。親切でよい医師でしたが、聞こえない母親を前にして、当惑している様子が伝わり、胸が痛みました。昭和46年といえば、今から50年前、手話通訳者が金沢にはまだいなかったころです。

医師から「失礼だがご母堂様をお連れください」と何度か言われました。母を呼べば、母と医師との会話になります。私は後で、母からまとめた説明を聞くことになり、私と医師との会話、コミュニケーションが途絶え、医師との信頼関係が築けなくなります。また母に、「聞こえない娘は育児も大変なのだろうか」と心配させることになります。私は私なりに、医学全集を買って勉強するなど努力していましたが、このような努力はどこまで評価されていたのでしょうか。

1972年―自宅を開放し、金沢大学の学生に手話を教え始める「教えることは学ぶこと」なり

子どもの病気が治ったころ、金沢大学の学生(当時はろう教育学部在り)に「手話を教えてあげるから助けてほしい」と呼びかけ、ろう者の仲間とともに、自宅を開放して手話の勉強会を始めました。大学生はすぐに手話を覚え、いろいろ質問をしてきました。質問に答えるために、さらに勉強が必要でした。このような当時の活動は手話の勉強会というより、聞こえないことに起因するいろいろな問題を掘り起こし、一緒に考え、話し合うことが中心でした。

昭和時代、平成の初めころは、手話蔑視、障害者排除など、露骨な差別がたくさん残っていました。私がろう者で聞こえないから、聞こえる人の3倍、4倍頑張らなければならない…と努力が必要と思い込み、頑張っていました。学生から「それはおかしい、聞こえないことに起因する問題はろう者の責任ではない」。また、私は「自分のために手話通訳者が必要だから通訳者を育てなければならない」との思いから一生懸命でいましたが、それに対する大学生の価値観も、「通訳者は社会資源。行政が責任をもって育てるもの」。僕たちはそのお手伝いをする、という考えだったようです。今から50年前、昭和47年のころのお話です。大学生といろいろ学び合うことで、お互いがともに育つ「共育」のありがたみをたくさんたくさん体験し、鍛えられました。

1981年国際障害者年―障害者の社会への「完全参加と平等」

1981年は国際障害者年で、国連は世界を挙げて、障害者の社会への「完全参加と平等」のスローガンとともに、さまざまな施策が進められていました。しかし、ろう者に対する施策は遅々として進まず、私たちは、全日本ろうあ連盟を挙げて「手話通訳制度化への理解」を求め、「アイ・ラブ・コミュニケーション」パンフレットを一冊200円で、日本国民の1%、120万冊普及活動に頑張りました。

石川県手話通訳制度を確立する推進委員会

アイ・ラブ・コミュニケーション全国普及活動がきっかけで、「石川県の手話通訳制度を確立する推進委員会」を結成させました。ろう者は、行政の窓口では適切に対応してもらえず、長い間迷惑を被ってきました。手話通訳制度化を目指し、石川県内19市町の自治体すべてに「手話通訳者を正規職員として採用させる取り組み」を頑張って継続させていたのです。

ろう者も高い県民税、市民税を払っています。しかし、ろう者は行政の窓口では話が通じず、適切に応対してもらえませんでした。迷惑を受けているのは、私たちろう者であると思っても、社会的弱者(嫌な言葉ですが)の位置づけがあり、我慢するしかありませんでした。役所に、ろう者問題に詳しい手話通訳者が正規職員として採用されていれば、ろう者の生活と権利が守られ、災害、病気、想定外な出来事などが起きても、敏速に権利擁護がなされ、行政として責任をもって対応してもらえる…との思いからでした。

【参考】平成31年度(令和元年度)までの成果は、石川県を含めて20自治体、団体の手話通訳職員数37名(正規職員18名、嘱託職員11名、団体職員9名)

県内すべての自治体に、手話通訳正規職員の採用メリット

私たちは、「手話通訳者の正規採用によって、福祉の範囲だけでなく、将来を見据えた事業ができる、ろう者の社会参加の枠が広がる」と思っています。

手話通訳者の身分を守るとともに、「ろう者の社会への完全参加と平等」を願い、行政で働く手話通訳者は、短期雇用ではなく、安定した長期雇用ができるよう正規職員として採用する。この方針をモットーとして、35年間という、長い年月をかけて道を拓いてきました。そして、手話通訳者には「ろう者の社会への完全参加と平等」への道を一緒に模索してほしいと思っています。

結果的には市民全体が対等になり、県内の設置が進むことで、点から線へ、行政設置の手話通訳者のネットワークも図れると思います。

楽しいわが家

「打たれる土地はよい畑になる」といわれるように「ろう者の活動、ろうあ運動は、人を育てる土壌」があります。

北野古民家であるわが家は平成26年、青年部の沖田君がわが家を訪問したあと、藤平さんに「北野宅にまた行きたい」と申し入れたことが発端ですが、それがきっかけで、北野古民家に集まる若い人がどんどん増えてきました。うれしいことです。

集いの名を「若竹の集い」と命名しました。コロナ渦の今、集うことはありませんが、若竹の面々は、今、石川県聴覚障害者青年部の役員として頑張っていますから、活動の状況は何となく伝わります。

平成26年7月から続き、令和3年の今、コロナ渦が収まるまで休業になりましたが、これがご縁で、いろいろ新しい出会いが生まれました。コロナ渦のためにお休みするのは残念ですが、私が元気な間はまたいずれ、楽しいだんらんができることを願っています。また、大学を卒業して、東京や栃木から、お盆休みに手土産をもって遊びに来てくださる人がいることもうれしいことです。

皆さん、楽しい時間を本当にありがとうございました。

羽ばたけ、若い力。手話言語♡

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