多くの先人に触発されて

「新ノーマライゼーション」2021年11月号

一般社団法人全国手をつなぐ育成会連合会 監事
村山勇治(むらやまゆうじ)

1.親の会誕生

私が今日に至るまで、およそ40年在籍してきた全国手をつなぐ育成会連合会(旧親の会)の成り立ちについて、紹介させていただきます。

戦後の荒廃した世情の中、少しずつそれぞれの営みに落ち着きが見え始めた昭和27年、東京において3人のお母さんの呼びかけによって、手をつなぐ親の会が結成されました。

3人のお母さんのひとり加藤千加子さんは、三女の娘さんが当時知恵遅れといわれていた障害児で、住居地の埼玉県大宮市(現さいたま市)から、特殊学級が設置されていた東京神田の神竜小学校(注)に通学していました。

2.「天の命ずるままに」

加藤さんは、発足時の手をつなぐ親の会の会長であり、翌年遅れて結成された埼玉県手をつなぐ親の会の初代会長でもありました。

平成14年、その埼玉県手をつなぐ育成会の創立50周年記念誌に「天の命ずるままに」と題して特別寄稿された加藤さんは、その中で、当時の知能の遅れた子どもたちがどんな悲惨な状況に置かれているかを、娘を神竜小学校に入学させてから初めて知ったと。こうした特殊学級に入れるのは、ほんの一握りに過ぎず、大多数の子どもたちは放置され、ある者は悪い大人に利用されて悪事を犯し、ある者は犬猫のように暗い部屋につながれ、障害のある子の親たちは世間の冷たい視線の中で身を縮めて暮らし、中には行く末を案じて子を道連れに死を選ぶ親もいた時代なのです。

そうした状況を知れば知るほど、何とかしてこの子らを救いたい、何とかしなければと思い、悶々とする日々を過ごしていたある時、知り合いの医師から、結核予防運動の成功へのプロセスを聞き、はっと啓示を受けた。全国の子どもたちを救うのには、この子らのために教育の立法化と福祉法の適用を目指して擁護運動を起こすしかない。これこそ天が私に与え給うた天命と確信したと綴られています。

加藤さんは、むしろ、結成以後の運動こそ、ご本人のみならず、家族の運命をも変える過酷な試練となったと述懐されています。日々の運動の中で、矢つき刀折れて瀕死の床に就くことも幾度となくあった。中央と埼玉を連日行き来する運動のために、土地や家を売れるだけ売ってこの運動にかけ、移り住んだ貸し家が老朽化しても修理することもできず、家計はいつも火の車、そのため子どもたちには、どれほどつらい惨めな思いをさせたか知れないとも。

昭和27年から40年にかけての、加藤さんの親の会活動はまさに壮絶な日々だったと、今読み返しても胸を締め付けられる思いがいたします。こうした先人の後ろ姿に、どれだけ多くの親たちが励まされてきたことか。

3.幼稚園園長の叱責に目覚めて

私は埼玉県内でも過疎が進んでいる秩父市で、昭和50年ころ、すでに5歳に達していた長男の就学問題に頭を悩ませていました。それまで数か所の医療機関を受診、そのころからマスコミにも話題になり始めていた自閉症、発達障害との診断を受けていたのです。

自閉症は情緒障害ともいわれ、この分野の専門家から、特殊学級より情緒障害学級での教育が有効と指導され、藁をもつかむ思いで、市内通学区の小学校に情緒障害学級の設置を求めて、市議会に請願しようとしました。ところが、学級を設置するためには対象児が5人以上、担任教諭には1年の長期研修が必要なことなど、知らないことばかりでした。それでも教育長が前向きな答弁をしてくれたので、早速長男と同じ自閉症、発達障害と思われる子どもの親御さんの家を個別訪問し、何とか事情を理解してもらい、教育委員会に5人のリストを提出しました。

当時30歳そこそこの私が、これほど積極的になれたのは訳があるのです。障害のある長男をそれまで受け入れてくれた、幼稚園の園長の叱責に触発されたからです。それは2年通った卒園式の日、子育ては母親の仕事とかたくなな私は、長女出産準備の妻の代わりに初めて出席したのですが、50人ほどの卒園児の親たちの前で、名指しでこう言われたのです。「卒園生の中で一人だけ進路が決まっていない子がいます。その子に障害があるからではなく、お父さんが仕事を理由に、子どものことを真剣に考えていなかったからです」。

さらに、「卒園児の集団遊戯の時、あなたのお子さんがどんな行動をとるかしっかり見てください」。他の園児が集団で整然と演技している中で、長男だけはポツンと別行動、その姿を目の当たりにして、それまでは障害を受容しながらも、そのうちに追いついてくれるという、根拠のない望みを持っていた私は、現実を突きつけられ、頭を殴られたような衝撃を覚えました。しばらくの間、自責の念で涙が止まりませんでした。何もかも園長の言われるとおりだったからです。長男の障害に父親として向き合おうと決意した瞬間でもありました。

5人の親の会の代表を務めた経験から、養護学校入学当初から、PTA活動にも積極的に参加、やがて後援会会長、PTA会長を務めることは私にとって自然の成り行きでした。

そしてPTA会長の時、冒頭で紹介させていただいた、全日本手をつなぐ親の会の存在を知り、地元秩父に前述の5人の親の会をベースにした組織を立ち上げ、県、全国組織に加盟することになったのも、こちらから望んで決めたことでした。やがて地元親の会の会長、埼玉県手をつなぐ育成会理事長、全国手をつなぐ育成会連合会副会長の役職を通して、加藤千加子さんはじめ、びわこ学園創始者の糸賀一雄氏など、多くの先人の言葉に触発されてきました。

広報誌に寄稿されたあるお父さんの言葉に「親が楽をすると、子どもの幸せが遠のく気がする」。この言葉によって、私はみんなが幸せになるための活動をやらなければ、わが子の幸せはないとの信念を持つに至りました。こうした思いが制度を変え、社会を変え、人を変えていく原動力になったものと思います。

4.障害福祉を担う若き人たちへ

親の会活動を通して、多くの先輩の背中を見ながら学ばせてもらった私ですが、同時に研修会や関係書籍によって、「障害福祉の父」とも評される「糸賀一雄」という名前を知りました。「この子らを世の光に」の言葉とともに、糸賀一雄の思想に触れ、言いようのない衝動を覚え、胸を揺さぶられる想いをいたしました。

残念ながら生前の姿や声に接することは叶いませんでしたが、数多く残されている「糸賀語録」は、単に障害福祉の範囲にとどまらず、人間社会の信頼、平和と喜びのある社会につながる言葉だと理解できました。

語録の中でも私が最も胸に響いた言葉を、リーダーを目指す若き人たちに伝えたいと思います。

「この世界の自覚者になる。自覚者は責任者たれ」

さいごに

平成4年、長男は21歳で病を得て亡くなりました。けれども、こうした先人の言葉に少しでも近づけたら、そうすることが亡き長男の願いでもあるのではと思っています。傘寿を目の前にして、なお、地元の障害者支援施設を運営する社会福祉法人で働く機会を得ています。

障害があってもなくても、誰もが地域社会で普通に暮らせる地域生活移行を掲げて、微力を尽くしていきたいと思います。


(注)神竜小学校:東京都千代田区内神田2、1966年神田小学校へ統合、昭和24年より特殊学級開設。

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