ひと~マイライフ-きこえない私が経験を通して見つけた自分らしさ

「新ノーマライゼーション」2021年12月号

門脇翠(かどわきみどり)

社会福祉法人佛子園のウェルネスジム「GOTCHA!WELLNESS」職員、トレーナー。1992年埼玉県さいたま市生まれ。先天性の重度感音性難聴。地域の小中学校、県立高校を経て、東洋大学にて健康スポーツ学を学ぶ。在学中に第22回夏季デフリンピック競技大会に100mと4×100mリレーの日本代表として出場。卒業後は筑波大学大学院にてデフスポーツの研究を行う。修了後は筑波技術大学ろう者学の助手を務める傍ら、一般社団法人日本デフ陸上競技協会の理事としてのデフ陸上競技の普及活動、一般財団法人全日本ろうあ連盟によるデフリンピックの啓発活動にも携わる。

2歳で補聴器をつけ始めてから、周囲と変わらない生活をしてきましたが、幼稚園に通い始めたのと同時に療育施設で発音練習と読み書きを習ってきました。その発音練習は個室で言語聴覚士の先生と向かい合って舌の場所と動かし方、口の形を確認、真似しながらひたすら声を出すことを繰り返す作業でしたが、上手に話せるようになりたい一心で、一生懸命に諦めずに向き合ってきたことを今でも鮮明に覚えています。小学2年時には父の仕事の都合でインドネシアのスラバヤに移住し、約4年間日本人学校で学びました。現地校との交流も盛んで、現地校の友達と拙いインドネシア語で話して通じたことの喜びは今でも忘れられません。小学6年時に帰国して、中学に上がると友達との関係性に悩むことが増え、部活動で陸上競技の練習に打ち込んでいる時が、唯一の楽しい時間でした。全国障害者スポーツ大会に出場する機会もいただき、初めて障がい種を超えた交流、大会を盛り上げてくれるボランティアさんの温かさに触れ、スポーツを通した人との関わりはこんなにも楽しいのだと将来はスポーツ関係の仕事を志すようになりました。

大学1年生の時に日本デフ陸上競技協会のスカウトを受け、世界デフ陸上競技選手権大会の日本代表に選出され、次年にはデフリンピック競技大会にも出場するという有難いご縁に恵まれました。そこで初めてデフ世界(手話の世界)に足を踏み入れたのですが、これまできこえる人と同じようになりたい一心で口話を頑張ってきたのに、その努力が無駄になると考え葛藤しました。代表活動で自分と同じ境遇を持つ陸上仲間に初めて出会ったことで、この人たちと話をしたいという思いが手話を次第に受容していきました。しかし、デフスポーツ以外のところでは、私の手話を第一言語とする考え方が無いことに対して「君はろう者じゃなくて難聴者だ」「デフアイデンティティ(デフとしての自己表現)が弱い」と言われる始末。このような同じ耳がきこえない中での難聴とろうの差別化に疑問を抱き、きこえないからといってDeafでいないといけないのか?と悩んだ時期もありました。手話言語条例を導入する自治体が増えて社会的に聴覚障がいに対する理解が少しずつ進んでいます。どこでも手話が通じたらどんなに楽だろうと思いますが、手話を覚えないと仲良くなれないという壁を作りたくないという思いから口話も必要な時がある、コミュニケーション手段はたくさん持っておこうという考えに至りました。

現在勤務しているウェルネスジムは、大学時代のアルバイト先のフィットネスクラブの元上司とのご縁で入職しました。大学生の時にジムインストラクターに憧れて3社にアルバイトの申込をしたところ、聴覚障がいを理由に書類で落とされ、きこえないせいでやりたいことができないのかと絶望しつつも諦められず、最後にもう1社…と受けてようやく採用していただいたという経験をしました。今思えば佛子園に入るためのご縁だったと思っています。温泉、飲食店などが入った総合型施設の中にジムとプールがあり、一般の方だけでなく福祉サービスを利用する方も含めたさまざまな背景を持つ人たちが運動しに来られます。障がいの有無に関係なく、お互いが相手を思うこと、譲り合うことが当たり前の環境なので、小学生の時からごちゃまぜを経験してきた私にとっては非常に居心地の良い場所です。新型コロナウイルスが蔓延するようになってから接客におけるマスク壁が辛くて、現場に出たくないとネガティブになりますが、実際に現場に出ればマスクを下げて口元を見せて話をしてくれる周囲の理解に救われて、そんな人たちのために動こうという思いで仕事をしています。石川県から全国へ、“ごちゃまぜ”の精神が伝播していくことを願いながら、日々現場でトレーナーとして一人ひとりと向き合っています。


大文字のDによる表現で手話を第一言語とするデフとしての自己を確立できているという意味合いがあるようです。

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