弱視当事者、そして生きづらさを抱えるすべての方へ

「新ノーマライゼーション」2022年1月号

漫画家
うおやま

弱視が主人公の漫画を描き始めたきっかけー「見えにくい」弱視のことを知ってほしい

私が描いている漫画「ヤンキー君と白杖ガール」は、視覚障害の一種である弱視の盲学校生が主人公のラブコメ漫画です。

こつこつ続けているうちに、幸運にも実写ドラマ化という大きな舞台をいただきましたが、そもそも私が本作を描こうと思ったのは、とても個人的な動機でした。それは「父が抱えている『見えにくさ』を知ってほしい」ということでした。

私の父は人生の途中で弱視(ロービジョン)になりました。私が生まれる前に、病気のため視力が低下し、現在では右目は失明、左目の視野が4分の1ほどに縮小した状態です。そんな見えにくい父と暮らしていると、世の中がいかに「見えること前提」にできているか気づかされました。

例えば、書類や商品のパッケージの、小さく薄い印字は父には見えません。セルフレジや自動券売機に使われている、指で触ってもわからないつるつるの画面を押すタッチパネルも、見えにくい父には使えません。

視覚障害といえば、まったく見えない「全盲」というイメージが強いですが、実は父のように「見えにくい」弱視の目を持ちながら、そのことをあまり知られずに生きている人もたくさんいます。

近年の、セルフレジや無人駅の増加などサービスの機械化は、あくまでも「見えて、機械を扱えることが前提」で進んでいるものです。視覚障害者はもちろん、機械に慣れていない高齢者の方なども、戸惑いを覚えている方が多いのではないでしょうか。

だから私は、「ちょっと待って。世の中には、見えにくい人や、機械化に順応できない人もいるんだよ」ということを知ってもらいたくて、弱視が主人公の漫画を描き始めました。

弱視の人を一人の「人間」として漫画上で表現

ただ、私にとって弱視は身近な障害ですが、なじみのない人も多いです。「視覚障害者」と聞くだけで、「自分には関係ない」と思い、興味を持てない人もいると思います。「障害者」というカテゴリーでその人を見ると、別世界の人に思えてしまうかもしれませんが、そこにはまず、個性も生き方も違う一人ひとりの「人間」がいます。そのことを漫画上で表現することが、弱視を身近に感じてもらう一歩ではないかと思いました。

「ヤンキー君と白杖ガール」の主人公である弱視の盲学校生・赤座ユキコは、16歳の平凡な女の子です。頑張り屋ですが、特別な才能があるわけではありません。恋もすればオシャレもするし、勉強もしてバイトもしてみたい、遊びにも行きたい、悩みもあるし、なまけたいときもあります。

まずそうやって、赤座ユキコという「人間」を描くことで、「別世界にいる障害者」ではなく「すぐ隣にいる女の子」と感じていただき、彼女が私たちと同じ社会で生きる姿を通じて、弱視のことを自然に知ってもらえたらいいなと思いました。

そんな彼女の恋愛相手となる黒川森生も、顔に傷をもつヤンキーで、ユキコと事情は違うけれども社会で生きていくことにハードルを置かれている人物です。

社会が決めた「フツウ」になれない生きづらさ

障害のあるユキコだけでなく、彼にも質の異なる生きづらさがあります。キズや生い立ちのせいで偏見の目にさらされ、社会に受け入れられないという思いを抱えています。彼は、ユキコを一方的に救ったり守ったりする存在ではありません。ふたりはお互いに助け合い、世界を広げあう存在です。

ユキコだけでなく森生も生きづらさを抱える人物にしたのは、この社会が「障害者」にもたらしている生きづらさは、すべての人にとって無関係ではないと感じているからです。

本作には、ユキコと森生以外にも、さまざまな生きづらさを感じている人たちが出てきます。いじめられていた子、同性愛者、引きこもりの子、踏みつけにされてきたがために罪を犯してしまう人物も出てきます。

彼らも弱視のユキコと同じように、自分にとっての「フツウ」を持っていながら、社会が決めた「フツウ」からはみ出ているがために苦しんでいます。彼らは社会的にはマイノリティかもしれませんが、社会が決めた「フツウ」になれない生きづらさは、大なり小なり多くの方が感じたことがあるのではないだろうか、と私は思って描いています。

作中の森生の言葉に、「社会にメーワクかけない『特別』な奴だけが今の社会じゃ『フツウ』とされてる」というものがあります。病気になったりケガをしたり職を失ったり、人は誰しも社会の決めた「フツウ」から転げ落ちる可能性があります。

マイノリティが生きやすい社会はすべての人が生きやすい社会

社会的弱者やマイノリティをないがしろにしたまま進む社会は、「フツウ」の枠をどんどんせばめていき、いずれ多くの人をとりこぼして置き去りにしていくのではないでしょうか。逆に、マイノリティが生きやすい社会を目指すことが、すべての人にとって生きやすい社会となると私は考えています。

作中でも、弱視のユキコが働くようになったお店が、結果的にすべての店員にとって働きやすい職場に改善されていきました。

「今の社会に適応できない人が悪い」のではなく、「今の社会の常識が正解なのか?」と疑う姿勢が大切ではないかと思います。

もし今、自分のいる世界で生きづらいと感じている人がいたら、弱視のユキコや、作中に出てくる人々の姿から、「世界はもっと広く、多様なのだから、決められた枠に入れないのはおかしいことではないんだよ」ということを知ってもらえたらいいなと思います。

人それぞれの「フツウ」を知ることが多様性社会への一歩

「見える」でも「見えない」でもなく「見えにくい」弱視のように、人の「フツウ」にも生きづらさにも、0か100ではない無数のグラデーションがあるのです。わかりやすくはないからこそ他人に理解されにくいかもしれませんが、想像することはできます。世の中には、さまざまな人がいて、その人だけの事情がある。そのことを知るだけでも、世の中の見方は変わるのではないかと思います。

「ヤンキー君と白杖ガール」のユキコと森生が対話を繰り返しながら互いの世界を知っていくように、まず「人それぞれの『フツウ』があること」を知り、想像していくことが「多様性社会」であり、すべての人が生きやすい社会の一歩になっていくのではないかと思っています。

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