ひと~マイライフ-面倒で困難な人生と向き合い続ける

「新ノーマライゼーション」2022年1月号

相良真央(さがらまお)

発達障害、線維筋痛症、うつ、強迫神経症、拒食症などなどの当事者。1983年生まれ、宮崎市在住(実際は全国津々浦々に出没)。10代から20代を拒食症で消費し、30歳ころから発達障害当事者活動を始め、2015年に当事者会の仲間とNPO法人凸凹ライフデザインを設立。2016年4月に発生した熊本地震被災者支援の仕事中、線維筋痛症の診断。現在、痛みと薬代に悩む日々。

物心ついた時から何かが不安で仕方なかった気がします。幼稚園の時は先生に怒られる夢で目を覚まし、なぜか「小学生になったら逆立ちをさせられる、私できないどうしよう」とおびえていました。1年生の時の宿題で、ひらがなの練習「文字のおけいこノート」があったのですが、毎日「まだきれいに書けてない!」と泣きながら、ノートが破れるまで何時間も書いては消し書いては消し。私にとっては<先生という生き物>が絶対的な存在で、もう大丈夫だよと両親からどれだけ言われても、先生に怒られないために完璧にしなくてはならないという強迫観念から逃れられませんでした。

中学3年間は1番を取ることにこだわり続け、定期試験の1か月以上前から不安で泣き叫んでいました。両親は勉強しなくてよいと言い、学校でも何か言われたわけではなかったのに、今考えれば不思議です。高校2年で拒食症になり、通院していた心療内科で入院したいとこぼすと、医師から「入院すれば学校に行かなくていい理由ができるもんね」と言われてショックを受けました。大学病院に入院し、高校をやめ、発達障害と診断されました。

20代を拒食で過ごした私は、学校に入学しては退学し、一人暮らしを始めては挫折し、アルバイトをしては辞めていました。強迫神経症も悪化して日常動作ができなくなり、ついに体重が24キロまで落ちて死にかけました。入院中の真夜中、医師に延々と話を聞いてもらっていたある瞬間、突然何かがすとんと腑に落ちた感覚がありました。それから劇的に治る…わけもなく相変わらず拒食でしたが、死ねないこと、生きていくしかないことがだんだんとわかってきました。

30歳を前に体重がやや戻り、発達障害の当事者会に行き始め、数年後仲間とNPO法人凸凹ライフデザインを立ち上げました。と言うと「すごいね」と言われることがたまにありますが、実際はとんでもない、毎日が葛藤とトラブルの連続です。中でも最も面倒なのは頑固な上に口が立つ私で、容赦なく仲間を泣かせ、そしてみんなが優しいのをいいことに、何事もなかったように今も一緒に活動しています。

発達障害者は面倒だと思われがちですが、おそらくイメージよりもっと面倒で複雑です。ですが、絶対におもしろい存在ではあるはず。私たちは良くも悪くも、人間の根本の縮図のような人生を送らざるを得ないのかもしれません。凸凹ライフデザインでは発達障害者の独特で魅力的な感性を伝えるため、当事者会をベースに、研修会や講演、当事者視点の啓発冊子作成などを行っています。活動を通じて、覚悟をもって面倒さと向き合い続けるのは本当におもしろい営みだと感じています。とてつもなく消耗することでもありますが…。

「ふつうになりたい」と、当事者会でつぶやく方が時々います。普通というものが本当にあるのなら、私だって普通に人生うまくやっていきたかった。大学に行って就職して結婚するものだと思っていました。それが今や、あきらめることや手放すことばかり考えざるを得ません。線維筋痛症もあり思うように体も動かせなくなりました(私はあまのじゃくなので、こう言いながらいつかは大学に行き就職し結婚して離婚するかもしれません)。

相変わらず逆立ちはできず、何をやってもうまくいかないし、トラブルを起こしてはへこみ、不安はもやのように付きまとうのですが、でもたぶんそこそこ幸せ(?)です。当事者会から広がった世界と、愛すべき面倒な仲間たちがいること。そして面倒な私のことを仲間たちが認めてくれていると信じられる、そんな環境があるからだと思います。

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