証言:RIの盛衰 ―1969年総会・第11回世界会議から1980年総会・第14回世界会議までとそれ以降―

日本障害者リハビリテーション協会副会長・法政大学名誉教授 松井 亮輔

はじめに

1922年にシカゴで設立された国際リハビリテーション協会(当初の名称は、国際肢体不自由児協会。以下RI)は、まもなく100周年を迎える。その黄金時代といえるのは、1970年代から1980年代にかけてで、その間事務局長として歴代の会長を補佐したノーマン・アクトン(米国人、任期は1967年~1984年)とその専門スタッフ(スーザン・ハマーマン事務局次長とバーバラ・ダンカン広報部長)の果たした役割がきわめて大きかったといえる。

最近は、会費を納入する加盟団体が激減し、その結果、会費収入だけではニューヨーク本部事務局の維持も困難になるなど、まさにその存続が危惧されるような状況になっている。

以下では、RI飛躍のステップとなった1969年のダブリンでの総会および第11回世界会議((注)第1回世界会議は、1929年ジュネーブで開催)、ならびに衰退への転換期となった1980年にカナダのウィニペグでひらかれた総会および第14回世界会議とそれ以降の動きから、その衰退の要因を究明するとともに、その存続に必要な条件整備などについて考えてみたい。

因みに、日本の最初のRI加盟団体は、社会福祉法人日本肢体不自由児協会で、1950年に加盟している。そして、同協会にかわり加盟団体となった(公財)日本障害者リハビリテーション協会(当初の名称は、日本肢体不自由者リハビリテーション協会。以下、リハ協)設立のきっかけとなったのは、1965年に東京で開催された第3回RI汎太平洋リハビリテーション会議(現・RIアジア太平洋地域会議)で、それを主催したのがリハ協である。

1.RI飛躍のステップとなった1969年の総会と第11回世界会議

1969年にダブリンで開催された総会では、「リハビリテーションの10年」宣言および国際アクセスシンボルマークなどが採択された。同10年宣言は、「・・・この10年間およびその後も引き続いて、すべての国々で障害者の権利が守られ、すべての人びとが自らの望みを実現できる公平な機会を持てるようにすること。そして、その目的を達成するため、障害に伴う諸問題を解決することによってもたらされる経済的、社会的利益をより多くの人びとに理解させること、各国政府にその国の障害者を援助するのに必要なあらゆるサービスを拡充するために緊急に対策をとること」などを要請している。同宣言は、1971年に東京で開催されたRI汎太平洋職業リハビリテーション会議の際、ノーマン・アクトン事務局長などが、当時の佐藤栄作総理大臣を表敬し、直接手渡している。

同世界会議では、とくに専門分野の人材や財源が乏しい途上国におけるリハビリテーションサービスの発展支援を意図した、コミュニティ・ベースド・リハビリテーション(以下、CBR)が紹介された。それは当時約5億人とされる障害者の4分の3以上は、リハビリテーションサービスへのアクセスが困難な農村地域で暮らしており、CBRは、そうした障害者が、基礎的なリハビリテーションサービスが利用できるようにすることを意図したものである。

なお、世界保健機関(WHO)は、1978年に旧ソ連のアルマ・マタ(現・カザフスタン共和国アルマトゥイ)でひらかれた第1回プライマリ・ヘルス・ケアに関する国際会議で、ヘルス・ケアと介入にCBRアプローチを優先化する「アルマ・マタ宣言」を採択している。

同10年宣言のきっかけとなったのは、1968年にRI事務局が各国加盟団体などの協力をえて実施した、障害者に関する統計調査結果から、障害者は人口10人に1人、つまり、当時の世界人口約50億人のうち障害者は約5億人を占めるという推計値が得られたことである。この推計値は、国連やユニセフにも認められ、ユニセフはRIの協力を得て、障害について国際的啓発キャンペーンを展開するため、ニュースレター「One-in-Ten」を定期的に発行している。

また、国際アクセスシンボルマークをきっかけに、1974年には「バリアフリーデザインに関する国連専門家会合」が、ニューヨークの国連本部で開催された。

2.国際障害者年とその行動計画策定へのRIの協力

1975年に国連総会で採択された「障害者権利宣言」について国際的周知を図るため、1976年の国連総会で、1981年を国際障害者年とすること、そしてそのテーマを(障害者の)「完全参加と平等」とすることを宣言している。
(注)当初のテーマは、「完全参加」だったのが、1979年の総会決議で「完全参加と平等」に、また、それにあわせ国際障害者年も当初の「障害者のための国際年」から「障害者の国際年」に変更。つまり、同年は障害者及び当事者団体の主導で展開されることが期待されるというニュアンスが強くなっている。

そもそも国際障害者年を国連総会で提案したのは、当時のリビア国連大使で、同国の視覚障害者団体と関係があったマンスール・ラシッド・キキアである。その提案のお膳立てをしたのが、国連事務局のエスコ・コスーネン(後の、国連・国際障害者年事務局長)とRI事務局長ノーマン・アクトンだった。そして、国連事務局は、「完全参加と平等」の実現を目指す行動計画案の策定に向け、RIに協力を要請した。 それを受けてRIは、1978年に「80年代憲章」委員会を設立。その委員長は、英国最初の障害者担当大臣(1974年~1978年)を務めたアルフレッド・モリス卿に委嘱している。同委員会は、1978年から1979年にかけてヨーロッパ、アジア太平洋およびラテンアメリカの各地域で準備会議をひらき、そこでの議論を踏まえ、1980年のRI総会に諮るための原案を作成している。

3.RI衰退への転換期となった1980年の総会・第14回世界会議

1980年にカナダのウィニペグでひらかれた総会および第14回世界会議は、国連および国連専門機関などからも翌1981年の国際障害者年およびそれ以降の取り組みについて検討する好機会と捉えられたことから、同会議にあわせ、同じ会場で国連主催の国際障害者年準備会合(その主要参加メンバーは、障害当事者団体などの関係者)がひらかれた。

なお、第13回世界会議および国連・準備会合にはスウェーデン、オランダ、デンマーク、英国、アイルランド、米国およびカナダ政府などの支援で、250人以上の各国障害者リーダーが参加。その中にはベングト・リンドクヴィスト(スウェーデン、1990年~1991年同国社会問題大臣、1994年~2002年障害に関する国連特別報告者)、ジョシュア・マリンガ(ジンバブエ、第2代DPI議長)およびジュディ・ヒューマン(元米国国務省特別顧問)などが含まれる。

(1)総会

総会では、規約改正および「80年代憲章」などが提案された。規約改正について、一部の加盟団体からRIの意思決定にかかわる役員の過半数は、障害当事者から選ぶよう規約の改正が提案されたが、否決された。

同憲章は、「新たな十年にあたり、障害者の権利が尊重され、障害者の完全参加が歓迎される社会づくりをすべての国の目標とする」よう、国際的にアピールすることを意図したものである。その原案の主な要素は、障害の予防、リハビリテーションサービスの提供、平等な参加および社会啓発の強化から構成される。

それに対して、一部の加盟団体から「平等な参加」を、障害者の自己決定への権利を尊重した「機会均等化」に修正すべきという意見が出されたが、原案が無修正で採択された。

なお、国連でその後策定された「障害者の十年(1983年~1992年)世界行動計画」では、「機会均等化」が主要項目のひとつとして位置づけられた。また、同十年終了後の1993年の国連総会では、「障害者の機会均等化に関する基準規則」が採択されている。

(2)第14回世界会議

同世界会議では、総会で採択された「80年代憲章」について紹介されるとともに、1976年~1977年にRIが国連から助成を受けて実施した調査研究プロジェクトの成果物としてとりまとめられた「障害の経済学:国際的展望」の内容が、その調査を担当したRI事務局次長スーザン・ハマーマンにより公表された。なお、それは1981年にRIから出版されている。

(注)その主な構成内容は、つぎのとおり。
I 障害とリハビリテーション:概念枠
II 経済的、社会的費用
III 費用便益分析
IV 労働市場とマンパワー政策
V 社会保障と障害給付制度
VI 結論と結果の概要

(3)障害者インターナショナル(DPI)設立に向けての動き

総会で、規約改正および「80年代憲章」の修正が認められなかったことから、一部の加盟団体および国連主催の国際障害者年準備会合に参加していた各国の障害者リーダーなどを中心にDPI設立準備の会合が世界会議中に同じホテルの別の会議室で持たれた。その結果、翌1981年にシンガポールでDPIが設立される。その中心メンバーのひとりが、当時RIアジア太平洋地域担当副会長をしていたロン・チャンドラン・ダッドリー(視覚障害、シンガポール)である。彼は、DPI初代議長に選ばれた。

4.1980年総会等以降の主な動き]

1980年総会および第14回世界会議以降のRIの主な動きは、つぎのとおりである。

(1)1986年総会(ニューヨーク)

同総会では、役員の半数を障害当事者とするための方法として、地域担当副会長(6名)と次席副会長(6名)のいずれかは、障害当事者から選出するなどの規約改正が行われた。その結果、それ以降役員会の約半数は、何らかの障害のある役員で占められることになる。

(2)1999年総会(ロンドン)

同総会で採択された「第三千年紀宣言」では、「障害者の権利を推進するための国際条約制定に向けて各国政府に働きかけることなど、国際的活動を展開すること」を表明している。

(3)2000年「障害者の権利に関する世界障害NGOサミット」

同サミットは、1999年の宣言を踏まえ、RIのイニシアティブにより2000年3月北京で開催された。それには各国に会員組織を持つ主な障害者団体の代表などが参加。同サミットで採択された「新世紀における障害者の権利に関する北京宣言」では、参加した障害者団体関係者は、「社会における完全参加と平等へのすべての障害者の権利について法的拘束力のある国際条約の実現を目指し努力する」ことを誓っている。

これらの動きが、2001年12月の国連総会での障害者権利条約制定に向けて検討を行う特別委員会設置の採択、および2006年12月の国連総会での同条約の採択に繋がったといえる。その意味では、同条約の実現にRIが果たした役割は、高く評価されてよいと思われる。

5.RIが弱体化した主な要因とその改善に向けて求められる取組み

2000年代はじめまでRIが障害分野で達成してきた様々な実績にもかかわらず、RIが権利条約制定過程以降、組織として弱体化してきた主な要因は、とくに国際障害者年以降、完全参加と平等の実現に向けて、障害当事者団体のエンパワメントを支援する国際的動向のなかで、RIがどのような役割を担っていくのか、あるいは担いうるのかについてのコンセンサスづくりが組織内で十分できていないこと、そのことが、国際舞台でのその立ち居地をあいまいにしていること、そしてその結果、国連(障害者権利委員会を含む。)や国際障害同盟(IDA)(注)などとの関係を弱めることに繋がっているように思われる。

(注)1999年2月に国際障害団体会長同盟(IDPA)として設立。2002年2月の第2回会合で国際障害同盟(IDA)に名称変更。現在の会員は、14の国際・地域障害団体から構成される。当初会員だったRIとDPIは、現在は非加盟。事務局は、ジュネーブとユーヨークにある(事務局員は14人)。IDAの主な目的は、各国における障害者権利条約の履行と(履行状況の)監視の支援など。

たとえば、一部の障害当事者団体は、専門家主導の「リハビリテーション」への拒否反応が強い。それにあたかも迎合するかのように、RIをRights & Inclusionの略称への転換を唱道するグループもある。その代表といえるのは、マイケル・フォックス(オーストラリア、元RI会長(2004年~2008年)などである。

〇組織としてのアイデンティティと方向性の喪失

RIの加盟団体には、障害分野の専門的な支援団体と障害当事者主導の団体が混在しているが、両者でどのようにバランスを取りながら、RIとしてどのような目標達成を目指して活動を展開していくのか。その方向性についてコンセンサスを得るための議論が十分なされておらず、また、それに向けてRI現執行部のリーダーシップが十分発揮されていないように思われる。

〇RIに加盟しているメリットが見えないこと

RIの深刻な財政難で、本部事務局が弱体化し、情報提供を含め、会員へのサービス提供があまりできえていないため、会費を払ってまでRIにとどまることのメリットがないと感じる加盟団体が少なくない。

〇加盟団体自体の弱体化

主要加盟団体(米国、英国、カナダおよびオランダなど)には、それらの団体自体が弱体化したところが多く、財源がないため会費を支払えず、また、役員会、総会、専門委員会などにも定期的に参加できていないこと(たとえば、2019年11月上旬モスクワでひらかれた総会に出席した加盟団体関係者は30名ほどに過ぎなかった)。一部を除き、多くの国際障害団体(障害当事者団体も含む。)は、同様の課題を抱えているように思われる。

〇ニューヨークに本部事務局があることの是非

本部事務局体制が弱体化した結果、最近は本部事務局をニューヨーク(国連本部のすぐそば)においていることのメリットを生かしきれていない。したがって、ニューヨークに本部事務局を存続させることの是非について検討し、その結果によっては、より維持コストの安い場所への本部事務局の移転も考慮する必要があろう。

以上、近年RIが弱体化してきた要因についていくつか挙げたが、RIが持続可能な組織となり、引き続いて障害分野で積極的な役割を果たしうるためには、それらの要因を究明し、その改善に向け、組織を挙げて真剣に取り組む必要がある。そうした努力をしない限りは、RIの実質的な存続は期待できないと思われる。

<参考文献>
Grace, Nora, Ph.D, From Charity to Disability Rights – Global Initiatives of Rehabilitation International, 1922 – 2002,Rehabilitation International, 2002.

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