対話とディスカッション

共同コーディネーター
藤井 克徳 (NPO法人日本障害者協議会 代表)
大川 弥生 (元(独)国立長寿医療研究センター生活機能賦活研究部長)

藤井/私と大川先生で進めてまいります。よろしくお願いします。途中、パネリストの皆さんにもちょっとだけ登場してもらおうと思っています。後半のほうでは、できれば、大川先生に語ってもらおうと思うのですけど、この時期にポストコロナをどう考えるか、まだまだ現在進行形だと思うのですが、今までの状態は決して好ましかったわけではないですから。元に戻ればいいとか復元と言うことではなさそうです。新たな絵柄が必要になるのではないでしょうか。時間の範囲で考えてみようと思っています。

まず、私と大川先生で、今日の2つのセッションを受けて、コロナ問題の捉え方について、それぞれ述べてみようと思っています。この問題ではこれまでずっと話し合ってきましたので、およそ共通理解があるかと思いますが、これ以降のセッションをより有効にしていくための、共通のベースにもなるかと思います。

では私から申し上げます。このコロナ問題、正式に言うと新型コロナウイルス感染問題ですが、これをどうとらえるか、イラストを作ってきましたので、ちょっとご覧いただきます。〔イラストの投影〕

これまでも、いろんな課題はあったのだけれど、表からみるとまあまあ平穏な海に見えていたということなんですね。〔次のスライド〕

しかし、コロナというのは、大きな引き潮のような作用で、一気に潮が引いてしまった。そうしましたら、前からあった問題や課題が、いっぺんに露呈してしまった、こんなイメージではないでしょうか。確かに天災、自然災害という要素はあるのだけれども、それにしては、同じ世界共通のウイルスではあっても、各国で起こり方がまちまちです。これには何か要因があるわけですよね。その要因を3つ述べたいと思います。

1つは、政策上の問題があるのではないでしょうか。

2つ目には、政治の問題が少なくないのではないでしょうか。政治というのは、特定の政党や、今の政府がということより、一般化して考えてみたいと思います。

3つ目に、社会的な視点があるのではないでしょうか。

まず政策的な面で何が問題かというと、例えば公衆衛生政策の軽視ということがあります。今日はグラフは準備していませんが、1992年に保健所の数がピークだったんですね。公衆衛生政策は、保健所が基礎となるわけですが、今回のコロナ感染拡大により、保健所の業務が急迫して機能が麻痺してしまいました。保健所の数を見ていくと30年前がピークで852箇所ありました。去年の1月の時点で、469か所にまで減ってしまいました。約45%ぐらい減じたということですね。もう感染症の課題は終わったんじゃないかと考えられ、財源上の理由や行革政策のやり玉にあげられたのです。また、経済のグローバル化によって、どんどん労賃の安いものが選ばれ、もともとは日本で作っていた衛生製品の製造までも、海外に任せてしまう。それで去年は、マスクもPCRの検査キットも手に入らないということになってしまった。さらには都市一極集中の問題もあります。これも政策誘導したわけですね。その結果、特に東京や、関西圏では大阪あたりが感染源になってしまいました。都市一局集中には効率化という側面もありますね。政策に関する4つ目の問題は、障害関連の制度についてです。障害者自立支援法と、これを引き継いだ障害者総合支援法以降、障害者の事業所の報酬は、すべて日額払いとなっています。医療であれば、出来高払いという考え方もありうると思うんです。しかし福祉は、生活の隙間を作らないために、その人を四六時中応援していく必要があります。それなのに、来た日だけ、来た時間だけ報酬を支払うというこの方式で、いいのだろうかということです。このことは今回のコロナ危機でも大きな課題になっています。これまでも、例えば近年の風水害や、頻発する地震などの災害が起こるたびに、この日額払いの問題が顕在化してきます。政策面での、一貫した課題となっているわけです。

次に、政治の問題についてです。例えば、先ほど吉川先生もおっしゃったように、学校の一斉休校の問題がありましたが、あれでよかったんだろうか。あるいは、GoToキャンペーンはどうだったのか。総括もないまま進んでいるのは、政治の責任が重いのではないでしょうか。感染の第1波、2波、3波などのそれぞれで、中間的な検証があっても良かったのではないか。あるいは、専門家会議というのは、本当に独立していなくていいのだろうか。そうしたことも、政治の問題ではないでしょうか。

最後に、社会的な視点についてです。午前中にも話が出ましたが、差別、偏見の問題があります。医療従事者に対してもそうですが、精神障害者が一般医療から排除されるという問題も起きています。これは丹羽先生もおっしゃっていましたね。政策上の観点、政治上の観点、そして社会的な観点が、コロナウイルスという問題にもう1枚上乗せされているというのが、この問題の捉え方です。ウイルスへの対応は、今の科学では限界があるわけですが、これに加えて、今申し上げた政策的、政治的、社会的な視点というのが、人為的な問題としてあるわけで、この人為的な部分は、軽減するとか、なくすとかいう考え方が、リハビリテーションの視点から見ても、とても大事なのではないか。私はこんなふうにコロナ問題を捉えています。

大川先生は、どんなふうに捉えていらっしゃるでしょうか。

大川/藤井さんのおっしゃった、政策や政治など広い観点でどう考えていくのかは、これからまた議論していくことになるかと思います。一方で、今まで私自身がやってきた研究や実践から考えることですが、一人一人の人間の丁寧な見方の集合体としてきちんと分析をしたうえで、きちんとした施策提言をする必要があるし、施策を組んでいただく必要があると思います。印象で思ったことが正しいとは限らないことがあるので、コロナ禍というのは、コロナというウイルスの特徴であるとか予防法であるとか、さまざまなことについての特徴はきちんととらえて対応する必要があると思います。

そのようなコロナウイルスに関する特有のこともありますが一方で、午前中に藤井さんから、東日本大震災から10年たったというお話がありましたが、まさにコロナ危機というのは、災害と同じ面があると思っております。災害時の施策も含め多くの人が2004年の中越地震のときから、災害に関する課題を本格的に捉えだしたと思います。私はその2004年以来災害に生活機能低下予防という観点から関与していますが、毎回の災害のたびにゼロスタートになっているのではないかと懸念しています。ゼロスタートどころか、極端にいえばマイナススタートというところすらあるのですね。なんとなく定型化されたり、スローガン的にだけなって、災害が起きたときだけに、わっとアドレナリンが出るという感じになっているような。それではいけないのではないでしょうか。やはり被災された人に対しての責任としても、その時点で反省したことは改善策を考え、次の同様の時にも備え、平常時の改善もしていく。そうすれば災害時の対応、また予防策もレベルアップさせていける。そういうことを、一人一人の事例にそって検討し、その集合体として分析して、きちんと施策なりをつなげられるようにやっていくのが、私共、専門家としては大事なことかと思っています。

先ほどの藤井さんが出していただいた絵ですが、非常に魅力的な良い絵だと思いました。その絵について、具体的な支援を個別的にも行う専門家の観点から見ますと、こういう見方もできると提案させていただきます。水が引かなくても、水面の下を見る目を持つことは大事なのではないかと思います。ですから、今回、水が引いてやっと分かったのであれば、その後は、穏やかそうな水面に戻っても、実は本来見るべきものがあることを肝に命じたい。水の中のゴミもそうですし、それだけではなく、実は可愛い魚やいろんな生物など、もっといい方向に持って行くことができるはずのものもある。

しかし、例えばこれまでの災害の時など、一度水が引いた後を見ていたにもかかわらず、それを活かすことすら、やっていなかったのではないか。私は、災害というのは平常時の問題が如実に現れるのだと、2004年から言い続けていますが、毎回そういう状況になっているように思います。

水が引かなくても見る目を持つというときに、今日のお話を聞いていて思ったことですが、専門家の対応としては、平常時にはさまざまなサービスが提供されます。そのサービスを提供している時間には一生懸命やるけれども、そこでほとんど終結してしまう。しかし当事者にとってのそれ以外の時間についてはどうなのか、当事者にとっての1日という時間、1週間、1年、一生という時間のくらしを考えて、専門家は、目の前の当事者に何をすべきかということにもっと知恵を絞らなければいけないと、反省すべきだと思います。いつも平常時ばかりとは限りません。大きな災害もあれば、例えば、一緒に住んでいるご家族が病気になるときもあります。何かが起きたとき、こういうときにはこうするということを、平時からきちんと考えておかないといけないと思います。それは、まずは一人一人に対する個別的な対応でもそうです。そしてシステムとしては本来どうあるべきかを、例えば、病院、施設、地域、コミュニティであるとか、いろんな意味で、提言していくことが必要なのではないかと思います。

ですから今回の魅力的な絵からいいますと、水が引いて実はきれいではないことが見えてきました。それをぜひ今回こそは、きちんと活かして、次のために具体的な対策を取ることが大事かと思います。今後の対策に向けて、平時のやり方を再考する、もう一度考え直す機会としてとらえるべきだと思っています。そして、水が引かなくとも、水面の下を見れる眼を持つ。そう思いますが、いかがでしょうか。

藤井/全く私も異議はございません。穏やかな海をちゃんと見破る、きちんと海の底を透徹して見る視点、これをどう持つか。それは今伺っていると、「一人を大事にする」という視点が備わっていれば、いわば、下のほうを見る特別な眼鏡みたいなもので見えてくるんだよ、というふうに聞こえてきて、まさしくそのとおりと思いました。

ここからは、今日の午前・午後のテーマを踏まえて議論しますが、おっしゃるとおり今度のコロナ危機においては、総合リハビリテーションという観点で言うならば、かなり分断させられてしまったなと感じています。「分断」と「総合」とは、相反する概念なんですよね。午前中の議論にもあったように、医療、教育、職業、社会という、リハビリテーション領域の「総合」だけではなく、専門家と当事者との総合という視点もあるわけです。今までは、障害のある子どもが入院したら、お母さんが、「この子は私でなければ食事をしにくい」ということで、病院に看病に行き、病院も「どうぞ」と認めることで、うまく食事ができていたのですが、今回は、家族の面会ができなかったことで、入院したお子さんが食事をずっととらなかったということもありました。これは病院のスタッフが悪いのではなくて、コロナということでマニュアルができあがって、外部からウイルスを持ち込ませないという、正論での対応を行っていたのです。そのほか、今までは障害福祉課に行くと「はい、わかりました」と対応してくれていたのに、今は、「これはうちの課の担当ではない」ということでほかの課に回されてしまうなど、一気に縦割り行政の問題が露呈しました。一人の人間を大事にしようという観点があれば、コロナに負けない「総合」が担保されるのではないかと思います。いざコロナの問題が起きると、こうした分断が、現場ではわりとそのまま受け入れられてしまったのではないでしょうか。もう少し「総合」という観点から、いい意味で抵抗していくことが、現場にあってもいいのではないかと思うんです。「総合」が分断されやすい現場の構えという点で、大川先生、いかがでしょうか。

大川/まずコロナに関しては、去年の2月、3月、4月ぐらいでしたら、それがいかなるものかよく分からないし、どう対応していけばよいか、またどう予防していくのか、また多数の人の中で何をどのように優先順位をつけるべきかも分からなかった。コロナウイルスは命を脅かすものであることは確実なので、生命、病気面への対応が中心にあらゆることを考え、行動していたのではないでしょうか。その中で、例えば親御さんと一緒だと食事していたお子さんの食事、そして食事だけでなくいろいろな生活全般が、考えるべきこと対応すべきことの優先順位として低くなってしまった。どう対応すべきかわからないコロナウイルスへの対策を取りながら、それと同時にどう日々を生活していくかを考え対応すること、それが両立できなかった。行政の窓口も安全確実な範囲で大丈夫なことが優先され、それ以外の不確実なことはやめておこう、となる。限られたコロナ対策の情報・知識、また対応能力の中で、仕方なかった面はあるでしょう。その後、だんだんとコロナ対策が分かってきたことがあっても、「コロナ」という言葉を出せば何となくみんな引き下がるようなところもあって、優先順位が低いままということもあるのではないでしょうか。現場としては非常に大変でしたから、そういうふうになってしまった面もあるかなという感じがします。

総合リハということについては、パネル2では、「環境因子」から直接「生活機能」に作用することを重視して申し上げました。医学モデルとしての病気に対する治療や予防対策は、社会的な環境を重視することと、相反したり、対立するモデルでは全くなく、これらを一緒に総合的に考えるという意味では、非常にいい機会になるのではないかと思います。

分断されているという危機意識は私も持っていますけれども、最近は平時からかなり分断されていて、コロナ危機ではそれが露呈しただけかもしれません。一人の当事者へのサービスは単に複数のサービスの集合体で、本人にどのように効果を生むため関与していくのか希薄(になっていました)。医学モデルと社会や環境を重視するということを対立モデルとして考えるのではなくて、平時から、社会的な影響を重視する場合も医学モデル的な病気の治療や予防も一緒に考えていくし、一方医療の場面では、生活というものをもっときちんと考えて対応することが必要であると、コロナ危機がそれを考えるいい機会にできればなと私は思っています。

なお、高岡先生がおっしゃったことですが、感染症の専門家がいないから十分な対策ができなかったというのは、医療の中でも大事なことなんです。感染症というのは、割と古い病気なのかなという意識があった。医療的なことについては、基礎的な知識、サービスとして、もっと備えることを考えておくべきだと思いました。

藤井/大川先生に、少し伺いたいのですが、感染症自体の病原体は、まさに医学モデルで個人を冒してしまいますが、これに対しては、ワクチンや、あるいは治療薬を開発する必要があります。同時に感染症は目に見えず、怖いものであるだけに、社会生活の面でも過度な制限をかけてしまい、それがやむを得ないとも受け止められて、結果として、社会的な障壁を作りだし、人々の態度にまで影響し、社会参加が制限されてしまうという、特異な面があると思うのですが、いかがでしょうか。

大川/まず、いわゆる社会モデルにしても、他のモデルにしても、同じ言葉で論じていても、人や学派によって、中身の理解が違っている場合があるので、正確に使っていく必要があると思います。

私自身、先ほどはあえて何々モデルという言い方で申し上げましたが、物事を対立的に論じるためにあえてそのように言うことはあるかとは思いますけれど、何モデルかということには、かえってこだわらないほうがいいと思います。ICFはそういう対立関係ではなくて、相互作用的に考えましょうということで、それぞれの方々が、それぞれのモデルで、いろいろと問題意識を持ちながら考えていらしたことを否定するというのではなく、それらの知恵を出し合って、新しいモデルを作っていくことが大事かと思います。

結論から申し上げると、感染症における人の障害を捉える場合のモデルというのは、私は特殊ではないと思います。むしろ普遍化するヒントを持っているもので、特別というよりは、そこから何を学んで、普遍的なモデルを作るのかという観点で捉えるほうがいいのではないかと思っているのです。

藤井/私もそこはぼんやりと捉えているので、だいたいいいかと思います。少し戻るかもしれませんが、今日の1つのポイントは、先ほどから話しが出ているように、ちょうど今年は東日本大震災から10年ということです。データが出ているように、東日本大震災における全住民の死亡率は、岩手、宮城、福島の沿岸地域の33自治体で、0.78%という数字です。これに対して障害者の死亡率は、1.43%となっています。手帳を持っている方の死亡者を報道機関等が調べたデータですが、国は公式に発表していません。つまり障害者の死亡率が全住民の2倍だったと、こんなことになっているんですね。2倍というのは承服できない数字です。そこには、単に天災というより人災ということが重なっているのではないかと懸念するわけです。その点は、今日のテーマに関しても、同じようなことが言えるのではないでしょうか。やはり障害を持った人に不利益が集中しやすいのではないか。そう考えていくと、やはり、帰結する方向性としては、今の現象だけを考えるのではなく、やはり平時のあり方が問われてくるのではないでしょうか。平時に障害者の置かれている状況が、非常時になると、一気に悪化し、そこにしわ寄せがいってしまうのではないか。大川先生が携わっておられる分野で、特に、平時からここが脆弱でなかったかということとして、具体的にどんなことが挙げられますか?

大川/一言でいえば、先ほども申し上げたように、自分が担当するサービスの内容、それを提供する時間帯のことだけが、ほとんどの関心領域、対応する領域になっていることが、まざまざと分かったことだと思います。

総合リハビリテーションと言った場合、最近はいろんな職種、サービスがどんどん増えていっています。その中で、これらの複数のものが横のつながりを持つ集合体として、一人一人の当事者のためにベストのことができるのかが問われます。それはさまざまなときに、災害やコロナ対策が必要なときなどです。単なる工夫だけではなく、システムとしても、具体的専門的技術としても、もっと深める必要性があると思っています。

先ほど、災害の時の死亡率の例が出たものですから、ちょっとお話をさせて下さい。藤井さんが、東日本大震災の死亡率のことをおっしゃっていて、私はどうしても自分できちんとしたデータを見ないと、なんとなくその可能性はあるだろうとは思っていても十分に納得できないところがありましたが、実はちょうど10年ということもあり、いわゆる災害関連死と言われている方への発災直後の対応の仕方についての、個々の被災者のご家族と専門家の非常に貴重な記録を見せていただく機会がありました。分析しましたら、専門家によるいろいろなサービスが、災害のときにきちんと提供されなかったところの問題点が明らかになりました。平時だったらそんなことはあり得ないのに、どうして起きてしまったのか、それは専門家としては、非常にショッキングでした。10年たってやっと分かったとことであり、婉曲な言い方をしていますが、やはり技術というのは平時だけではなく、非常事態のときに、きちんとした対応がすぐにできるところまで高めておく必要があります。そこまでの能力を身につけるべきだと思っています。

藤井/私たちは東日本大震災の際に、福島県南相馬市の精神障害者を除く障害者と、岩手県陸前高田市の全ての障害者を訪問調査しました。陸前高田では今日のパネリストの後藤さんがリーダーとして頑張ってくれました。驚いたことは、震災のとき誰が迎えに来てくれたかと聞いたら、それは市役所職員、警察、消防士ではありません。こうした方々は、市の全体の救出や避難にかかわって、走り回っていたわけです。迎えに来てくれたのは、家族が10数%、自分が通っていないところ、通っているところも含めて福祉施設職員が10数%です。いざ何かあったら、それしかないんだということになるわけです。そのことを非難するというのではなく、それを前提に対策を組まなくちゃいけない。それがあのときに得た1つの教訓でした。こうした課題については、その後政府では対応が行なわれず、国会も「検証しなければならない」としながら、今なお公的な検証はなされていません。

「平時」と言ったときに、震災でしたらイメージができますが、感染症における「平時」は、イメージがわかない面もあります。ただ、事業所職員の非正規を減らすなどを含むマンパワーの充実や、日額払いの問題など、そうした部分は十分に平時から備えられると思います。あるいは、縦割り行政の弊害とか、自治体間格差の問題などは、平時から取り組みができることです。感染症問題は、自然災害とかなり共通項が多いことを踏まえ、そうした平時からの問題について、丹念に考えていけなければいけないと思っていました。

ではこのへんで、午前中のパネル1のパネリストの方々から、一言ずついただくということでよろしいでしょうか。まず藤原さん、お願いします。

藤原/私たちが実施した調査で聞き取った声の中には、「何も変わらない」というものもありました。というのは、普段から外出もできてないし、誰ともつながっていなかったから、ということです。これは先ほどの藤井さんのイラストのイメージだと、おそらく、潮が引いても見えない人たち、さらにその下の砂を掘っていかないと見えてこない人たちだと思うんです。それを見ていく新たな視点としては、やはりジェンダーの視点だとか、当事者参画とか、そういったところがすごく大事なのかなと思いました。障害福祉の中には、そうした視点がどうしても欠けていると思います。ありがとうございました。

後藤/ポストコロナということも含めて、災害に備えることが、これから一層大事になると思います。新しい感染症も起きるのではないかと言われていますし、南海トラフ地震や、毎年のように起こる豪雨災害などが、日常的に障害のある人たちや、支援事業所の人たちに降りかかってくるのではないでしょうか。われわれも、こういう事態になって、BCPや、災害への備えについて、急ごしらえで対策をとっていますが、そもそも日常の中にそうした災害時への対応を組み込んでいく余裕が、われわれの中にはないんですよね。毎日をどう回していくのかが精いっぱいで、やらなくてはならないことへの人員も予算もほとんどない状況の中で、立ち向かっていかなければなりません。ポストコロナを考えたときに、災害に備えた対応を日常の平時の業務の中にしっかり組み込んでいくことが大切ではないかと感じています。

家平/福祉も医療も余裕がなく、ここまでが必要だという水準が低く設定され、人員配置も非常に少なく平常時でもいっぱいいっぱいでやっている中で、緊急事態になってしまい、とても手が回らない。それで障害のある人が置いていかれてしまう、ということがあるんじゃないかと思います。例えば、僕は肺炎で入院したことも何度もあるため、今回のコロナでも、ほんまに命の危険を感じるのでほとんど自宅にいます。肺炎で2~3週間入院したときは、最初は人工呼吸器をつけて、退院に向けてリハビリも入ってもらったり、足の関節を和らげたりもしてもらいますが、その後、退院してから、日常生活にどのように戻って行けるのかが課題です。僕みたいに重度の頸損の人が、近くの病院に入院するというときに、ストレッチャーのままお風呂に入れるような設備がない場合もあれば、退院後に、医療から日頃の生活に戻るための支援が全くないということもあるんです。ほとんどの病院はそういう体制もなく、一方で福祉の現場でも、いっぱいいっぱいでやっているから対応ができません。私達の知り合いでも、グループホームで感染者が出たら、通所施設を閉じて、感染者の支援をしなければいけないということがありました。そうした中で、医療や福祉にかかわる人が、患者や障害者の人権をどこまで守っていけるのか。権利条約やICFの視点に立って、ここまでは必要だという水準を上げていく必要があります。低い水準では緊急時にますます対応ができなくなり、そのしわ寄せが弱いところに来るということだと思います。その意味でも、十分な人の配置などをしていくことが、医療・福祉の現場では必要ではないかと思います。

篠原/体力がないために、途中で申し訳ないのですがお昼寝をしながら聞いていて、今は頭も朦朧としている状況です。私たちの病気や、難病のある人は、元々外部との接触がほとんどない人もいます。私は病歴が30年を超すのですが、ずっと引きこもりのような状態で生きてきました。患者さん同士で冗談みたいに、「やっとみんな私たちの気持ちが分かるようになった、私たちのように、外部と接触することがないとはどういうことなのか、やっと少し分かってもらえたね」、と話し合ったりします。体力がなく、難病を抱えて、何十年も孤立して生きている人の気持ちが、みなさんに分かってもらえたのかな、とパンデミックが始まって思いました。これからどうなっていくのでしょうか。体力がなくて声を上げられないということは、今のこの情報化時代に、存在しないのと同じようなことなんです。患者会もいつつぶれてもおかしくない状態ですが、こんなふうに声を上げられない人たちがいるということを、今日は多くの方に聞いていただけたので、よかったなと思います。これからも、コロナが終わって、みんなが再び活動できるようになっても、私たちは同じように生きていくということを、そんなふうに生きている人もいるんだということを、記憶に留め、気にかけていただきたいと思います。

藤井/先ほど吉川先生が、子どもを例として、疲れやすいという話を、生活不活発病という観点からされていましたが、その点とME/CFSとの関係では、どのような印象を持たれましたか?

篠原/そこで言われている疲れやすさと、私たちの言っている、疲れというか、体の衰弱ですよね、それとは、まったく質も何もかも違うレベルの話です。私たちはただ疲れているわけではなく、動けないほどのことです。例えば患者さん同士だと、これから電話をしてもいいですかとか、今日具合は大丈夫ですかとか、電話一つかけるのにも気を遣うような、それほどの状態が、10年も20年も30年も続くということです。ですからまったく次元が違う話です。

藤井/午前中のパネル1については、この辺にしますが、大川先生のほうは、いかがですか。

大川/パネル1で久松さんが、総合リハ研究大会だからと何度も強調しながら論じていただいたのは非常に印象に残っています。総合リハだからという観点で、当事者の方が分析をしていただくことは、この総合リハ研究大会としてとてもいい方向性かと感じました。

あと、取り残されないという表現がありましたが、専門家は一生懸命やっているつもりでも、取り残している部分がないかなと、平穏そうな水辺に立っていても考える必要があるなと思いました。

藤井/パネル2で僕が大変関心を持って聞いたのは、まず高岡先生の、手洗いも大事だということを、科学的に見るとどうなのかという話です。手洗いの科学的検証というのは、多少、蓄積があるんでしょうかね。

それから、丹羽先生が、途中ふれられていましたが、精神障害者の問題について、例えば病院の構造とか、あるいは長期入院が偏見を助長して、一般診療科のスタッフにまで広がっていくこととか、そうしたところに精神科病院の責任もなくはないのではないかなという課題ですね。やはりこれは、繰り返しになりますけれど、平時から改良が求められることだと思いますが、今回もいみじくも、報道されている病院でのクラスター発生などを含め、いろんな問題が露呈してしまったというあたりについて、もう少し丹羽先生からコメントいただけないでしょうか。

高岡/手洗いに関しては、保健衛生的には、昔から調査されていて、親指の汚れがなかなか落ちていないなどということはわかっていることです。なので、こういう洗い方をしましょうということについては、いろいろなところに貼り出されています。

ただ今回は、我々のセンターに、片麻痺の方が結構いらっしゃいますので、本当に洗えているのかなというところからやってみたら、結果的にかなり深刻というか、衝撃的な絵面になってしまいましたので、これはまずいなと考え、作業療法士や看護師が、手洗いの仕方を再指導したところです。

今日は比較的、いい例をお出ししましたが、なかなか、今回の指導だけではうまくいかない方もいらっしゃるので、もう少し改良が必要なところもあるかと思っているところです。

藤井/そうすると、たとえば片麻痺だけじゃなくて、両手に麻痺があっても手洗いは困難だし、ましてや知的障害者の方や、そもそも手の動作がなかなかない人であったり、精神障害者の方など、日常生活と手洗いが結びつかない部分がある場合には、手洗いというのはかなり難しいという前提で対処するのでしょうか。

高岡/難しい点はあると思います。ただアルコール消毒はかなり普及してきましたので、それをきちんとやれば大丈夫ということもあるかもしれません。今回の研究では、手洗い+アルコールという形を併用してしまったので、本来は、もう少しいろんな種類に分けてやってみるべきだと思います。片麻痺の方も、麻痺してるほうの手はもっと落とせていないと思うんですけれども、麻痺が重ければあまりそちらは使わないから影響は少ないかなと思うので、すべてきれいにしないといけないかどうかは、ちょっとまた別の問題かなと感じています。

丹羽/精神科病院の閉鎖性という問題については、ずっと指摘されていて、かなり開放化という方向への努力はなされているとは思うんです。治療の必要性から言って、閉鎖の病棟というのか、あるいは、保護室と言われるような閉鎖された個室といいますか、そういうものを、どうしても残さざるをえないということはあるんですけれども、それこそ丁寧に治療をするという考え方から言うと、開放されたところを増やしていくことも、それにふさわしい色んな治療プログラムを作っていくことも、必要だと思われます。しかしそういう方向には残念ながら至っていません。いつまでも入院が必要というわけではないですから、開放化というのは、早期に退院を目指さなければいけないということとつながっているわけですね。そのためには、地域で生活できる状況を整えていくようにしないといけません。それがないために、「治療の必要上、閉鎖性が必要だ」という対応が、全体に広がってしまう結果になっていると思うんですね。ですから、閉鎖性の問題というのは、できるだけ早期に退院してもらい、地域で生活できるようにしていく動きと一連の問題として捉えていかないといけません。そういう全体としての治療の流れを考えて進めていく必要があると思います。これは1つ1つの病院の構造の問題ではなくて、治療の流れ、全体の問題ということになりますから、地域での生活を支える仕組みといったことも含めて、充実させていかないといけないんだろうと感じています。

それとは別に、先ほど議論されていた中で、藤井さんがやはり言われていましたが、「総合」というけれど、災害があると「分断」されやすいという、そういう我々の持っているシステムにおける脆弱性みたいなものがあるわけですよね。それを変えていかないといけないと思うのです。例えば、県を超えて移動してはいけないといったとき。私が発表スライドで示したように、隣の県から来る人に、休んでくださいといった対応をしてしまうことがあるわけです。それは結局、個々の患者さんのことを中心に考えないで、まず問題が起こらないように、その施設を経営している者の身を守ることを先に考えてしまうということではないでしょうか。一人一人の患者さんを大切にするためには、ある程度「冒険」しないといけないこともあると思うのです。でも、そうしないことが、「分断」をみすみす許してしまうことになるのではないかと思います。「分断」と「総合」の問題は、精神科での経験からいうと、そういうところにも理由があるのかなと考えていました。言ってみれば、自主規制みたいなやつですよね。先ほど高岡先生も言われていましたが、リハビリに不要不急はあり得ないという話だと思います。個々の患者さんを大切にするという考え方は、ある程度冒険しないと守れないという中で、それをシステムとして保障しようとしたときに、どうすれば分断を生まないことにつながるのか、そんなことを思って聞いていました。「総合」と「分断」の問題についての自分の意見はそんなところです。

藤井/貴重なご意見です。「人権を守る」というとき、一歩超える、一歩踏み出すということがどうしても必要です。その時に、感染症という目に見えない怖い存在があるわけで、兼ね合いはもちろんあるんだけど、構えとしては、一歩それを超えることが実践には求められます。「人権を守る」ためには、絶えず、そういう視点が要るんじゃないかという点では全く同感です。

大川/高岡先生の話に関連したことで、ICFに関係した話をしておきます。ICFの基本概念としての生活機能モデルについてこれまで述べてきました。このような基本概念のもとに、分類項目がありますが、その中の「活動」(生活行為)の9つの章の中に「5章セルフケア」があります。セルフケアというと、日本で通常使うとき、対応するときには、排泄、食事、入浴、整容,更衣ですが、ICFで非常に画期的で重要だと思っていることは、「健康に注意する」という項目がセルフケアという最も基本的なものの中に入っていることです。手を洗って感染を予防すること、家平さんの場合は、部屋の温度の調整だとか、自分の体調、健康を守るための行為を、セルフケアとして、必要最低限重要なものだということで位置づけているのです。

自分の健康管理をご本人が必要と思うときに、適切な方法ですぐにやれることはとても大事なことなので、これに関することが平常時からの専門家の対応としては不十分だったのが、今回のコロナ危機から学ぶべき1つの重要なことだと思います。例えばマスクの装着を考えてみると、風邪をひいてマスクをつける必要がある場合でも、今までの平常時には、「はい、マスクつけてあげましょう」という感じで、家族や、通院先の人がつけてくれていた。でも、コロナ予防では、例えば通所施設で一斉に全員がマスクをつける。一日中つけていて、何かのときにマスクが外れたら、ずれたら、どうするか。食事のときはずして、またつける。たとえば知的障害のある方の場合など、自分でどうやっていいか分からないこともあります。運動機能の障害、視覚障害などそれぞれ難しい点があって指導すべき点や、配慮すべきことがあるでしょう。専門家からすると、あえてこういう表現をしますが、「やってあげる」ほうが、その場としては楽なことがあります。でも多数の人に、一日という単位の中で、また今後年単位で続くかもしれないコロナ対策のなかで、マスク、手洗い、注意すべき行動など衛生面も含め、自分の健康を自分でいかに守るか、他者への悪影響を及ぼさないかという点での対応として考えていくと、不十分ではなかったかと思っています。

先ほど申し上げた東日本大震災10年後の調査でも、災害初期のときに、障害のある方々が、障害が悪化したり、亡くなったりしているデータがありますが、こうしたことを一つ一つ丁寧に見ますと、同じように平常時の本人自身による健康管理能力の向上に向けての専門家の対応が不十分だった面が結構あるということが明らかになりました。ですから専門家は、この機会に、ご自分の患者さんの健康の管理に関しての支援内容、本人自身の能力の向上を十分におこなっているかをもう一度チェックしてください。お一人お一人の当事者の方も、自分の健康をどういうふうに守るのかということについて、もちろん必要なときには支援者の手を借りるわけですが、そのときはどう説明すべきなのかということも含めて、この機会に考えていただくといいのかなと思います。

松矢/高岡先生や大川先生もおっしゃっていたように、われわれ専門家にとって、コロナの感染が発生していない「平時」の心がけがとても大切です。私たちの施設では、インフルエンザの流行に対応して、「みんなで予防 インフルエンザ いざ手洗い」と貼り出してありました。コロナになって、それはコロナ感染予防用になったのですが、利用者の皆さんには、すでにそのことが日常生活習慣として定着していました。資料の中で、「共感と協働」ということをお示ししましたが、生活介護の利用者で障害の重い方の中にはどうしてもマスクを外してしまう人もいます。そういうときに、職員が「マスクをしましょうね」と働きかけるのは、やはり共感関係があって、初めて受け入れてくれるのだと思います。それは日ごろの専門家のサービスのあり方に関わってくるので、そういうところの努力が、総合リハではとても大切だと思っています。もう一つ申し上げたいのは、私は日本障害者協議会(JD)の代表推薦の協議員として、政策委員会のメールを拝見しているのですが、その政策委員である篠原さんに、今日Zoomでお会いできたのはうれしいことです。難病の方々が政策委員会に入ったことで、医療モデルや社会モデルなどといった議論を超えて、総合リハということを考えやすくしてくださっているのだと思います。

大川/藤井さんが、自助、共助、公助ということをおっしゃっていました。これについてはさまざまな意図があって発言される場合もあるのでしょうけれど、「自助」というのは、やはり自分自身の判断で、自分で必要性を感じたときに、自分の好きなときにやれるための能力を、身につけていただくことでもあり、それを支援するということは、専門家として考える必要があるかと思っています。その向上させるための支援が不十分なまま、やってあげることで終わっていることは、反省すべきことかと思います。

矢本/このパネルの最初のほうで、大川先生が、今回のコロナを通して、それぞれの場所で、自分の場所を見るので精一杯だったという話をされていたかと思います。分断という話も出ていました。今回、吉川先生と大川先生と一緒に行った調査の結果から、特別支援学校の子供たちの様子を見ると、やはり学校は学校の中でどうするか、放課後はそれぞれのサービス提供の場でどうするか、それ以外は家庭でどうするかというふうに、それぞれの担当者がバラバラに考えていたということが分かってきます。

そもそも、障害のある子どもたちが、不活発な生活をしていたのではないかと考察されますので、やはり普段から、その子にとってどういうものが生き生きとした生活なのかという視点を持ち、学校も、サービス提供事業所も、家族も、本人も加えてですが、そのための共通の目標に向かってどんな活動をやっていくのか。そのことがきちんと出来ていれば、今回のコロナ危機における活動の制限、参加の制約があったとしても、もしかしたらここまでの影響は出なかったのかもしれませんし、それぞれのところが、その目標に基づいた工夫ができたのではないかとも思います。それを妨げているのは、まずは自分の担当のところだけをやるという意識ではないでしょうか。人員の問題とかいろいろあるんでしょうけれど、本人を中心として、本人が生き生きとした生活をするために、一緒に考えられるような共通のものの見方、考え方を普段から持っているということが大事なんじゃないかと思いました。

藤井/大川先生、一言、最後にいかがですか。

大川/専門家の結論として申し上げたいと思います。

1つは、今日は議論がされませんでしたけど、実はリハビリテーションというのは、何かが起きて、それに対して後療法的に対応するだけではなく、実はコロナ感染、また予防のためのさまざまな変化によって新たに障害、生活機能低下を生む危険性があり、それによって障害が進行する危険性がある中で、予防という観点も重要だということで考えていただければと思います。

2点目として、総合リハというものは、例えば今回のようなコロナ危機や、災害時には必ず分断されるものではなく、日頃からのネットワークとして、本人の生活・人生を中心としての役割分担や目的がはっきりしていれば、逆にこんなに強いチームで、こんなに効果をあげたということがむしろ立証される。これはこれまでの災害等や個人のレベルの非常事態でも何度も経験してきました。今回のコロナをめぐる経験の中で、いかに強い、真の当事者中心の総合リハビリテーションチームを作るのかというのを、考えていければと思います。

最初の藤井さんが示された絵に戻り、一見平穏そうな海の中、水面の下を見通す目を持って、海の中のマイナスだけではなく、プラスを見つけさらにもっと引き出すことができるような力を持ちたいと思います。

藤井/「自助」に関することについてですが、私たちが言っているのは、「自助」はあくまでも他者から強要されるものではないということです。今の「自助」というのは、「自助」しなさいと言われているのに近い。これは具合が悪い。今後の問題としては、そろそろポストコロナということを考えると、家平さんが言われたように、特に人権保障というのは、余裕とか、逆にいうと、効率だけではない部分があります。データでは表せない部分です。データで表せないといったときに、余裕をどう科学化させるのか。これは、問われてくる問題で、リハビリテーション関係者を含めて考えていく必要があります。

大川先生がおっしゃった、透徹した目。藤原さんが言われた、本当のニーズや実態は潜っていて、かなり精度の高い水中メガネを用意しないと見ることができないということ。こうしたことを、リハビリテーション関係者は心して欲しいですし、また今後ともこのような対話が行えればいいと思います。

最後に、アルベール・カミュの「ペスト」(1947)の最終段落を朗読していただきます。コロナ危機は現在進行形ですが、こんなことも書いてあったということを共有して、今日は終わろうと思います。

ペスト菌は
決して死ぬことも
消滅することもないものであり、
数十年の間、
家具や下着類のなかに
眠りつつ生存することができ、
部屋や穴倉やトランクや
ハンカチや、反古のなかに、
しんぼう強く待ち続けていて、
そしておそらくはいつか、
人類に不幸と教訓をもたらすために、
ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、
どこかの幸福な都市に
彼らを死なせに差し向ける日が
来るであろうということを。

アルベール・カミュ作/宮崎嶺雄訳
『ペスト』(新潮文庫刊)

藤井/これで終わります。どうもありがとうございました。

大川/ありがとうございました。

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