要約筆記事業に駆け抜けた日々

「新ノーマライゼーション」2022年11月号

特定非営利活動法人大阪市難聴者・中途失聴者協会 前理事長
宇田二三子(うだふみこ)

今年3月31日の契約満了をもって、大阪市委託事業である要約筆記事業を他団体に移譲しました。52歳で事業受託して23年。養成と研修・派遣事業の統括責任者として「いつでも、どこに住んでも、同レベルの要約筆記でコミュニケーション支援を受けたい」と、要約筆記事業に駆け抜けた日々を振り返りたいと思います。

1. 自己紹介

結婚・子育てで、6~7年のブランクがありましたが、救急指定病院に再就職して数か月。ある日、急患搬送の救急車のサイレン音が聞こえなかったことを発端に、聞こえの不調に気づきました。あれよあれよという間に、自宅にても電話やインターフォンのベル音が聞き取れなくなりました。

不調原因はストレスかもと思いつつも、耳鼻科を受診しました。「原因不明の進行性難聴で近い将来完全失聴するかもしれません。感音難聴で身体障害者3級に当たる聴力です」との診断に愕然としました。

生きがいのある看護師の仕事。育児から解放されたらずっと続けたいと思っていましたが、聴覚障害がある身で命に関わる現場は不安が大きいと、わずか1年で退職しました。

医者の診たてた「近い将来」は、約2年で訪れました。250Hzの音のみ70dB残して、他はスケールアウト。失聴です。一番困ったのはコミュニケーション。言いたいことは幾らでも言えるのに相手の言葉が聞こえない。もどかしくて、いらだたしくて、腹立たしくて悔しい。多少なりとも医学知識はあったものの、いざ、自分の身に降りかかると「世界中でこんな耳になるのは私だけ」と絶望しました。

「聞こえないなりに生きよう」と腹をくくるまでの5年間ほどは、地べたを這いずるように悶々とし、障害の受容という高い壁に苦しみました。

2. 居場所探し

腹をくくってから、通訳者を目指す方々の中で手話を学び、ろう者とも仲良くなりました。でも、そこは、健聴者でもろう者でもない私にとって気持ちが落ち着く場所ではありませんでした。

1987年、全国中途失聴者・難聴者福祉大会が、大阪で開催されるというニュースで、飛び入り参加しました。おそらく手話通訳があるのだろうと思っていましたが、文字による通訳で会が進行することを知り、聴覚障害者イコール手話通訳との思い込みが見事にひっくり返りました。慣れ親しんだ日本語の文字。後にこれを「要約筆記」だと知りましたが、話し手の言葉を要約してOHPなどの上で専用紙に油性マジックで書き、拡大し、スクリーンに投射して、たくさんの聴覚障害者に、今、話されている内容を伝えていくというもの。

大会には、聞こえない、聞こえにくい老若男女が、いきいきと集っていました。初対面なのに「何言ったの?聞こえへん。もういっぺん話してよ」「ちょっと書いて」など、臆せず口にできました。「私の居場所はここだ!」と確信し、この大会が人生のターニングポイントとなりました。

3. 要約筆記の必要性

手話を母語として育ったろう者は、ろう者同士の討議の場では通訳は不要です。でも、私たち中途失聴・難聴者は、複数になればなるほど要約筆記によるコミュニケーション支援がなければ、意思疎通は難しく、話が進みません。

要約筆記は、1960年代後半から始まりました。全国的な普及は1973年に京都で開催された難聴者組織推進会議に出席の難聴者たちが、要約筆記により、自分たちの意思疎通ができることを実感し、地域でも広めようと取り組みを始めたことがきっかけと言われています。

公的制度としては、1981年に要約筆記奉仕員養成が、1985年には要約筆記奉仕員派遣が、「『障害者の明るいくらし』促進事業」「障害者の社会参加促進事業」の中に加えられています。

しかし、この事業は自治体が他の多くの事業から選んで実施するもので、メニュー事業と言われていました。

4. 大阪市の取り組み

大阪市では1991年にメニュー事業として要約筆記奉仕員の養成と派遣が始まっています。担当していたのが、大阪聴力障害者協会でした。この時代は、カリキュラムもテキストも地域の裁量任せでした。

私は、当時大阪市中途失聴・難聴者協会の会長だったので、「難聴体験」のプログラムにだけ、講座に顔出ししていました。司会のろう者が「僕たちは、手話だけで十分。難聴者のために要約筆記養成をやっている」と話されるのがとても悔しくて、「要約筆記を必要とする私たちが要約筆記者を養成したい」との思いが募りました。

大阪市福祉局に「私たちに要約筆記事業をさせてください」と何度も要望を出しました。「任意団体であり、わずか60名ほどの会員数」を最大の懸念材料として、なかなかOKが出ませんでした。

5. 要約筆記事業を受託

1998年秋、「宇田さん、事業をやってみるか?」福祉局から連絡が入りました。

ちょうど、厚生省(現厚労省)に「要約筆記奉仕員養成カリキュラム検討委員会」が設けられ、全日本難聴者・中途失聴者団体連合会要約筆記部の私も作業部員として参画していたので「やったぁ!私たちにも、その時が来たぁ!」と歓喜しました。

翌年1999年に厚生省から「要約筆記奉仕員養成カリキュラム」が全国に通知されました。とき同じくして大阪市要約筆記事業を手がけられるとは何と幸運でしょう。

協会設立10年弱、任意団体で事務所もないという状況でしたので、要約筆記者派遣事務局を宇田宅3LDKのマンションの一室に設置し、パソコンやプリンター、コピー機、FAXなど揃えました。委託金での機材購入は認められなく、すべて自腹での購入です。

でもそんなことは全く苦にならず「私たちが望む要約筆記者を育て、聞こえの支援をしてもらおう」との意気込みが強くありました。

受託を契機に、それまでの活動で懇意になった要約筆記者多数が養成講座の支援をしてくださいました。養成に必要なノウハウも機材もテキストも「ないないづくし」からの出発でしたが、その後10年近く、継続して複数のライオンズクラブの支援を得て、OHCやプロジェクターなど必要機材を買い揃えることができました。

2006年にはNPO法人認証を受け、2階建て民家を格安で借り、事務所を構えましたが、事務員雇用費もなく、派遣事務局は最後まで宇田宅に置きましたので、23年間、年中無休で派遣依頼を受け、登録者に打診し、コーディネートし、現場に派遣し、報告を受けて謝金の支払いまで、雑多な事務も含め、年間600件以上を一人で担当し要約筆記者を必要な現場に派遣してきました。

コーディネートのポリシーとしたのは「登録者全員を最低でも1年に一度、現場に派遣する」でしたが、要約筆記の需要と供給のバランスからかないませんでした。

2011年には奉仕員養成に代わる要約筆記者養成のカリキュラムが厚労省から通知されました。このカリキュラム作りにも委員として参画しました。奉仕員カリキュラム、そして要約筆記者養成カリキュラムの両方に携わったことで、家庭よりも何よりも要約筆記事業優先でしたが、私の人生で一番輝き充実していた23年間と思っています。

6. 苦渋の決断

今年4月からの事業について福祉局から「事務員雇用費を予算化するからあと3年継続して」と、今までにない好条件での入札の打診がありました。しかし、1年のうち8か月間もの講座運営は、長引くコロナ禍でストレスを倍加させ、体力、気力は疲弊してしまっていました。また、支援メンバーの高齢化など諸般の事情から、受託を断念することになりました。

「要約筆記を一番必要とする難聴者が養成し派遣する体制」を守り切れなかったことはかえすがえす無念ではありますが、この苦渋の決断が、事業継承をしてくださった団体でより強化し、要約筆記による意思疎通事業を発展させてくださることを心から願いながら、筆を置きます。

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