一人ぼっちから皆とともに

「新ノーマライゼーション」2022年11月号

社会福祉法人全国盲ろう者協会 評議員
田幸勇二(たこうゆうじ)

視覚障害と聴覚障害を併せ持つ盲ろう者は二重の情報障害を抱えていて、一般の視覚障害者や聴覚障害者のようにもう一方の感覚による障害の代償が難しいか、あるいはできません。程度の重い盲ろう者ほど、周囲とのコミュニケーションや状況把握、マスメディアや周囲からの情報入手が極めて困難になります。また、単一の視覚障害者以上に、単独での歩行や交通機関の利用が難しく危険を伴います。そのため、盲ろう関係の組織づくりや盲ろう者を対象とした福祉サービスの制度化が、単一の障害者より何十年も立ち遅れていました。ここでは私が盲ろう者の組織とつながるまでを振り返りながら、盲ろう者福祉の沿革や課題をまとめてみたいと思います。

生まれながらの全ろうだった私は、ろう学校の幼稚部から小学部低学年までは、音声による発話や話し手の口の形や動きを読み取る読話の訓練を受けていました。小学部に上がる頃から、視野狭窄、まぶしがり、夜盲といった目の症状が現れ、4年生の頃から視力が落ち始め、眼鏡による視力矯正ができませんでしたが、学校では単なる近視だろうとしか思われていませんでした。国語や算数などの授業はあまり問題なく受けられていましたが、音楽や体育の時間では皆とリズムが合わせられなかったり平均台が渡れなかったりして周囲からいぶかしがられていました。

中学生になって隣県のろう学校へ移りましたが、口話教育一辺倒だった前のろう学校とは雰囲気が違っていました。先生の目の前で手話が堂々と使われていて、私も少しずつ手話を交えながら周囲と会話するようになっていきました。ただ、視野が狭くなっていましたので、口話を添えない生徒の手話が読み取れなかったり、集団でのやり取りは話し手を追うのが精一杯でした。

高等部を卒業したばかりの頃、担任から目のことを告げられました。思いもよらない失明宣告でした。絶望のどん底から抜け出すべく、点字図書館に通い中途失明者向けの点字教室で点字の基本を習いました。耳から覚えた言葉を持たない私は、仮名ばかりの点字に強い抵抗感を覚えましたが、国語の勉強にもなりました。

20代の前半から30代の後半まで、コイルまきの作業に従事していましたが、弱くなっていく視力を度の強い眼鏡や時計修理用ルーペで補っていました。周囲との会話も、就職したばかりの頃は話し手の口元や手話を目で読み取っていましたが、次第にフェルトペンでの筆談へ移り、手話も目では読み取れなくなり、退職する頃には手のひらに文字を書いてもらうようになっていました。ろう学校に通っていた頃から、複数人や大人数でのやり取りに加われないことが多く、集団での孤独を味わうなら狭い部屋でひとりでいる方がまだましだと思って、テレビも見ずパズルに熱中していました。

退職して点字や歩行の訓練を受けていた頃、リハビリセンターで知り合った全盲の同期生から指点字の手ほどきを受けました。指点字の読み取りの練習を重ねていたある日、ラジオから流れてくる歌を両手の指に打ってもらった時、「これならいける!」と感じました。生まれて初めて聞くラジオ放送で、みんなとその時その場を共有できた喜びで一杯でした。

「福島智君とともに歩む会」(以下「歩む会」)は、元々は福島さんの大学生活をサポートするグループでしたが、私が初めて歩む会の合宿に参加した頃には何人か盲ろう者が集まっていました。一盲ろう者個人の支援から盲ろう者全体の支援への機運が高まっていました。

1988年の冬、「新しい盲ろう者の会設立準備会」(以下「準備会」)が立ち上がり、月例交流会には各地から盲ろう者や支援者が集まるようになりました。交流会では、学生ボランティア、手話や点訳のサークルの有志が盲ろう者の通訳や手引きに当たっていました。盲ろう者はそれぞれさまざまな方法で周囲と会話したり、通訳手段も多岐にわたっていて、いわばコミュニケーションのバザールでした。みんなに取り残されることもなく、「参加して良かった、次もまた行きたいな」と思うようになり、盲ろう活動の原動力になりました。

1990年の夏、盲ろう者や支援者の有志で参加したアメリカ盲ろう者大会では、ろう者や車椅子の人も健常者に混じって盲ろう者の通訳や手引きに当たっていました。会場では弱視手話や触手話を使う盲ろう者が多く見られましたが、一方で手話ができず会場の片隅でひっそりと点字の筆記通訳を受けている盲ろう者もいて、全体から取り残されがちな少数派の存在も忘れてはいけないと思いました。医療相談コーナーで私がバランス機能障害もあると伝えたら、担当者から「アッシャー症候群」によるものだと言われましたが、当時の日本ではあまり知られていませんでした。

1991年の春、「全国盲ろう者協会」(以下「協会」)が設立され、全国の盲ろう者や支援者を対象とした事業が始められました。アメリカ盲ろう者大会をモデルにした「全国盲ろう者大会」も、同年夏、第1回が開かれ、8月の大イベントとして毎年続けられていました。啓蒙活動の一環として、盲ろう者情報誌『コミュニカ』が創刊され、年に2回のペースで発行されるようになりました。

協会設立とほぼ同じ時期には、地域の組織として「東京盲ろう者友の会」(以下「友の会」)が設立され、準備会の月例交流会を引き継ぐことになりました。交流会では東京だけでなく近隣県からの参加も受け入れていました。1991年の時点では地域の盲ろう者組織は東京と大阪の2つしかありませんでしたが、協会の大会がきっかけで各地での立ち上げが広がっていきました。

協会では設立間もない頃から盲ろう者の通訳や移動介助(手引き)を担う「盲ろう者向け通訳・介助者」の派遣・養成事業も始められていました。福祉サービスが中央から地方への潮流があり、友の会でも1996年、都内在住盲ろう者を対象にした「盲ろう者向け通訳・介助者」の派遣・養成事業が開始されました。養成講習会では講義だけでなく、いろいろなコミュニケーション手段での会話や通訳の実習、移動介助の実習も組み込まれていました。協会の事業が始まったばかりの頃は準備会の頃から通訳や手引きをしていた人たちがそのまま通訳・介助者として活動していましたが、協会や友の会の養成講習会を修了した受講生が登録・活動するようになっていきました。友の会では2009年に全国初の「盲ろう者支援センター」が設立され、派遣・養成事業が引き継がれ、盲ろう者の多様なニーズに応じた学習や訓練も行われるようになりました。2018年からは盲ろう者向けの同行援護事業も始められています。

こうして私が歩む会とつながったばかりの頃にはなかった盲ろう者向けの公的な福祉サービスが少しずつ充実してきています。このコロナ禍でも盲ろう者の日常生活や社会参加を支えてくれている通訳・介助者や同行援護従業者にはいつも感謝しています。私がろう学校に通っていた当時は盲学校や病院との連携が全くなく、授業や進路の適切な指導も行われていませんでしたが、協会や友の会の啓蒙活動で盲ろう児への理解が深まり、教育や医療などの連携も取れるようになってきています。盲ろうを理由に、「ヘレンケラー」を冠した中途失明者向けの三療養成学校や国立の障害者向け職業リハビリセンターから受け入れを拒否された経験を持つ私ですが、今なお盲ろう者の職業訓練や就労はまだ課題が残っています。後に続く盲ろう者の皆さんにも、周囲の協力や支援を得ながら、通訳・介助者や同行援護従業者を育て、盲ろう者の多様なニーズに応えてもらえるようにして、残された課題を一つ一つ乗り越えてもらえればと願ってやみません。

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