重症心身障害児者とともに

「新ノーマライゼーション」2022年11月号

全国重症心身障害児(者)を守る会 会長
北浦雅子(きたうらまさこ)

次男の障害、そして小林提樹先生との出会い

昭和16年、主人の仕事の関係で、私は初めて東京を離れて福岡で暮らすことになりました。昭和21年に生まれた次男は、生後7か月経った頃の種痘が原因で種痘後脳炎を起こして右半身がマヒし、言葉も困難な重症児になってしまいました。

18年間の福岡でのさまざまな出会いと出来事の中での喜びや苦悩や願いの日々を経て、昭和34年、私たち家族は東京へ戻って来ました。その時、のちに島田療育園を創設された小林提樹(ていじゅ)先生にお目にかかることができました。小林先生が処方されたお薬のおかげで次男の痙攣は軽くなり、表情が豊かになり、その後は少しずつ音楽を楽しんだり、おもちゃで遊ぶようになっていました。

私は、小林先生の主宰される「両親の集い」という月1回の親たちの会合に出席していました。ある日、先生が「こういうお子さん方のために施設を創ろうと思う」と言って、見せてくださったのが島田療育園の建築設計図でした。当時「死ぬ時はこの子と一緒に」が合言葉だった私たちは大喜びしました。そして先生は「こういう施設は国の援助なしにはとても運営はできない。国に陳情するからついて来てほしい」とお話しされたのです。

初めての国家予算と守る会の発会へ向けて

当時は、「役に立たない人間に国のお金は使えません」という時代でした。しかし、国会議員の田中正巳先生が、小林先生の話をお聞きになって「よし。厚生大臣のところへ行こう」と、昭和36年1月、厚生大臣をはじめ、陳情のために私たちをあちこち連れて行ってくださいました。それが実を結んで、重症心身障害児療育研究委託費400万円の予算が認められたのです。これが重症心身障害児(以下、重症児という)のための初めての国家予算でした。その時の喜びは決して忘れることがありません。

昭和36年5月に島田療育園が開設され、私たちは念願がかない、大喜びしました。ところが、昭和38年に「島田療育園は児童福祉法による施設である。だから18歳以上は入れません」という厚生省の事務次官通達が出されたのです。驚いた私たちは、「やっぱり私たちは死ぬよりしょうがないんだ」とがっかりしていました。すると小林先生が「そんなこと言わずに、親の会をつくりなさい」とおっしゃったのです。私たちは専門家と一緒になって、「どうやって親の会をつくろうか」と真剣に話し合いました。

守る会の原点

その時出た意見は、「重症児は親だけでは絶対守れない。専門家や社会の方々のお力なくしては守れない」というものでした。だから社会の共感の中でこの子どもたちを守っていこうという姿勢を示すために、名称は「親の会」とはしないで「守る会」としました。こうして「全国重症心身障害児(者)を守る会」(以下、守る会という)は昭和39年6月13日に発会したのです。ここで「児(者)」としているのは、「18歳以上も忘れないでください」という強い思いも込めているのです。

翌年の昭和40年の第2回守る会全国大会の時に、佐藤栄作総理に代わって出席してくださった橋本登美三郎官房長官は、その大会での私たちの子どもたちの実態や親の訴えをお聞きになり、用意されていた祝辞を演壇にたたきつけて、「こんな通り一遍の祝辞は読めません。皆様方の悲しみを悲しみとして受け取る政治家の愛情がなかった。これからは国でお世話をいたします」と言い切ってくださったのです。それから昭和41年に国立療養所に初めて重症児のためのベッドが設置されるまでにはいろいろな苦労がありました。昭和42年の児童福祉法の改正によって、児童福祉法の施設であっても18歳を超えても施設に入れる(児者一貫)ことになりました。

「重症児のお城」と「三原則」・「親の憲章」のこと

在宅対策としては、当時「あゆみの箱」という伴淳三郎さん、森繁久彌さんをはじめ芸能人の方々による心身障害児者のための募金活動があり、その最初の募金額2,600万円を「社会に取り残されている在宅の重症児者のために使ってください」とおっしゃってくださって、できたのが昭和44年4月開設の「重症心身障害児療育相談センター」(現 北浦記念館/東京世田谷・三宿(みしゅく))です。この建物を私たちは「重症児のお城」として心のよりどころとしています。

そうしたいろいろな体験をする中で、私は「重症児に関わる者の原則を作らなくてはだめだ」ということを実感しました。その思いで作ったのが守る会の「三原則」です。それは、1.決して争ってはいけない 争いの中に弱いものの生きる場はない 2.親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること 3.最も弱いものをひとりももれなく守る、というものです。その後、徐々に施策が充実してくる中で、受ける福祉を当然視し、親の責任を回避する姿勢を自ら戒めるため、昭和56年6月の第18回全国大会で「親の憲章」を制定しました。

重症児の自立とは何か

平成17年、障害者自立支援法(平成18年施行)が成立しました。当時厚生労働省と7団体で行われた会議の席で「自立」について説明がありましたが、「障害があったらリハビリして、社会復帰して、税金を納められるようになるのが自立」という感じに受け止められたのです。その時私は「では、重症児の自立って何なのでしょうか。重症児はお金は生産いたしません。けれども人の愛を感じたらにっこり笑って、そして登校拒否の中学生などの心を癒していく。それから残存能力を伸ばして成長していく。それに喜びを感じて感動してくださる社会の方々がいっぱいいてくださる。この人の心を変えることができるのがこの子たちの生産性です」ということを申し上げました。

こうした中、子どもたちは年々重度化・重複化していき、人工呼吸器などの濃厚な医療を常時必要とする子どもが増えてきておりました。また、当時の養護学校での医療的ケアも大きな問題でした。私たち「守る会」は厚生労働省と文部科学省との橋渡しとして、養護学校で医療的ケアができるようにお願いし、看護師の配置や教員による痰の吸引などの実現に向け努力してきました。

12万筆超の署名を提出

平成21年には内閣府の委員会で「脱施設論」という意見が出てきました。「入所施設は人権侵害だ。施設なんてつくるな」「障害者は地域移行させるべきだ」「地域で生きていくんだ」などとおっしゃるのです。その時、私は「重症児の命は医療によって守られて、しかもその生活、そして人生を豊かにする医療という意味で療育もあって、ようやくこの子たちは生活しているのです。重症児には入所施設が必要不可欠です」と申し上げました。私はこの脱施設論に危機感を抱き、すぐに守る会として全国に理解を求める署名活動を行いました。おかげさまで署名数は12万筆を超え、それを内閣府に提出し入所施設の必要性をあらためて強く訴えました。

守る会がめざすもの

現在「守る会」は2つの組織があります。1つは親を中心とした全国組織としての「守る会」。全国47都道府県に支部があり、重症児の福祉・医療・教育施策の向上を願い、国や自治体への要望活動を行うとともに全国大会をはじめ各種部会、研修会等を行う団体として、現在創立58周年を迎えております。もう1つは社会福祉法人としての「守る会」です。事業体として、東京都・栃木県に重症児の入所・通所の施設・事業所を複数か所運営し、福祉・医療・相談等各種の社会福祉事業を行っています。いずれも本部を北浦記念館(東京世田谷・三宿)に置いています。

今の世の中、命を粗末にすることが多すぎます。重症児が一生懸命生きている姿を、一人でも多くの人たちに知っていただいて、そして命を尊び、慈しみ、思いやりがあって、優しい、そういう社会にしようとする方が大勢出てきたら、それはきっと共感を呼び社会を変える大きな力になると思います。

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