障害者運動と尊厳

「新ノーマライゼーション」2022年11月号

きょうされん福岡支部 副支部長
古賀知夫(こがともお)

1. 小規模作業所運動が私の原点

私は、40年以上、福岡の地で障害者運動に関わってきました。特に30代から関わった小規模作業所運動は、私の運動の原点でもあります。

小規模作業所は1960年代から始まり、70年代には全国各地に広がり、80年代、90年代には、爆発的な広がりを見せます。ピーク時は6,000か所を超え、その広がり方を「燎原の火のごとく」とも言われたりもし、日本全体を網羅した草の根的な障害者運動でした。

私自身は30代に福岡市内で小規模作業所の職員として足場を置きながら、県内各地の小規模作業所の組織化と運動の輪を広げる取り組みを進めました。

私がいた作業所は、1977年障害当事者自身が立ち上げました。管理された施設生活から飛び出した人、どこにも行き場がなかった重度障害者や精神障害者、障害の進行から仕事を続けられなくなった人など、いろんな事情と願いを背景に社会資源がまったくない地域で、資金もなく、支援者もほとんどない状態からのスタートでした。アパートの一室を借りますが、その家賃づくりのために地域の中で行った廃品回収は、貴重な財源づくりでした。障害当事者や数少ないボランティアがリヤカーを引きながら、1軒1軒の民家にチラシをまき、訪問し、直接住民の人たちに作業所への理解や協力のお願いを呼びかけました。「なぜ働きたいか」「地域で当たり前に生きたい思い」「全くの手づくりの作業所の運営の厳しさや行政の壁の厚さ」などを話していきます。その地道な取り組みのつみ重ねが、地域の中に確実に作業所への協力の輪を広げていきました。

作業所を立ち上げてからすぐに行政には、その必要性と現状の厳しさを訴え、補助金を要請しましたが、好きでやっていることでしょうといったような反応で相手にしてもらえない時が続きました。その壁を破ったのが、地域の中での作業所への共感と協力の広がりでした。その広がりを行政も認め、5年後の1982年に福岡市で補助金制度がやっと誕生します。しかし、その水準は、政令指定都市の中では最も低く、10分の1以下の水準でした。1987年には、国レベルで3障害を対象とした補助金制度が誕生しますが、福岡市は、国の補助金をもらったら、もともと低い福岡市の補助金を同額相殺するという方針を出しました。さすがに障害当事者・家族・関係者からは、怒りに近い形での抗議が沸き上がり、マスコミも大きく動き、福岡市も市として責任もって補助金増額を行うことを約束しました。そこから全国平均水準並みの補助金制度になるまでにさらに5年の年月がかかりました。この時、地域間格差の問題の根の深さを強く感じました。

さらに、九州や福岡県内を見わたすと、全国の中でも最も低い水準の補助金制度のブロックであり、自治体でもありました。

全国の中でも精神科病院の病床数や入所施設の多さは、際立っていましたが、反面、ホームヘルプ事業などは遅れており、地域生活を支える社会資源が非常に限られていました。そこには、小規模作業所への期待は潜在的には広がっていきましたが、その思いが形となって小規模作業所づくりに転嫁していくには壁も厚く、ピーク時には、全国では半数の市町村に作業所が設置されますが、九州では2割から3割台の設置率の県が多い状況でした。作業所づくり自体も全国との地域間格差を感じました。

県内には、小さな町で1人や少人数の親がわが子のために古い建物を借り、作業所を立ち上げるケースが多くありました。運動や事業所づくりの経験もない人たちが資金もない状況で自分が住む街に「働く場」「集える場」づくりを手づくりで進めていました。県内各地の一つ一つの作業所を訪問し、切実な悩みを交流しながら、手をつないで運動をつくっていく必要性を呼び掛けていきました。また、作業所づくりを始めたいという各地での学習会や集まりもひんぱんに行いました。1986年、やっと連絡会が結成されました。いつつぶれてもおかしくないという作業所が多く集まり、日々の悩みの交流とお互いの励ましあいを繰り返していたのを覚えています。ここから作業所運動の新たな発展につながりました。

私は、小規模作業所運動の中から3つの大切なことを教えてもらいました。

一つ目は、運動において、絶えず市民や地域を視野に入れておくことです。作業所自体が地域の方々の支えなくしては、維持・発展できなかったこともありますし、この支援の輪の広がりが行政を動かす大きな力にもなりました。障害者や作業所を受けとめる地域づくりにもなりました。

二つ目には、関係者が違いは尊重しあいながら、一致する点を大切につながっていくことです。つながる時に作業所の大きい小さいの規模は関係なく、都市部であろうと小さな町であろうと一緒のテーブルについて、つながっていくことです。

三つ目には、最も困難なことや困難なところに目を配ることです。そのことを忘れなければ、意外と運動の進んでいく道はそんなに間違うことはないと思いました。

2. とてつもなく大きかった人権の問題~1人の青年の命の重さを問うて

2007年9月25日、佐賀市内で知的障害のある安永健太さんが通所施設の帰り道、5人もの警察官に取り押さえられ、命を落とすという痛ましい事件があります。それは、健太さんにとっては、毎日の当たり前の生活を時間どおりに繰り返していた時、突然降りかかった強力な力で押さえつけられ、パニック状態に追い込まれる中で起きた事件でした。警察の責任を争った裁判の支援活動は、警察組織という壁と地方での裁判の難しさも加わり、その壁の厚さから、残念ながら、地元では個人が有志で集まっての支援活動という形でした。私は最初から事務局に関わってきました。

事件は一旦不起訴となります。しかし、障害のある青年の一人の人間としての尊厳と人生を勝手に奪われたことの不条理さは、誰の目にも明らかでした。裁判を求める市民の署名が佐賀の地で11万人集まります。その声に押されて裁判は始まりますが、裁判制度の難しさもあり、10年かかった裁判では、真相は明らかになりませんでした。

社会的弱者と言われる人がこの地域社会で安心していくために最も近くで寄り添うべき警察組織や司法機関が、障害への無理解からむしろ障害者を社会から締め出す側にも転じられる事実を、10年間の支援活動を通じて深く胸に刻まれました。

私自身は、障害福祉という枠組みでの運動をベースに置いてきました。しかし、障害者がこの社会で当たり前に生きることを保障されるためには、「人権」「人間の尊厳」ということでの社会側がもつ壁にしっかりと向き合った運動が必要であることをだんだん強く思うようになりました。とりわけ司法という一件日常生活から遠い世界に感じられる世界が、実は、命や人権を守る砦であるし、そこにもっと障害者運動が向き合っていくことの必要性を教えられました。

3. 私たちの責任と次世代へ

今、私は、旧優生保護法の違憲訴訟の裁判支援活動に身を置いています。この旧優生保護法は、戦後の日本最初の障害分野の法律であり、法律の目的の中で障害者を「不良」な人間として規定します。それは戦後の日本での障害者の人権を奪う制度や施策の方向性をつくり、地域社会から障害者を締め出す国づくり・地域づくりを推し進めた法律です。その影響は、今にもつながっているといわれています。私自身は、長く障害者運動に関わりながら、遠巻きにこの問題を見つめるという傍観者的立場でした。さらにこの法律の問題の本質を学ぶこともせず、「無関心・無知」の世界に身を置いていました。今、そこには、後悔の念が沸いています。

障害者運動を次世代にバトンタッチするためには、私たち世代が障害者運動を進めていた真っただ中にこの優生保護法問題からくる障害者を社会から締め出す考え方が浸透していったことに今、私たちが抗っていくこと抜きには、大切なことを次世代に伝えていくことが難しいと思うようになりました。福岡の各地で、いろんな立場を超えて、少しでも幅広い人たち、特に若い人たちとこの問題を考え、一緒に裁判の支援活動を進め、優生保護法問題の解決に向けての運動を少しでも広げられたらと思っています。

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