レクリエーション新時代~みんなでからみんながへ~3-カラダで遊ぶ―動くことの楽しさを求めて

「新ノーマライゼーション」2022年11月号

日本福祉文化学会名誉会員
薗田碩哉(そのだせきや)

1. 「動物」としての人間とスポーツの価値

人間もまた動物である。動物の動物たるゆえんが「動く」ことにあることはいうまでもない。動くことは生きていることの証であり、自由に動き回ることによって人は大きな喜びを得ることができる。障害者における「障害」の代表的なものは、視覚や聴覚などコミュニケーションにおける障害と「動く」ことに関わる障害である。体が動かない、動いても思うように動きをコントロールできない、コントロールできても普通の人に比べて多大の努力を要するなど、これらの動くことを妨げられている人たちにとって「動く喜び・楽しみ」の獲得は大きな生活目標である。

体を動かすことの楽しみ=フィジカル・レクリエーションにはさまざまなものがあるが、代表的なものが「スポーツ」と呼ばれる活動である。世の中には驚くほど多くの種類のスポーツ活動が行われていて、何の道具もいらないウォーキングやランニングから始まり、卓球やテニスやゴルフのように多くの人におなじみのもの、野球やサッカーのように子どもから成人まで幅広く親しまれているもの、初心者でも気軽に行えるニュースポーツ、また逆にロッククライミングやスカイダイビングのような高度な技術や用具を要するものまで多種多様である。

障害者はスポーツから隔てられがちと思うが、必ずしもそうとはいえない。障害者スポーツの開発は近年急速に進んで、既存の競技に車いすを組み合わせたり、独自の補助具を開発したりして挑む車いすテニスや車いすバスケットボールがあるかと思うと、障害そのものを積極的に活用したブラインドサッカーのような競技も登場し、見えない人が見える人と同等に競い合う光景が見られるようになった。昨年、オリンピックとともに開催されたパラリンピックが、障害者スポーツの幅の広さと大きな可能性をテレビを通じて多くの国民に知らせてくれたことは記憶に新しい。

2. ユニバーサル・スポーツを目指して

障害者も健常者もともに楽しむことのできるスポーツとして近年人気を博しているスポーツに「ボッチャ」がある。赤と青の2種の柔らかいボールを使い、フロアに転がした白い目標球に向かって投げ合い、赤と青のどちらが白いボールの近くに寄せられるかを競い合うゲームである。このような「接近」を争うルールは、氷上スポーツとしてすっかりおなじみになったカーリングにも通ずるもので、相手チームのボールを押しのけて目標に寄せていく面白さとスリルが広く理解されるようになってきた。

ボッチャはもともとイタリア語で、フランスではペタンクという名称で知られ、ヨーロッパ全域で古くから行われてきた野外ゲームである。本来は金属製の重たい球を木製の目標球に向かって投げるゲームで、ヨーロッパの公園に行くとこのゲームを集団で楽しんでいる光景をよく見かける。現在、日本に定着しつつあるボッチャは、ボールを革製の柔らかいものにしたところがポイントで、これならだれにも扱いやすく、子どもから高齢者、障害者まで万人向きのレクリエーション・スポーツとして活用できるようになった。筆者はこのボッチャを老人ホームのプログラムとして何度も実施したが、初めて体験するお年寄りが難なくルールを理解し、夢中になってゲームに興じていた。子どもたちにも試してみたが、小学校低学年でも楽しめる。そしてもちろん車いすの障害者も対等にゲームに参加できるし、ボールを投げる力がなければ、ランプ(小さな滑り台のような補助具)でボールを転がして的を狙うこともできる。

ボッチャは手軽そうなゲームだが、またなかなかに奥が深い。昨年のパラリンピックのボッチャ競技では日本人の選手が見事優勝を果たしたが、車いすからのどの一投もほとんど神業と言ってもいい正確さとスピードで、着実に相手のボールを押しのけ、乗り越えて目標球(ジャックボール)にピタリと寄り添う技術には驚嘆するしかなかった。入りやすくて奥が深く「ユニバーサル・スポーツ」の名にふさわしいボッチャのようなゲームの開発は障害者レクリエーションの大きな課題の1つである。

3. 「競争」には価値もあれば「ひずみ」もある

スポーツの核心には「競う」という要素がある(とはいえ、すべてのスポーツが競い合うものではないことは後述する)。相手に勝ちたいという一心が人々をスポーツに熱中させる。それは一面、体を鍛え気力を養い、人間の可能性を伸ばす原動力になることは確かだが、勝者の陰には必ず敗者があり、負ければ悔しく、落ち込んで意欲を失う場合も少なくない。また「勝つことがすべて」という価値観に支配されて、理不尽な練習を強要したり、負けた選手を罰したり、互いに相手を非難しあったりすることも珍しくない。力を尽くして戦った後には愉快に交歓する、というスポーツ交流が忘れられて、ひたすらメダルの数を競い合うような風潮はオリンピックにも顕著に見られる。

障害者の場合、競争が強調されればされるほど、スポーツを敬遠することになりがちである。パラリンピックで好成績を収められるような超人的なアスリートは、障害者のごくごく一部に過ぎない。多くの障害者は自分とは無縁の世界だと考えてスポーツから遠ざかる。そうならないためには、障害者スポーツの発想を転換して、障害者がその一生を通じて体を動かす楽しみとしてのスポーツに親しめるようなプログラムと環境の整備に取り組む必要がある。換言すれば、障害者にとっての「生涯スポーツ」をどうやって実現していくかを考えることこそが大切なのである。

4. 競争しないスポーツの可能性

スポーツ(sports)という語はdisport(遊び戯れる)という語の短縮形で、身体運動に限った用語ではなく、楽しみ、気晴らしからふざけっこに至る幅の広い遊びの世界を表す言葉であった。したがって運動競技ばかりでなくトランプやチェスなどの盤面ゲームもスポーツ大会の競技になっておかしくはないのである。スポーツの原義に帰って、身体活動ばかりでないスポーツ、また競争しないスポーツという視点を取り入れることが、特に障害者スポーツの領域では大切なことだと思われる。

競争しない身体活動というと、散歩とか自由な運動とか、また体操やダンス(これらは競技化することもできるが、それ自体でも楽しめる)などが頭に浮かぶ。子どもの遊びの中には、木登りとか崖滑りのような体を使いこなす遊びや、体と体をぶつけ合って楽しむ馬跳びとかおしくらまんじゅうとか、手をつないで輪になって互いに引っ張り合ったり支え合ったりするとか、ふれあいのあるさまざまな遊びがあるが、これらを成人向けに改編した「協調ゲーム」(筆者の命名)も教育や福祉の場で行われてきている。

また、競技化したスポーツからあえて競争の要素を抜き取って、動くことそのものを楽しむことを目指す非競争的(non-competitive)スポーツの試みもある。一例を挙げてみよう。普通の6人制バレーボールを行うのだが、片方のチームがポイントを上げると、そのチームから1人相手コートに移って相手チームの一員になるというルールにする。するとポイントを上げ続けるチームは1人また1人と人数が減っていく。少ない人数では守り切れず、相手チームがポイントを取ると選手が帰ってくる。これを続けるとどちらのチームが勝ったかは意味がなくなり、しかし、ゲームそのものは活発に展開されることになる。

競争に動機づけられずに、それぞれの身体能力のままにのびのびと動き回ることができ、それに加えて参加した人たちの間の豊かなコミュニケーションが促進されるようなプログラム―そこに次代の障害者スポーツを生み出す大きな可能性を見出すことができるのではないか。

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