レクリエーション新時代~みんなでからみんながへ~4-「楽しい文化活動」を開拓する

「新ノーマライゼーション」2023年1月号

日本福祉文化学会名誉会員
薗田碩哉(そのだせきや)

1. 文化は遊びから生まれた

「文化は遊びの中に遊ばれるものとして生まれた」と説いたのは20世紀前半に活躍したオランダの文化史家ヨハン・ホイジンガである。彼は1936年に書いた『ホモ・ルーデンス(ラテン語で「遊ぶ人間」という意味)』という本で、およそ人を人たらしめている文化の根底には「遊び」が見いだされると指摘した。確かに、音楽にしても絵画にしても、あるいはスポーツにしても学問にしても、およそ文化的といえる営みの根っこに「遊び」的なものがしっかり根を下ろしているのは見やすい道理である。しかし、ホイジンガはそればかりでなく、法律も裁判も、はては戦争さえもが本来は「遊びの形式」のもとにあったのだという。子どもたちの遊びを観察すると、鬼ごっこにしてもかくれんぼにしても必ず約束事=ルールがあり、状況に合わせて自在にルールを作り変えて遊んでいる。この能力は大人になって仕事を進めていく上で欠かせない規則や法律や制度を生み出す土台になっているというのだ。

さらに、ホイジンガは現代社会がそうした生き生きした遊びの精神を見失っているのだと警鐘を鳴らす。遊びは大掛かりになり、多くの人たちを引き寄せ、ダイナミックに楽しませる装置があれこれ開発されているが、それは人々を操作し、都合よく動かすための手段に成り下がっているのではないか。政府の宣伝や商業主義に利用されるのではない、自由で、自発的で、創造的な遊びを取り戻すべきだとホイジンガは主張している。

2. 遊びと「文化」の間に溝ができた

現代人の日常生活には遊びがあふれている。テレビもラジオもスマホも毎日、音楽やドラマやお笑いを届けてくれるし、街へ出ればいろんな遊び場があり、食べる楽しみを追求できるレストランや料理店は選ぶのに一苦労するほどだし、おじさん向けのパチンコ店も若者向けのゲームセンターも、もっと大掛かりな家族向けレジャーランドもある。その場所への交通アクセスも少しずつ改善され、障害があっても楽しめる場所は確かに拡大している。気楽な娯楽ばかりでなく、「高尚」な音楽や演劇を鑑賞できるホールや古今東西のアートに接することのできる美術館や博物館、あらゆる分野の書籍や資料を集めた図書館も多くの町につくられてきた。「文化」に触れる機会は決して少なくはない。しかし、何か物足りなさを感じる点がないでもない。それは楽しい遊びとまじめな文化の間に溝ができて、両者が別々のものになりつつあるのではないかという危惧である。

例えば「歌う」という遊び=文化活動に注目してみよう。歌を歌ったり演奏を聴いたりするのを喜ぶのは人間の本性で、幼稚園の子どもたちからカラオケに熱中する大人たちまで音楽の楽しみは一続きにつながっている。しかし、「文化活動」という名前のもとに行われる歌唱、合唱や楽器の演奏となると、途端に愛好者はごく一握りの人たちになってしまう。流行歌やアニメソングを熱唱する人たちも、混成4部合唱や楽器のアンサンブルに誘われると「楽譜は苦手」と言って逃げ出してしまう。幼稚園のお絵描きを嫌がる子はまずいないが、大人になると大多数の人は絵を描くのは苦手と自ら決めつけて、画用紙やキャンバスに向かう人はほんの一握りに過ぎない。

昔の生活では、歌も絵も造形のようなアートも生活の中に溶け込んでいて、誰もが創造者であり同時にその作品の享受者でもあった。近代化とともに両者の分離が進行し、歌やアートを専門的に提供する歌手や絵描きが職業として自立し、他方でお金を払ってそれを楽しむ聴衆や購買者が現れて「文化産業」が成立する。それによってホイジンガ的な遊びは分解して、文化創造は真面目な営みに「昇格」し、他方、大衆は受け身の遊びの単なる消費者になってしまった。

3. アール・ブリュットの世界

身体面やコミュニケーション面で何らかの障害のある人たちは、文化的な遊びから遠ざけられているだろうか。確かに文化的な施設へのアクセスやさまざまな文化プログラムへの参加が制約されるという問題があり、改善が進んできたと言っても課題は多く残っている。しかし、それとは別の視点もある。

多くの人は生活を妨げる障害というものは、遊びにも文化にも障壁として立ちはだかると考えている。見えない人は絵画を楽しむことはできず、聞こえない人は音楽とは無縁であるというように。しかし、障害というのは社会生活上の不都合ではあるが、他面ではその人のもつ特色であり、あえて言えば個性だともいえるわけなので、それに応じた独自で個性的な文化が生まれる可能性がある。聞こえない人の手話言語は音声言語と同等の価値をもつ言語文化を生み出してきたし、音楽にしても打楽器中心の身体に響くリズムを楽しんだり、発声法を学んで歌うことも不可能ではない。また、見えない人も豊かな想像力を武器に、独自の絵も描けば写真の作品も作っている。筆者もかつて自著『デザインする時間』の表紙を見えないイラストレーターのエム・ナマエ氏に描いてもらったのだが、独特の雰囲気のある作品で、表題にふさわしい装丁ができて気に入っている。

中でも知的障害者のアート活動は、アール・ブリュット(フランス語で、生(キ)の芸術の意)の一分野として注目され、作品展が各地で催されてきた。絵画にしても造形作品にしても、常識にとらわれない独特の世界を切り開いている。人間の能力は多様であって、ある面では社会的な標準に届かずに「障害」視されても、別の物差しを当てれば常人を凌ぐ力を発揮できる分野も決して少なくはない。

文芸の領域になると、何らかの「障害」は作品を生み出す重要な契機ともなる。生きることの難しさや社会の無理解や迫害を梃子にして詩歌を作ったり小説を書いたりして、多くの読者を獲得してきた例は枚挙にいとまがない。盲目の美しい娘が主人公になる谷崎潤一郎の『春琴抄』をはじめ、ノーベル文学賞の大江健三郎の作品に登場する発達障害など、さまざまな障害者の物語が読まれ、また映画化もされて人々に感動を与えてきた。近年では、遠慮なく自由に生きる筋ジストロフィー患者の日常を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』が話題になり、大泉洋が主演して映画化されてヒットしたことが思い出される。総じて言えば「障害」は新たな文化創造の母体になり得るということである。

4. 障害者の生活に即した文化的レクリエーションのすすめ

障害者の日常生活の中に、さまざまな形の文化的な楽しみを持ち込むことが真剣に考えられなくてはならない。それも優れた文化作品を受け身で楽しむというばかりでなく、自ら参加し、仲間とともに創り上げる文化的レクリエーションを日常化することを目指したい。アール・ブリュットの優れた創作者を探し出し、育てることも大切だが、それよりも障害者誰もが自分の好むスタイルの「私の文化活動」を見つけ出し、生活に根付かせることが先決だろう。この視点はスポーツの場合と同等で、前回のこのページで指摘したように、ごく少数のエリート選手育成よりも、すべての障害者の「生涯スポーツ」に取り組むことを重視したい―それと同じ論理で、すべての障害者がそれぞれの好みを生かして、日々の生活をもっと文化的に楽しむ工夫を広げていきたい。

文化は遊びの中で育つ、というホイジンガの指摘を生かして、日常生活のただ中で、歌う遊び、奏でる遊び、描く遊び、つくる遊び、語る遊び、書く遊び、踊る遊びや演じる遊び…を追求しよう。そのためにどんなやり方があり、どんな場所があり道具があるか―それらを研究して支援のノウハウを磨くのがわれわれレクリエーション支援者の役目である。

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