ひと~マイライフ-私の生きる、演劇の世界

「新ノーマライゼーション」2023年2月号

関場理生(せきばりお)

1996年、東京生まれ。2歳で失明し全盲となる。東京都立総合芸術高等学校舞台表現科3期、日本大学芸術学部演劇学科劇作コース卒業。2021年、ジェニー・シーレー演出『テンペスト―初めて海を泳ぐには―』出演。2022年、手話裁判劇『テロ』出演。現在、みみよみナレーション事務所に所属する他、ダイアログ・イン・ザ・ダークのアテンドとしても活動している。

『演劇は社会を映す鏡だ』

演劇を学ぶ中で、私が幾度となく聞いた言葉である。演劇に限らず、映画や本、音楽、ゲーム等に触れた時、その世界観の奥に私たちの生きている社会というものを感じることがあるだろうか。それはノンフィクションだから、とか、ファンタジーではあり得ない、という単純な話ではない。その作品の中に人が息づいているかが重要なのだ。そこに人間を感じると私たちは共感する。そして自分の日常を、社会を思い起こすのだろう。これが『社会を映す鏡』をのぞいた感覚に違いない。

演劇は、観客と俳優が同じ時、同じ空間にいなければならない。そのおかげで、紛れもなくそこに人が生きていることを感じやすいのが利点だ。深く共感し、生々しい現実を想起させる。そんな体験が『演劇は社会を映す鏡だ』と人々に言わせているのではないか。ただし、すべての演劇がそんなすばらしい鏡というわけではなく……。出来不出来の差が激しいこともまた生である故の宿命だろうか。

私は子どもの頃から演劇が好きだった。よく家族で観に出かけて、今でも内容を覚えている作品も多い。

私は2歳で失明している。見るという体験すら覚えていない。しかし、地域の学校でインクルーシブ教育を受けることができた。点字を使いながら、恵まれた学校生活を過ごした。全盲の父、晴眼の母、姉、盲学校の先生……。たくさんの温かい協力者に感謝している。中でも舞台表現科がある高校に入学したのは、私の人生で最も大きな、最も誇るべき選択である。

高校2年の冬、劇の創作課題が与えられた。それは自由なようで、劇とは何か、自分は何を伝えたいのかを突き詰める過酷な3か月余りだった。その時友達にこう言われた。

「目が見えない役をやってほしい」。私は正直かなりショックを受けた。それまで私にとって舞台上は、視覚障害者ではなくなることができる場所だったのだ。観客に「目が見えないって分からなかった」と言われるのが何よりうれしかった。

友達と話して、じっくり考えた。そして、発表日の2日前に出来上がったのは、ギャルのJKと目の見えない女子高生の物語だった。歌ったり、白杖で戦ったり、はちゃめちゃなストーリーだったが、その時初めて気が付いた。目が見えないことは私の武器だ、と。舞台の上でこそ、この武器は輝く。それは私そのものが息づいている感覚だった。大学でも演劇を学び、卒業後も私は演劇に携わり続けている。

近年、劇場のバリアフリー化が注目され、視覚障害者向けのサポートも増えてきた。音声ガイドや事前解説、触れる舞台模型の用意等だ。今後は、芝居そのもののクリエイション方法も変わっていくだろう。

昨年私は手話を使った舞台に立った。ろう俳優も「手話も視覚障害者も初めて会った」という人もいる中で始まった稽古中、ある役者がこんな投げかけをした。

「この舞台には目の見えない役者がいて、当然観客にも目の見えない人はいらっしゃるはず。セリフを手話で話す、字幕を出すだけで、バリアフリーと言って良いものですか?」

それを受けて、一部演出が追加された。私が「歩く」「左に曲がる」等と解説しそれに合わせて動くという手法が生まれた。それは完ぺきな音声ガイドではなかったが、芝居の中に自然に溶け込んだセリフになった。芝居の可能性が広がった瞬間だと感じた。

私はこれからも視覚障害者として演劇を観て、作るだろう。『社会を映す鏡』なのだ。社会の一員である私たち障害者が関わらない手はないのである。

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