全国脊髄損傷者連合会岡山県支部 支部長
珍行美貴夫(ちんぎょうみきお)
私は、1950(昭和25)年生まれ、1971(昭和46)年に仕事中事故に遭い脊髄を損傷し障害者(障害等級1級)になりました。受傷当時は、まだ福祉が進みかけた時期で、車椅子でまちに出ても店の入り口にスロープがなくて入れない、歩道と車道に段差があるなど、車椅子での生活は大変でした。脊髄損傷者の余命は10年そこそこといわれた時代でした。受傷後すぐに岡山労災病院に入院、労災病院には脊損病棟があり、受傷して数年経った人や再入院の人、症状も違う人々の姿を見たり触れ合うことで、徐々に障害を受け入れた気がします。当時は入院から3か月は安静で起き上がることもなく過ごし、4か月目に初めて座りリハビリが始まりました。最初の感想は受傷部位から下の感覚がないことを実感し、車椅子がなければ何もできない状況でした。
1964年に開催された東京パラリンピックを契機に障害者スポーツの推進が図られ、私の住む岡山県では、障害者体育大会が開催されていて、受傷1年目に入院していた岡山労災病院から数名で参加し50メートル走に出場したのが最初の車椅子スポーツでした。
全国脊髄損傷者連合会(以下、脊損連合会)との関わりは受傷後早い時期でした。最初は全国脊髄損傷者僚友会(全国の労災病院に入院している脊損患者の会)会員でした。でもあまり深く考えることなく時は過ぎ1年4か月余りで退院しました。退院後、労災作業所に行くことになり、そこで車椅子バスケットボールに出会いました。これが障害者スポーツにつながるきっかけになりました。
車椅子バスケットボールはリハビリを兼ねていたのですが、多くの仲間に巡り会いました。ここで先輩の脊損の人から車椅子での動き(車椅子操作や車椅子上での体の使い方)や生活に必要な体の管理の仕方などの知識を教えてもらい、試すことで自分にできことを見つけることができました。多くの学びと知恵をもらい経験を重ねて車椅子での生活でも自分が希望し行動すればできることを知りました。その一例が入院中に障害者手帳を取得したことと運転免許証の書き換えです。障害者手帳は退院後でないと申請できないと言われていましたが、障害者手帳がないと免許証の書き換えや自動車購入の際に免税などが受けられないので、早急に手帳取得を希望し福祉との協議により取得できたのです。
退院後の数年は褥瘡(じょくそう)で入退院を繰り返していましたが、作業所で仕事をして報酬を得て、また多くの仲間の力を借りバスケットボールの遠征試合で広島から別府に行く時には受傷後初めてフェリーに乗船するなど、日常生活が充実していました。
作業所生活は約2年、自宅ができ一人暮らしを始めて1974年秋に結婚しました。ここから本格的に社会人としての生活が始まりました。全国脊髄損傷者僚友会は全国脊髄損傷者連合会になり、岡山でも有志により全国脊髄損傷者連合会岡山県支部がスタートしました。この時点では私はまだ会員ではなく傍観者でした。1980年頃正式に岡山県支部に入会し活動を始めました。支部の活動では、脊損者の外出の機会を増やすために、脊損仲間に呼びかけ、集会や近距離のお出かけなどを企画、脊損連合会の行事にも参加しました。これが私の障害者活動の始まりかと思います。誰かのためというよりは、自分のための活動でもありました。車椅子障害者だからと外出を控えるのではなく、積極的に出かけることにより、まちが車椅子でも動けるように改善されるのです。岡山県内にも車椅子バスケットボールのチームが立ち上がり、車椅子の仲間も活動範囲がより広がりました。1981年、「完全参加と平等」をスローガンに掲げる国際障害者年を契機に、ここから社会の福祉への理解が促進され、より障害者の活動が広がりました。
私自身は褥瘡等に悩まされながらも大分国際車いすマラソン(ハーフ)に1986年の第6回から1993年の第13回まで8回参加し完走。その間にホノルルマラソンに3回参加し完走しました。マラソンではバスケットボールとは異なる選手との交流も持てました。車椅子テニスは、以前は希望すれば上級者でなくても海外の大会に参加でき、韓国・台湾・タイ・オースラリア・ニュージーランドなどの大会に出場しました。
また、岡山県身体障害者福祉連合会会員としても活動し、いろいろな人々と交流し情報や知識を得ることができました。2000年に倉敷市バリアフリー市民会議が設置されると委員として参加し、歩道等まちのバリア解消に向けた提案や協力など、現在も委員として活動しています。倉敷市の障害者とボランティアの海外研修に参加しデンマークの福祉を視察し日本の福祉との違い(生活の保障、常時24時間介護が必要な人でも一人暮らしができる制度がありました。また、障害者の就労については、能力がある者は就労し行政として就労の支援はありません)も感じました。
年齢とともにできるスポーツは動から静に変わり、体力や筋力の現状維持に陰りが出てきました。70歳を越えて高齢障害者には少々厳しい社会に見える今日このごろです。でも今までの私の経験から言えることは、できないことを並べ自分を制するのではなく、ほしいもの・やりたいことは自ら行動することで手にすることができる。発想の転換と見方を変え工夫することで得ることができるということです。