問い続けてきた障害者の労働問題

「新ノーマライゼーション」2023年11月号

一般社団法人ゼンコロ 会長
中村敏彦(なかむらとしひこ)

1. コロニー建設運動(ゼンコロ)のはじまり

1930~40年代の第二次世界大戦直後まで、わが国では結核が国民病、不治の病といわれ猛威を振るっていました。仮に回復し退院できたとしても、社会の偏見の壁は厚く、他の国民と同じような社会生活を送れる者はごくわずかでありました。そのような時代背景の中、1949(昭和24)年、4人の結核回復者が自ら働く場として熊本で「コロニープリント社」を設立しました。コロニーの原点は、1915(大正4)年、傷痍軍人の結核患者が医師・看護婦とともに建設した英国のパップワース移住村です。この動きは、結核回復者が、条件が整えば労働し、自立できることを社会に示したものであり、「リハビリテーション」即ち人権回復の宣言でありました。

コロニー建設運動は全国で40数か所にも及び展開されましたが、当時は公費補助の対象になっておらず、社会の無関心や無理解などで次々と挫折していきました。

1961(昭和36)年、全国コロニー月報の創刊号に、初代会長で医師の野村実の「語りかけ」が掲載されました。「この会は体当たりの会です。そこに苦しみも、困難も、失敗もあるでしょう。しかし、道をひらく名誉と責任と勇気と力とは、この人たちのものです。どうか、理解と協力が実を結びますように。どうか、賢明と正義を手段として、本当の成功を勝ち取られますように。」この静かながら強い信念と抑制した情熱の言葉が、全国コロニー協会(後のゼンコロ)にインパクトを与え、精神的基盤をつくり上げました。

2. ゼンコロ活動の軌跡

1)内部障害者の身体障害者福祉法適用運動

活動当初の身体障害者福祉法の対象は、外側から障害の見えるものに限られており、内部障害者は法の適用外に置かれていました。ゼンコロは、結核専門医、識者、結核療養所のケースワーカーなどの意見を参考に、1962(昭和37)年4月「結核による身体障害者に対する身障福祉法の措置適用に関する要望書」を厚生大臣および中央身体障害者福祉審議会長宛に提出します。国の厳しい対応を強いられましたが、提出から5年後の1967(昭和42)年、身体障害者福祉法の改正により心臓および呼吸機能障害者が適用対象となりました。

2)施設から地域へ

1963(昭和38)年3月にゼンコロは社団法人に認可されました。その頃から、当初目指したコロニーには一般社会から隔離された特別な人の集落という側面があることから、世界的にも否定的な考え方とされ、地域社会の中で一般の人と同様の生活を営む方向に方針転換していきます。当時、コロニー運動の原点である英国では、レンプロイ公社という英国内に90の会社を持つ、重度障害者のためのシェルタードワークショップが日本でも紹介され、そのような庇護工場構想をめざすことを具体化しました。

3)民間コロニーの精神

1966(昭和41)年、政府が群馬県高崎市に50~60億円をかけて1,500人規模の重症心身障害者を収容する国立コロニーの建設計画が具体化した頃、会報の巻頭言に“民間コロニーの育成をはかり、身障者工場(保護工場)の制度を新設せよ”というタイトルで次のような記事を掲載しました。(一部抜粋)

「一か所に大きいものを作ることも結構だが、身障者こそ生まれた所で生きられるように配慮すべきで、そのため各地方の民間の熱意と努力に注目し、これを育成することに政府はもっと力を入れるべきである。施設に入れること自体、障害者にとっては幸福なことではない、という大事なことを忘れないで対処したい。」また、続けて「身障者福祉工場(保護工場でもよい)というような制度の新設を提唱する。障害者はまず医学的リハビリテーションによってできるだけの機能回復・開発がなされ、その後、労働能力のある者には施設ではなく工場に入れるべきである。一般雇用されにくい障害者を現在のように『収容』『授産』『施設』でなく工場でその労働能力を最大限に発揮し、足りない分を政府が補填する方法(生活保護ではなく最低賃金の保障)を根底とした、特殊な非営利会社を設立し政府がこれに多角的な援助、育成をはかる。そのような制度の新設は身障者のためにも社会のためにも益するところが大きいことは国際的にも証明されている。障害者を現在のように姑息で中途半端な施設に収容し、ぬるま湯の中につけておくようでは本人のためにも益するところあるまい。」

4)福祉工場制度の実現、保護雇用制度の未達

1969(昭和44)年、身体障害者福祉工場についてゼンコロ案を発表しました。行政レベルで初めて保護雇用制度について検討されたのは昭和41年、身体障害者福祉審議会です。4年後の同審議会では「福祉工場とは従来の授産施設では果たせなかった身体障害者を、独立した社会人、労働者として真に生きがいのある社会生活を営ませるため」のものであり、「労働能力はあるが、身体障害の状況、通勤事情等により一般企業に雇用されることが困難な身体障害者に労働の機会を与え、生産活動に従事させ、自らの労働で得た収入によって生活を維持向上させることができる」ものとされました。福祉工場が制度化されたのはさらに翌年、昭和47年、主として車いす利用者を想定した身体障害者福祉工場です。その後、知的障害者、精神障害者を対象とした福祉工場も制度化を成し得ました。しかし、決定的に欠けているものがありました。それこそがまさに保護雇用制度です。福祉工場を、従前の措置費制度によらず労働三法の適用を受けることを理由に、日本の保護雇用とみなす向きもありますが、法律的位置づけが曖昧なことや、最低賃金適用除外がなされることから、わが国に保護雇用制度があるとは言えません。

3. 日本の障害者の就労状況の現実と課題

ゼンコロは、活動開始以来、障害者の労働問題について機会あるごとにメッセージを送り続けました。ひとつを紹介します。

「作業能力の劣るとされている障害者の雇用と就労の問題というとき、劣るとされるとするのは、潜在能力や適職の発見、能力の開発・訓練などを適切に行ってないと考えるためである。あらゆる職業は人間の持つすべての能力を要求されるものではない。科学技術の進歩に伴う産業技術の発展が相対的に作業性を単純化、単能化させ、機械や道具などの改良が万全でないこと等のため、障害と作業能力は単純に結びつけられない。障害者の職業問題を考える際の基本認識は、障害者の作業能力について、いつも可能性を秘めた存在として職業問題を扱うこと、適性の発見、能力開発、環境などの条件等と関連した相対的な能力状況として理解することである。」

これは1979(昭和54)年8月「月刊福祉」掲載文の一部です。44年経過した今でも障害者の職業上の課題は障害を理由とする傾向が依然高く、現在の国際社会共通の理想であるインクルーシブな職場の実現には解決すべき課題が多く残っているといえます。

4. まとめに

ゼンコロが目指した保護雇用制度は、残念ながら日本では実現していません。しかし、現在の制度の基本的な考え方には、当事者たちの運動が随所に生きていると思います。国連障害者権利条約で示す「あらゆる形態の雇用に係るすべての事項に関して、障害を理由とする差別を禁止すること」これが本当の意味で実現するまで、運動は受け継がれなければなりません。わが国の障害者の労働問題と課題、その内容を改善するための改革の要は、障害者の労働権の保障と、他の国民と同レベルの生活の実現であります。

ゼンコロは、「人は自らが生きていく手段のひとつとして、労働する権利を有し、それは障害の有無ではなく、すべての人に与えられた権利である。障害があることで、それが妨げられるのであれば、あらゆる手段を使って解決していくべきである。基本的に人は平等である。」という、ゆるぎない信念を持ち続けています。

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