我が子が道しるべ

「新ノーマライゼーション」2023年11月号

全国肢体不自由児者父母の会連合会 副会長
滋賀県障害児者と父母の会連合会 代表
植松潤治(うえまつじゅんじ)

1959年(昭和34年)デンマークの「知的障害者福祉法」でノーマライゼーションという理念が提唱されました。私がこのような理念を知るきっかけとなったのは、長男を新生児仮死後遺症として育む生活の中からです。そこで、長男の成長とともに私たち家族が、社会がどのような変遷をたどってきたかを振り返ってみたいと思います。

長男を通して、父母の会活動に参加することとなりましたが、滋賀県肢体不自由児父母の会連合会(現在の滋賀県障害児者と父母の会連合会)は1957年(昭和32年)設立なので、デンマークの法律より以前に活動を開始していました。歴史的には、県下に養護施設として明治37年設立の湘南学園があり、精神薄弱児施設としては昭和19年に石山学園がありました。昭和21年11月糸賀一雄氏によって近江学園が開設されました。開設当時は、戦災孤児である養護児と精神薄弱児を対象としていましたが、昭和27年7月に身体障害者更生指導所との併設で、県立信楽寮(現、信楽学園)が開設され、あざみ寮、落穂寮が父兄の協力の下次々と開設されました。

昭和22年12月児童福祉法が、昭和24年12月に身体障害者福祉法が公布され、この頃から障害のある子どもたちを育てる親の会活動が全国的に組織されるようになりました。昭和31年2月滋賀県肢体不自由児協会が設立され、その当時の設立趣意書には「治らぬものと諦め放置しておく例がしばしばありまして社会の負担となることは只本人の不幸たるに止まらず私共県民全体の不幸であり不名誉であります。これ等手足の不自由な子供達の福祉の増進と治療育成する療育思想の普及徹底を図り以て次代を背負う社会人として身心共に健やかなる育成に全力をあげて邁進いたしたいと存じます。」と記されています。この趣意書に従い、療育指導で早期発見・早期治療に導き、身体障害者手帳の交付、補装具の交付を受け、一日も早く更生の準備を進めること、また、そのための医療を公費負担する育成医療の充実が求められてきました。昭和32年8月滋賀整肢園(肢体不自由児施設)が設立されました。同年滋賀県肢体不自由児父母の会も結成されました。昭和36年全国肢体不自由児父母の会結成。昭和38年重症身心障害児施設「第一びわこ学園」開設。昭和40年代父母の会活動として、肢体不自由児キャンプ、夏休みSLの旅などが催され、昭和54年養護学校の義務化により、子どもたちの就学の場が保障されました。昭和47年第7回近畿肢体不自由児福祉大会における大津会員(障害本人)の発表内容の一部をご紹介することにします。

「-養護学校における教育が一般の学校と比べて劣ってはいけません。また、何故苦労してまでも大学に行きたいかといえば、身体的な障害をせめて学力で補おうと思うからです。したがって、大学も障害児の受け入れを拒否せず、さらに、階段等の不便をなくすようにしてほしい。……しかし一人でも外出できるように、努力して訓練をしなければなりません。早期治療は重要で、家庭で甘やかされたせいで、訓練を嫌がり結局歩けなかった人もいます。ご両親にお願いします。甘やかすばかりでなく、自分でできることは子供自身でやらせてください。そのように親も障害児も努力し、そしてその努力が実を結べるように政府や自治団体が一層強く福祉の向上と充実に力を注いでください」

当時は社会参加できない原因を自身の障害と強く認識し、当時の社会の未熟性が伺われます。親は子どもを甘やかすな、本人の努力も必要、そしてそれを支援する社会の形成を求める姿は現在にも残された重要な視点であるといえます。

長男は昭和62年新生児仮死で生まれ現在36歳です。私たち家族もいろいろなことに遭遇し、その都度喜び、怒り、哀しみ、楽しんできました。今では我が子の成長を願うばかりでなく、同じような境遇の子どもたちの手助けに少しでもなればと思えるようにもなりました。このように思えるようになったのも、長男を通して学ぶことが多かったことからでしょう。出生時私は医学生でどのような専門に進むべきか悩んでいましたが、小児神経学を学び、子どもに返せるようになることが責務と思うようになりました。妻は長男のリハビリテーション通院の傍ら、大津市障害児父母の会や養護学校PTA活動に参加し、教育・福祉の向上に取り組んできました。大津市では、障害のある子どもも療育教室と並行して一般保育園に通ういわゆる「大津方式」という制度が昭和49年から運用されていましたので、長男も地域の保育園に通うことができました。その保育園では、運動会の競技も長男に合わせた内容にして、健常児と同じ場で競技することができました。周りの健常児も長男を普通のお友達として遊んでくれていました。小学校では、県立養護学校に通いましたが、小学部・中学部ともに、地域の学校に年間数回は地域校交流として共同授業を受けることができました。長男の働き以降、地域の学校に授業を受けに行くことが可能となりました(長男が第一号)。小学校6年の時、妹・弟と同じ運動会に参加できました。競技も長男の障害に合わせた内容で行っていただきました。この地域校交流は現在も引き継がれています。夏休みでは、大学生のボランティアを募り親が主催のサマースクールを開催し、子どもの居場所を広げてきました。

医療・福祉・教育の不十分さに直面することもありましたが、決して長男が単に社会の庇護者ではなく、場合によっては道しるべになりうることも感じることができました。今では、荒廃が叫ばれる子どもの心の教育には、この子らが無くてはならない存在であると確信しています(ボランティアで参加していただいた学生がその後介護職に就かれた方もいます)。聖書の中にも障害を持つ者たちは人の人たる所以を知らしめる存在、神の御導であると記されています。

今では親の責務は、この子らを世にしるすことであろうと思うようになりました。滋賀県では糸賀一雄氏らが唱えた、「この子らを世の光に」という言葉があります。障害のある子どもこそが、世の中に明かりをともす存在であるということです。私たち家族にとってはまさしく「我が子が道しるべ」となりました。この子らが世の中に当たり前にいて、当たり前に暮らし、健常と思われる人々と同じ空気を吸っている。この社会こそがノーマライゼーションに他ならないのです。しかし、まだまだです。この子らが社会・地域の中にもっと参加できる土壌を整備していかなければなりません。ノーマライゼーションこそがこの子ら自身を、また健常の子どもたちを同時に幸福にしてゆく手立てであると確信しています。1959年に世界に発信されたノーマライゼーションもまだ道半ばです。父母の会会員の活動もまだまだ必要です。

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