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7 本に登場する障害児

7 本に登場する障害児 挿絵

障害をもつ子どもにとって、子どもの本の中で自分のような登場人物に出会い、自分と同じような子どもの姿が描かれた絵を見て、その子の生活、問題、感情、環境など、その子について書かれていることを読むのは、とても大切なことです。他の子どもにとっても、本を通して、障害をもつ子どもと知りあいになるのは意味のあることです。先に書いたように、多くの国々で不幸な隔離(かくり)政策(せいさく)が何十年にもわたってとられ、大勢の障害をもつ子どもたちが、私たちの身近な場所から追いだされていました。それだけに、私たちが本の中で障害をもつ子どもに出会うのは、この子どもたちの社会参加を受け入れる土壌(どじょう)を用意するという意味で、ますます必要になってきています。

〝私″という自我は、〝あなた″という他者との相互作用を通じて、発達します。まわりの人が自分に対してどう反応するか、それを見きわめ、経験を重ねていくことによって、発達が可能になるのです。ところが、障害をもつ子どもたちは、このような発達を促す豊かな人間関係にも恵まれないことがあります。知恵おくれや手足の不自由な子どもをはじめ、さまざまな障害をもつ子どもたちは、ほとんどといっていいほど、自分と同じような子どもたちがテレビや映画に登場するのを見たことがありません。番組が障害者の特集でも組めば別ですが。マス・メディアに登場する障害児は、他の子どもたちのようにごく自然に自分の環境にとけこんでいることは、ほとんどありません。もし、自分と同じような人について本で読んだり、テレビやラジオで出会ったりしなければ、自分は好ましい存在ではなく、どこにも属しておらず、価値がないように思っても仕方ないのではないでしょうか。

最近になって、障害をもつ子どもが登場する本が、わずかですが世にでてきました。残念ながら、そのうちの多くが、よい本とはいえません。こういう本は、障害をもつ子どもの扱い方が間違っているために、私たちの中にある、自分とは違う存在を拒否しょうとする傾向*31をひきだし、その結果、社会参加をかえって難しくしてしまいます。本というものは良(よ)かれ()しかれ私たちに影響を与えます。読み手が子どもなら、本の影響力は特に大きくなりますから、間違った扱いをしている本へは厳しい批判の目を向けることが大切です。多くの本が、善意の気持ちで書かれ、著者はたしかに障害をもつ子どもを理解してもらおうと真剣に試みているのですが、それでもなお、結果は失望させるものでしかありません。この種の本は、次のような点を考慮しながら、良し悪Lを見わける必要があります-この本は、文学的に高い価値があり、障害をもつ読者が自分と登場人物を同一視できるようなよい情報と可能性を与えてくれるだろうか。また、障害をもつ子どもとその子の立場について、理解を深めてくれるだろうか。あるいは逆に、私たちの内にある、障害をもつ人を拒否しようとする傾向を引き出し、強化してしまうのだろうか。

善意の気持ちからつくられる本の中にも、障害をもつ子どもに対する拒否がかくされていることがあります。

たとえば、障害のない子どもが障害をもつ子どもに出会い、自分自身が健常であることに心から感謝する、というような物語があります。その根底にあるのは、障害のないことは(すこ)やかで美しく魅力的であり、一方、障害は何らかの意味で私たちが犯(おか)した(ばつ)への罰なのだという態度です。

昔の本の中では、貧しい子どもに(ほどこ)しをする金持ちの子どもによく出会いました。今日の西欧文化の中の子どもの本には、貧しい子どもたちにかわって、障害をもつ子どもが登場します。そこに含まれる教訓は、こういうことです

―「障害をもつ子どもには親切にしましょう」

知恵おくれの子どものために募金をする子どもたちを描いた本も、たくさんあります。そういう本に登場する知恵おくれの子どもは、永久に子どものままで、しあわせで、人を信じ、感謝する必要さえないことに心から感謝します。ここには個性というものが入る余地はありません。精神面に障害をもつ子どもも、そうでない子どもとまったく同様、個性をもち、ひとりひとりが違っている、という事実にもかかわらず。

障害児を(あつか)った子どもの本の中には、「補償(ほしょう)の原理(欠けた部分を補おうとする心の動き)」をあまりに強調しすぎて、表にでない障害者拒否を構成している例も、しばしば見かけます。

目の不自由な子は、ほとんど「目が不自由なおかげで」といいたくなるほど自動的に、信じられないほど親切で善良で、音楽に対するすばらしい耳をもっているように描かれています。あるいは車椅子の少年は、歩くことができないかわりに、おどろくほど勇敢です。また、子どもの本にでてくる目の不自由な登場人物は、ほとんどが少女という設定です。少女なら、気だてがよく愛らしくやさしく、ピアノをひくというのがぴったりだというわけです。一方、車椅子の登場人物はたいてい少年であり、とてつもなく勇敢(ゆうかん)でかしこく、みんなの最高の仲間で、フットボールや野球のすぐれた審判(しんぱん)です。障害が、道理にかなった範囲をはるかに越えて補償されています。

この(たぐい)の本でも、いくらかは、障害児について情報を提供している、という人もいるかもしれません。しかし、概して間違った〝障害児像″をうえつける結果になっています。障害が、自動的に誰でもを並はずれた人間にするわけではありません。たしかに、こういう本のほとんどは善意の気持ちからつくられてはいますが、善意があればそれで十分だというものではありません。

これと対極(たいきょく)をなすあきらかな障害者拒否の態度で書かれたものが、大量生産される安手な少年むけ犯罪小説などに、いくらでも見られます。こういう本では、悪者(わるもの)が非常にしばしば身体障害者ということになっています。この種の読みものは、障害者に対する差別の温床(おんしょう)になっているのです。

作家は、結局のところ、自分自身の人生で経験したこと、自分の環境、自分のファンタジー*32、自分の夢を書かないわけにはいきません。障害をもつ人について何かを知っていなければ、障害をもつ人を扱った本は書けません。

知恵おくれの子どもについては、誤解(ごかい)をまねく本がたくさんあります。典型的(てんけいてき)な例をあげると、たとえば、多くの作家が知恵おくれの子どもについて語るとき、「病気」ということばを使います。知恵おくれの子どもたちが、ハシカにかかった、カゼをひいた、あるいは何か他に疾病(しっぺい)があるのだというなら別ですが、そうでないかぎり、障害のない子どもたちと同じように、病気などではありません。この子どもたちは病気ではなく、精神の発達がおくれているのです。

別の例もあります。自閉症の子どもにきょうだいが親切にすると、その子が突然正常になるとか、吃音(きつおん)の女の子がペットを飼いだしたらなおったとか、口のきけなかった少年が、友だちができたとたん話しはじめたとかいう話を書く作家がいます。このようなことは、起こらないとはいえませんが、めったに起こりはしません。障害をもつ子どもは、成長すれば健常になるわけではありません。障害をもったまま大人になるのです。

また、青少年向きのほとんどの本は、障害をもつ若者には性生活がなく、性衝動(せいしょうどう)もないし、セックスを夢見ることさえしないという前提で書かれています。障害をもつ若者は中性として描かれるわけで、これはもちろん、真実ではありません。

二、三十年前には、知恵おくれの子どもの親は、しばしば、子どもが幼少の頃から施設に入れるようにすすめられました。今日でも多くの本の中で、作家はこの解決策を好み、1、2歳の幼児まで施設に入れることにしています。現在では、信頼できる人はこんなことをすすめません。このことを見ても、作家たちは、自分が書いていることについてあまりにも無知であることがわかります。

また、作家たちがよくおちいる落とし穴は、障害に注目するあまり、障害をもつ子どもをまったく特別扱いしてしまうことです。障害をもつ子どもは、何よりもまずひとりの子どもなのです。

このような落とし穴は数かぎりなくあります。だからこそ、ほんとうに良い本だけが、ことばの壁を越えて世界に広がることが大切なのです。内容を吟味(ぎんみ)しないで、障害児に関するあらゆる本を()せているような推せん図書リストは、有害無益(ゆうがいむえき)でさえあります。本によっては、今ある偏見(へんけん)を強めて、間違った情報をまき散らすおそれがあるからです。内容をよく検討し、悪い本、適切でない本には批判的な態度でのぞみ、排除する必要があります。

私たちが求めているのは、障害児が主要人物のひとりとして登場し、その人物の心理描写がすぐれている本や、障害をもつ子どもが他の子どものようにごく自然に環境に()じんでいるような本です。しあわせなことに、こういう本は存在します。洞察力(どうさつりょく)と詩的な才能を()ねそなえた作家がこういう本を書きます。それらのよい本に特徴的(とくちょうてき)なのは、作家が、自分は子どもと大人の双方のために書いていると言っていることです。こういう作家たちの中には、自分自身に障害があったり、我が子、友人、隣人に障害者がいたりして、「障害」を何らかのかたちで経験している人が少なくありません。

これらの障害をもつ子どもが登場する児童書のほとんどは、手足の不自由な子どもや目の見えない子どもや耳のきこえない子どもの話で、著者は、本の中の障害児を読者に同一視(どういつし)させたいとはっきり意図しています。でも残念ながら、知恵おくれの子どもの登場する本は多くはなく、しかもたいてい、知恵おくれの子どものきょうだいの目を通して描かれています。

最近、障害児を写した写真絵本を数多く見かけるようになりました。読者の子どもたちは、こういう記録(きろく)にも、創作物と同じようにひきつけられます。日常生活の中の障害児について知らせてくれるこのような本は、障害をもつ子ども自身にとってもすぐれた効果があります。自分と同じような子どもが、自分と同じような欲求不満(よっきゅうふまん)(フラストレーション)とたたかっている写真を見ながら、その子について書かれた物語を読むことができるからです。

障害をもつ子どもが登場する本の中には、その本の作家や画家が、実際に障害児の親であったりきょうだいであったりすることがあります。こういう作家や画家は、自分の個人的な経験や、わが子でありきょうだいである障害児への愛情を、作品の中に(そそ)ぎこんで、息子や娘、姉妹や兄弟に障害の子がいることが、家族にとってどんな意味があるかを読者に語りかけようとしますから、そういう作品は大変意味のあるものになります。

手作り布の絵本『1・2・3』(ふきのとう文庫) 数字もサンタクロースもとりはずして遊ぶことができる、知恵おくれなどの障害をもつ子にふさわしい絵本。

手作り布の絵本『1・2・3』(ふきのとう文庫) 数字もサンタクロースもとりはずして遊ぶことができる、知恵おくれなどの障害をもつ子にふさわしい絵本。

障害をもたない子どもが、障害をもつ子どもについて知るためには、このほかにも、前にあげたような本、たとえば、目の不自由な子どものための手でさわる絵本や耳の聞こえない子どものための手話の本なども役に立ちます。このような本を使うと、指先で絵を感じたり、耳から聞かないで身ぶりでことばがわかるとはどんなことかについて、いくらか察しがつくでしょう。

障害をもつ子どもが登場する本は、同じような子どもに同一視の機会を与えてくれます。と同時に、障害をもたない子どもに、障害をもっとはどういうことなのかを教えてくれる貴重(きちょう)情報源(じょうほうげん)でもあります。

手話の入った絵本『あいうえお絵じてん』(偕成社)

手話の入った絵本『あいうえお絵じてん』(偕成社)

私たちは、他の人の経験を読んで安心するということが少なくありません。他人の経験を知ることによって、自分自身の立場を、より広い視野の中でながめられるようになることもあります。たとえ生活の条件や状況がまったく違っても、自分と同じ経験をしている人がいるとわかれば、読む人の心はやすらざます。物語を読むことによって読み手の目が開かれ、新しい見通しがもてたり何かに気づいたり、現状を受け入れられるようになることも少なくありません。