ディスレクシアとマルチメディアDAISY -当事者そして教育者の立場から
神山忠
岐阜県立関特別支援学校教諭
皆さん、こんにちは。岐阜から来ました、今は特別支援学校に勤めている神山といいます。 今、教員としても勤務していますが、私自身、ディスレクシアで、文字を読むのに困難を抱えています。 だからこうした講演なども原稿はなしで来ています。 そのかわりに必要になるのがPowerPointです。このスライドのときは、この話というふうに、話は普通にできますが、書かれた原稿を読むのは難しい状態です。
私はどんなふうに文字が見えるかというと、白いキャンバスに黒ごまや黒大豆がばらまかれたように見えるんです。
これをパッとみて読める人?
今手を挙げられた人は、安心でいられると思うのですが、読めない人は「え?なんでこれ読めるの?」と思ったら、ドキドキですよね。 こういう気持ちで子どもたちは学校では授業を1時間、座って受け続けているんです。 だからあの子はすぐキレるとか言われがちですが、それに値するぐらいの緊張感で、わからないまま、ドキドキしたままで授業を受けているのですよね。 学校で具体的に「分からない」という子に支援があるかというと、そうじゃなくて、「早く読んで、これぐらい読めるでしょ。」って言われより焦らされることのほうが多かったです。 でも見え方に合わせて、上下を隠して、ここに注目するといいよ、
そうするとこれは「L」で、「I」でというふうに見え「LIFE」と読めてくるのですが、なかなかそういう支援は得られない教育現場ではないでしょうか。
では次はどうでしょう。
読めた方多いですね。そうです。「ココロ」です。
上下を隠すと「なんだー」となりますが、これは長方形でこれは正方形ってなると、もうわかりませんね。 その子の見え方にあわせた支援、こうすればいいんじゃないかというのが得られれば、一緒になって勉強ができたりするので、うれしく思えると思います。
では、これは大丈夫ですか?
せーので。「ヨロコビ」
はい、ありがとうございます。
こういうふうに、みんなと一緒にできる「よろこび」というのは、普段勉強ができる子以上に、感じられるのではないかと思います。
こういう図も見るのが苦手で。
「これをよく見て」って言われてもわからないです。
背景を切り取って
線を入れると、見えてきます。
また、色をつけるとより見やすくなります。
しかし、この状態のままだと「見て。読み取って」と言われても、かなり難しいです。
つまり、素材と素地の見分けが難しいのかと思います。 実際に文章を見ても、図のように見える。
水墨画なのかな?
いや違う、文字だ、文字だ。黒いところに目をむけてじっくり目を凝らそう…と思うとなんとか見えるのですが、ぐちゃぐちゃすぎて読めません。
上下、左右も隠すと、注目すべきところがなんとか見えてきて、拾い読みが可能になるという感じです。
でも拾い読みができたからと言って、午前中の藤堂さんの話にもありましたが、音読みは、意味理解にはつながりません。 これを見たとき、何だ、これはDNAの配列か?とは思わず、「あ、人の頭だ」とすぐに思います。
私の目は文字として認識するのは苦手ですが、図として認識するのは得意なのかなと思っています。 これは、数学記号が並んでいるというよりも、あれ、魚が3匹だと思うわけです。
時計の学習でもつまずきました。 これを見て、何時何分かわかった人は?
ありがとうございます。 ここで手があがると、この先の話がしづらくなるので、挙がらなくてよかったのですが。 逆にこれだと、5時かなと思いますが、
針と文字板が一緒に出された図形でも、
私の目にはこちらが入ってきます。
上下左右に、八角形が並んで、その間に小さい八角形が並んでるな。この図形はステキだなと思うと、針が目に入ってきません。 なおかつ、文字盤と針との位置関係を読み取って、何時何分か言い当てるのはすごくハードルが高いことでした。
みんなが算数セットで互いに問題を出してすごく楽しそうに算数の勉強をしているときに、「なんでこんなのがわからないんだろう」、「俺ってバカなんだ」って思ってつらかったことがあります。 針に色をつけたり、まずは短い針だけ見えるように厚紙で隠したりして、次はぐるっとまわして長い針だけ見えるようにして、秘密兵器を…と、気づくまでにすごく時間がかかり、劣等感が蓄積されました。
でも、これにたどり着いたときから、やっと何とか読めるようになりました。 なかなか教育現場で、こういうのを使ってみたらというような支援は得られないままできています。 ですから、適切な支援がもらえる教育現場でありたいと思って、勤務しております。
あと、文字でも書体によって読みやすさ・読みにくさがあります。 明朝体ですが、これはどう見ても、南北の通りのほうが広いですね。東西は細いですね。だから左から来たら一時停止しないといけないかなとか、地図のように見えてしまったり。端っこの方に三角形があるけど、大きく分けてこの3つに分けられるな。この3つだったらこれが一番きれいだなとか思ってしまって。字としての認識ではなく、パーツパーツとして見てしまうので明朝体は見づらいです。
だから丸ゴシックや普通のゴシック体のほうが文字として認識しやすいです。
これは人によって違うようで、明朝体がいい、教科書体がいいという友達もディスレクシアにはいますので、やはり一人一人の見え方は違うと思っています。
小学校2年生のときのことです。
2時間目と3時間目の間に長めの休み時間があり、その時、教室の黒板に、先生が縦書きで、「きょうはてんきがいいのでそとでたいいくをします」とひらがなで書きました。 私はなんとか拾い読みをしたのですが、意味がわからずに、3時間目に外に出られませんでした。3時間目が始まって、しばらくして先生が探しに来られてしかられました。 こういう話をすると、拾い読みをすれば、自分のいったことを耳で聞いて分かるのではないのかと、言われるのですが、それができないんです。 目で追わなくてもいいくらい暗記できるとやっと頭で考えられるようになります。 音声化するだけでいっぱいいっぱいだったのが、暗記して初めて頭で考えられるようになります。
では、どのような支援があるといいかというと、下のように、分かち書きにすると、意味のまとまりが取りやすいです。 こうすると、まだ時間が短く、理解できるかなと思います。 実際に教科書を分かち書きにはできませんでした。
どうしたかと言うと、斜線を入れていました。 初めは囲ったり、アンダーラインを引いたりなどしていましたが、赤ペンで斜線をいれるのが私にとっては一番読みやすかったです。
教科書は、実際にこのように区切って読んでいました。 上の区切り方と下では少し違うのが分かるでしょうか。 下は、「てにをは」も一緒に区切っていますが、この区切り方で読めるようになって、ちょっと理解が早くなりました。 下が読める用になったのは、中学校に入ってからです。
中学校に入ると、英語が始まって、「I, my, me, mine」とか覚えますね。 今までは「わたし」と「は」は別々なイメージだったんですけれど、「I」一文字で「私は」なんだから、「わたしは」のまとまりで意味(イメージ)を作ってしまえばいいんだと分かって下の区切り方ができるようになりました。
これは小学校の3年生の時ですが、音楽班にいました。音楽の授業の準備をする担当だったんですけれど、先生が、休み時間に、こういうメモをくれました。 私は前から順番に意味のまとまりを見つけようと頑張ったのですが、どういう風に読んだかというと、「たい」「ことば」「ち」…と分けてしまって、今日の給食は「鯛」?「ことば」は図書室かな、「ち」は理科室かな、保健室かなぁ・・・こっちから行った方が早いかな・・・などと思っていたら、音楽の始まる時間になってしまった。「ほんとになにやらしても使えんこだねぇ」としかられました。
意味の正しいところで、分かち書きすることも苦手でした。 小学校3年生、4年生の頃の自分は、「と」と「の」の意味が分からないのですね。 どうしていたかというと、教室のみんなの雰囲気から察していました。言葉や文字で分からないところは、雰囲気で察して、動かないと恥ずかしい思いをするということで、自分のもてるアンテナを張って、補おうとしていました。 教室を見渡して、今、太鼓の数は足りてるなぁ、じゃあ、太鼓のバチを持ってこよう、今、両方足りへんなぁ、じゃあ両方とも持っていこう・・・とか。 言葉や文字から分からないときには、雰囲気から察していました。 休み時間が終わって授業が始まると、教室に入らなければいけない、そう思うと、分からないことだらけなので、凄い緊張度を増して、教室に入ることになります。 分からない部分を雰囲気から察しなければと思って、すごい緊張度で時間を過ごします。 廊下から教室に入るのに、物理的に敷居が高い感じがして、「よし!」と気合いを入れないと、教室に入れないという日々でした。
イメージという言葉を先ほどから使っていますが、私は見たり聞いたりしたことをすっと頭で理解するのではなく、一回図形に置き換えます。 太鼓とバチと言われたら、左のイメージを頭に浮かべます。 太鼓のバチと言われたら、太鼓からやじるし的なものでバチを示している。このイメージを頭に浮かべます。 ほかの方は、聞いてすぐ分かるでしょうが、私は図に置き換えます。 文章よりは、図のほうがすっと分かるというのはそういう理解の仕方をしているからだと思います。
苦手なのは、縦書きです。どうしても読めません。教科書、国語となると、縦書きばかりです。どうしても目で追えなくて、改行は、どこに飛んでいくか分かりません。 だから、小学校の高学年から中学校にかけて、何を思っていたかというと、朝、起きたら、目が縦に並んでいてくれないかなと思って寝ていました。 朝起きて、顔を洗うとき、そうはなっていないので、今日も学校で恥ずかしい思いをするんだなあと暗い思いでいました。 小学生、中学生と言っても、このように目が縦に並んで、街中を歩いたら、変な目で見られるということは想像できますが、学校で恥ずかしい思いをすることと比べれば、まだこうなっていても、一緒に勉強ができればいいとそこまで追い詰められていたと思います。
そこまで思わせる教育はどうなのかな、と思います。 拾い読みでも意味が分からないということは、感じていただきにくいと思います。 これを上から読んでみましょうか。T・h・i・s・i・s・a・p・e・n。
これは、今、縦書きのを上から読みましたが、意味がすっと分かった方? 日本語って、縦書きのぎゅうぎゅう詰めですね。 これが横書きでかつ、分かち書きなら、「あ、なーんだ」ということになりませんか? ですから、日本語表記はこういう落とし穴があると分かっていると、支援も増やせると思います。
自分の読みの理解を考えてみましたが、目で、文字として認識したものは、流暢さはありませんが、音声化することはできるのかなと。
でも、音とのマッチングをして音声化をしていますが、自分は図とのマッチングをしないと理解に至りません。
これでは音声化できず、なおかつ耳で聞いて理解するキャパはありません。口で音声化するのが限界です。 文字としてではなく、字面、こういう字の形はこのイメージだなということで、図とマッチングをすれば、理解は多少できるかなと思います。
音読では意味理解できないが、黙読というか、じっと見ていて、この字面はこのイメージだったと、頭の中で、そのイメージを引っ張り出してきて理解するということで文章を理解しています。 図とのマッチングだから、音とのマッチング作業をするわけではないので、音声化、音読はできないのだと思います。 小学校4年生のときに班ノートがはじまりました。班で1人ずつ持ち帰って書いて、翌日誰かに回します。新学期になって新しい班が決まり、先生は1冊ずつノートを配って、班ノートの説明が終わったとき、先生が、「そうそう、神山くんの班だけひらがなで書いてあげてね」と。その時私はどう思ったかというと、今度の先生は僕のことをよくわかってくれてうれしいなとはとうてい思えなかったです。教室から駆け出したい、それができなければ、机の下に潜り込みたかったです。 新学期になって今まで勉強できなかったけど、4年生になったから頑張るぞとか、友だちいっぱい作るぞと思っていたのに、それを踏みにじられるというか、谷底に落とされるような感覚にしかなれませんでした。実際に班の子は言いつけを守って、ひらがなばかりで書いてくれたんですが、全然意味は分からなかったです。
これ、どうですかね。
「あるみかんのうえにあるみかんをもっていって」 わかりますか?
「アルミ缶の上にある蜜柑を持っていって」
なのか「アルミ缶の上にアルミ缶を持っていって」
なのか、ひらがなばかりだと分かりません。
私は字面なら意味がイメージとマッチングできますので、カタカナ・漢字・ひらがなが混在したほうが、音読はできなくても意味は何とかつかめます。 これは果物の蜜柑、こっちは缶だなってなるので、混在している方がありがたい支援だったのですが、「勉強できない子=ひらがなで」みたいのが支援の鉄則と考えられていて、それがより混乱の元でした。
つまり、「下駄(げた)」と読めなくても、こういう字面はこのイメージだったと頭の中で引っ張ってこられるんです。だから熟語として漢字で表記されたほうが分かりやすいということです。
皆さんも、画面のような2つを見たとき、どちらが歯医者さんをイメージしやすいか。上かなと思うんですね。町中を運転しながら看板を見たとき、すぐわかるのは左の漢字のほうですよね。 だから、「ひらがなだと、みんなが分かりやすくなる」という間違った支援が定着しているようだけど、実際はそうばかりではないということを、知ってもらえたらいいなと思います。
あと、小学校の教科書には落とし穴があります。 習った漢字と習ってない漢字が混在するんですよね。こちらの表記がそうです。
「どか」だと思ったら「どりょく」だったり、「えんあし」かと思ったら「えんそく」だし。さっきは「遠足=えんそく」だったのに、「かけ足」だと「あし」で。 切れ目なのか、意味のまとまりか、全然読み取れず苦労しました。
私としては最初から熟語で表記されて、色を変えてふりがながあるとわかりやすいタイプです。つまり、色が一緒だと、最初に、素材と素地の見分けが苦手といいましたが、「害」は文字としてどこまでがまとまりなのか、わかりません。 たけかんむりの新種かなとルビを見て思ったりするので、色が違うと、ここがルビ、ここが文字だとわかるのです。
また、赤いフィルターを昔から持っていて、赤で書いた振り仮名にかぶせるとそれが見えなくなり本当に読めるのかどうかもチェックできます。 色を変えてルビをうつというのは、そのためにも有効な手でした。
未だによく間違えるのが、字面としてとらえるので、「田中さん・中田さん」とか、「うこん」と「うんこ」とか。 今日も山手線で来たら、「うこんの力」と書いてあったのですが、「うんこの力??」と思ったり・・・。
字面でとらえるので、字の形としてよく似ているのは、いまだによく間違えます。 これはテレビのテロップを見て家族に笑われました。
予想がつくと思いますが、僕はこんなふう(一日西ドイツ、一日東ドイツ)に読んでしまって、「お父さん、大丈夫?」と言われたのですが。 字からわからない部分はほかの部分で補っています。 これが出る少し前に、古館一郎の「ワールドカップ応援弾丸ツアー」とかいうのがナレーションで流れていたので、弾丸ツアーというのは、一泊もせずに帰ってくるものなので、「1日西ドイツ」「1日東ドイツ」と思ったり。
娘には、「お父さん、大丈夫? 病院行ったら?」とか言われたんですが。 「コンソメ、ついに結婚」と言ったら、「ユンソナ」だったり。 字面だけは似てますよね。
職員会の資料はどうしているか。
厚紙をいろいろな幅で切ったものを準備して、指で上下隠したり、注目すべきところをわかりやすくして理解しています。
今は、職場でも自分の特性を伝えており、いろんな提案文書は職員室のサーバにあげてもらい、そこから読み上げソフトで読んで理解しています。
今はパソコンでだいぶハードルは低くなりましたが、未だに小学校時代のつらかったことを鮮明に覚えています。 1時間、読み物を読んで、次の時間に感想文を書くというのが小学校2年のときにありました。 40分近くかけて、私は一生懸命読んだのですが、でも4行目の上から3分の1ぐらいのところを一生懸命指でおさえていました。 先生が授業の終わり頃、近づいてきて、「神山君、まだ、こんなところ?」と。 その言葉を聞いた友だちは一斉に僕のほうを見て、「まだ神山くん、こんなところだ!お前バカやな」と言われてしまった。 自分なりに一生懸命、意味のまとまりを見つけて読み進めていたのに、1時間頑張ったのにという思いがあって、やりきれない気持ちになってしまって。 絶対、この指を離したらどこまで読んだか分からなくなってしまうので、離さないと思ったのですが、離してしまい、机の下でぐーっと握っていました。目でにらむように一生懸命読んだのですが、だんだんプールの底に書かれた文字のように揺れだして、最後には大粒の涙が出てしまいました。 その瞬間、「もう絶対に本なんか読まへん! 文字なんかきらいだ!」と決め、努力することすらしなくなってしまいました。たったこれだけのことですが、つらかったです。
小学校時代によく言われたのは、「目をみて話を聞きなさい」と言われました。イメージを頭に浮かべて理解する私にとって、視覚的な情報が目から入ってきて、違うものを頭でイメージするのはハードルが高いことで。 なおかつ、「目を見て話を聞きなさい」という先生の目はどんな目かというと、ほがらかな目をしてるのか、怖い目をしてるのかというと、怖い目をしていることがほとんどです。 そんな怖い目をみながら言われたことを頭でイメージして、組み立てて理解するなんて、とうていできはしなくて。 やっとしかられ終わったと思って何かをしようとすると、「今言ったばかりなのに、おまえは何を聞いとったんや」とまたしかられる。 そういう悪循環のスパイラルに入ってしまいました。自分はこうしたほうがわかりやすいと思って目をそらすのですが、かえってそれでおこられ、何も理解できない状況に陥っていました。 廊下に立ってなさいとも言われていて、だんだん学年があがってくると、まわりの子も教えてくれなくなる。 初めは周囲をきょろきょろして、今はノートを取るんだとか、学年が低いとわかるのですが、あがってくるとわからなくなる。 周囲の子にトントンってやって教えてくれてたのが、学年が上がるとなかなか教えてもらえない。トントンがドンドンになってバンバンになって・・・。 周囲の子が教えてくれなくなると、教室を歩き回って、今何をやるときか、感じ取ってやってたのですが、それが授業妨害するやつだと言われ、「おまえは廊下に立ってろ」と出されることもありました。勉強が分かりたくてやっていたことを、先生や友達からは、授業妨害として扱われ、非常に辛かったです。色んな傷つく言葉も友達や先生からもらいました。そんな小学生時代でした。 忘れ物も多かったです。その最大の理由が持ってくるものが読めないのです。読んで書き写すことが難しい作業でした。そういうところでも、いつもしかられていました。 いまも思うのですが、「まだこんなところ?」ではなく、あのとき先生が、「神山くん、ここまでやったけど、主人公の気持ちを大事にしながら読めたね」と言ってくれれば、また違った人生だったかな、劣等感の固まりでない人生を歩めたかなと思います。
中学校でも、明日本読みがあると思うと、すごく努力するんですね。 まずは分かち書き作業。 中学校の国語の読み物は、教科書何ページにもおよびます。 それを赤ペンで、分かち書きするのに1時間半、それが終わってから読みの練習。併せて3時間かけて次の日を迎えるのだけど、流ちょうさも出てこない状態。授業で当てられて、みんなの前でつまりつまりで読むだけでも恥ずかしいのに、「終わった座れる」と思った瞬間、「ちょっと来い」と言われて、「こんなもんも読めないのか、10回読んでできないなら100回読んでこい、100回読んでできないなら1000回読んでこい」と言われました。 そのころ角刈りにしていたのですが、チョークで頭に×と書かれて1日消すなと言われたこともありました。きっと前日3時間、本読みにかけたクラスメイトはいないと思います。それなのに出来栄えだけで評価されて、非常に辛かったです。 何で授業時間を割いて、私を叱るのかな、そうでなく、前日に、「明日、本読みがあるから、ここがあたるように回すから、この3行だけ、練習してこいよ」と言ってくれれば、3時間かければ丸暗記できたかもしれないから、あんな恥ずかしい思いはしなくてすんだと思います。
あとは、苦手なことで、駅の縦書きの看板、寿司屋のお品書きなどの縦書きも苦手です。 でも、フローチャートに出会ったときなんて分かりやすいんだろうと思いました。 藤堂さんの言っていたマインドマッピングによく似ています。 主人公がいて、誰々さんが来てと・・・フローチャートにすると良く分かりやすいのですが、クラスの雰囲気を見ていると、これにつまずいている子が非常に多かったので、フローチャートが分かりやすいタイプの子もいれば、文字の方が分かりやすい子もいるのかなと。
フローチャートが得意なタイプの私は、プログラミング言語もすごく分かりやすく、それで教材を作ったりしています。 ここに、言葉が9つ位あります。 「覚えてください」と言われたら、どうしますか?
イメージして覚えたり、物語を作ったり、替え歌風にして覚えたり、頭文字だけを覚えたり、力づくで、何度も言ったり書いたりすると思いますが、学校教育では、ドリルを何度もやってきなさいと、学び方を限定される側面があります。 私はイメージした方が圧倒的に覚えやすいのですが、教育現場はそうではない側面があります。
テレビで聞いたことがありますが、九九はなぜ「くく」と言うのか。 平安時代の貴族が、こんな便利な方法を庶民には知らせず、貴族の特権にしたいなと「九九」と言うようになったということでした。 そのために、「ににんがし」と皆がやったら、覚えやすいので、逆からいった。 庶民は、そういうものを覚えようとはしないので、「9×9」から覚えるということで「九九」にしたといことです。 今の教育現場でも同じようなことをしているなと。教科書をDAISYにした方がわかりやすいのに、何でもかんでもこれでいきなさいと限定をしている。 もっと柔軟に環境が変わったら、と思います。
今から思うと、本当に学齢期が一番辛かったなと思います。今はパソコンでクリアしていますが、あの辛かった学齢期を消すことができるなら、今からでも消したいなと思っています。 本が読みたいと思っても全然読めなかったり、本の話をしている友達の中にも全然入っていけなかったりしました。今の子にはそんな思いはさせたくないなと思います。
自分の中で不安を感じているのは、テレビで出る緊急情報が分かりません。 地震速報とか津波情報とか避難情報とか出ても、対応できないので、なんとかしたい、社会が変わってほしいと思っています。
午前中の質問に、役場や銀行でという話がありました。
私はどうしているかというと、書類が読み書きできないので、あらかじめ1回行って、書類をどっさりもらって、パソコンで同じ大きさにプリントアウトして、それを移すようにして書いて、後日持って行く、という形。家には、いろんな書式のプリントがあります。 ATMやネットで対応できるものはそうしています。
ディスレクシアの子は、見え方がいろいろです。
この線があることで、下のはさみが見えにくかったりします。
ハイライトを変えられたりするとすごく見えやすくなります。
そんな私ですが、自分が今まで感じてやってきた作戦がDAISYに集約されていると知ったときは、すごくうれしい反面、もっと早く出会えていたらと思いました。 読むところが黄色となる、ハイライトして動いていくと、目で追えます。
みなさんこれをこのまま読めといわれたら、頭が痛くなると思うんですけれど、
こんな風にハイライトされれば、目で追うことができます。
このようにディスレクシアの子にも有効なツールなので、柔軟に教育現場で活用してけたらと思います。
自分もそうですし、自分が関わっている子の中で、本当に本が好きになった子も、勉強が好きになった子もいます。それよりも友達と話が合うようになってうれしいという子もいます。有効だということは私も、関わっている子どもたちも実感しています。
今、肢体不自由の学校にいるのですが、このお子さんは、左肘のちょっと先と、左足首から先がちょっと動くお子さんです。 DAISYをちょっとした信号で、操作できるように、前のセクションとか次というようにできるインターフェイスを手足につけて学習していたら、すごく喜んでくれました。 ディスレクシアだけではなく、ページをめくれない子供にも、有効だと思っています。 DAISYだけではなく、いろんな側面で、社会、環境が変わることで、「生きていたよかった、生まれてきてよかった」と、心から感じて喜びながら、人生を送れるように、合理的配慮が得られる社会を実現できることを願っています。
ご清聴ありがとうございました。
司会●
ありがとうございました。 時間内に終わるためにとても頑張っていただいたのですが、2分ぐらいあります。 付け足しがありましたら。 私のほうの時間コントロールも間違えまして。まだあります。 ご質問受けていいですか? 挙手を。
会場●
こんにちは。府中市に住んでおり、子ども4人を育てる母です。 末娘が小1で、早い時期に気付いてよかったのですが、今のお話を聞いて学齢期にとてもつらい思いをされましたよね。 メンタルな部分、心がおれることもあったと思います。 こうやって人生を歩んでこられたというサポートか何かあったのでしょうか。 その辺をお聞きしたいのですが。
神山●
小学校時代、すごく助かったというか、その方の存在があって学校にも行けたというのが、用務員さんとの出会いです。 「廊下に立ってなさい」と言われてずっと立っているような子じゃなくて、授業が進んでいる後ろで立つのはつらいので、その場から離れずにはいられない心境で、よく行っていたのが、用務員室です。 「お前、また来てくれたか、あそこのドアが直せなくて困ってた、一緒にいって直そう」と言って、連れてってくれて、手伝いをさせてくれた。 直ったら、用務員室でお茶を入れてくれて「ありがとな」って言ってくれたんです。 自分も学校に来てもいいんだ、自分を必要としている人がいると、その方を通じて感じられたので、不登校にはならずに行けたと思います。 スライドで飛ばした部分なのですが、今から6年前に家を建てました。 設計は藤堂さんにはかなわないのですが。こういう家を建てて・・・。 その方との出会いで、自分には「ものづくり」の力はみんなに負けないなということを感じさせてくれたので、そういう方との出会いがよかったと思います。 夏休みに子どもと一緒に駐車場を作ったときの写真です。 字が読めなくても、こういうことができると感じさせてくれるような大人との出会いはよかったと思います。
会場●
どうもありがとうございました。