1940年から1959年まで
第二次世界大戦により、小委員会の活動は一時中断された。しかし1947年、ルメートルの死後就任した新リーダー、ポール・ポインドロン(Paul Poindron)「一般報告官(rapporteur general)」の旺盛な行動力のもと、再建が開始された。 (34)フランス国民教育省に所属する(35)ポインドロンの当面の目標は、小委員会の再編成であった。具体的には、元会員との関係を再確立し、この分野で活動している非会員図書館司書と連絡を取ることである。この目的に向けて、彼は2回目の国際調査の陣頭指揮をとり、IFLAの1947年年次大会において小委員会が(オスロで)開催された際、調査結果に関する非常に長い報告書を発表した。(36)
ポインドロンは報告書に引き続き、一部これに基づく、患者図書館に関する「勧告」を多数作成した。それは、このような図書館は、あらゆる病人看護施設において不可欠な要素とするべきであるという信念を軸としていた。広範囲にわたり、かつ詳細で、病院、ホスピス、伝染病患者保護収容施設、サナトリウムおよび回復施設への適用を意図したこれらの勧告は(37)、この分野におけるもっとも初期の多国的勧告であった。
ロバーツ同様、ポインドロンも、治療手段としての読書療法の価値を深く信奉しており、この分野における彼の勧告の多くに支持を得ることに成功した。たとえば、彼の指導のもと、小委員会は次のような決議をした。
- あらゆる精神病院には、患者のための図書館を設けなければならない。
- アメリカ合衆国、イギリスおよびスカンジナビア諸国で、精神病院向けの図書館サービスに使用されている方法を、精神病院の医師および経営者に注目させなければならない。
この決議は、1955年ブリュッセルで開催された第3回国際図書館司書会議(International Congress of Librarians)で承認された。(38)
さらにロバーツ同様、ポインドロンも、病院図書館に関する教育に関心を持っており、彼の在職中に、この分野における実践家養成のための数々の戦略が開発された。それには、研修、実習課目および会議に関する勧告が含まれていたが、いずれも地域レベルで実践する際に状況に応じて変更することができた。特にポインドロンは、医学部の教員や看護学生および社会福祉を学んでいる学生など、図書館司書以外の人々を会議に参加させることを提案し、このような人々も患者の福祉に関心が高いので重要であるとした。
活動をさらに効果的に宣伝するために、小委員会は1948年IFLAに対し、年次大会終了後、即座に会議報告書を配布する許可を得たいともちかけた。また、ユネスコ、世界保健機関(WHO)、国際赤十字社連盟、国際医学学会事務局および国際医師・病院職員連盟など、さらに幅広い読者へと報告書を配布することも求めた。その後のやり取りから、このような配布方法が数年間続けられたことがわかる。
最後に、患者図書館に関する豊富な情報が、これまでも、そして今後も引き続き、世界各地で生まれることを認識し、ポインドロンと小委員会はこの分野に関する文献目録が必要であるという点で同意を得た。(39)これは最終的には「世界中の病人と障害者に対する図書館サービスに関する書籍と論文の、可能な限り総合的なリスト」(40)を作成することを目的とした、数年がかりの大変なプロジェクトであった。
1952年、新たなIFLA規約が採択された。その中で、小委員会は委員会へと名称を変更し、その結果、「病院図書館小委員会」は「病院図書館委員会(Committee on Hospital libraries)」となった。新規約により、常任諮問委員会も組織された。(41)
名称変更後も委員会では、病院を本拠地とした図書館か、公共図書館の延長プログラムかを問わず、患者向けの図書館サービスの促進を継続した。病院当局を代表するグループと密接なつながりを維持するというロバーツの伝統を守りながら、委員会はIHAの後進である国際病院連盟(IHF)との関係を大幅に強化し、1953年の合同会議プログラムに協力して取り組んだ。(42)
委員会はまた、入院中の障害のある読者に、可能な限り幅広い読み物と支援を提供する責任を強化した。このため委員会では以下を決議した。
- さまざまな言語によるマイクロフィルム図書を、重度の障害のある読者のために作成しなければならない。これらのマイクロフィルムのサイズは35mmを標準とするのが望ましい。
- ユネスコ加盟国は、a)障害者用のマイクロフィルム図書複製の際の著作権と、b)障害のある患者専用プロジェクター用のマイクロフィルム図書を国家間で貸借する際の輸送費および関税について、政府から一般免除を受けなければならない。(43)
1953年、緊急の職務を果たさなければならなくなったポインドロンが委員会を去ると、そのリーダーシップは、チューリッヒ州立病院図書館司書(Zurich’s Bibliothekarin am Kantonsspital)、イルムガード・シュミット-シャールデン(Irmgard Schmid-Schalden)へと受け継がれた。(44)彼女が任命される直前に、委員会は設立後3回目となる国際調査を実施することを決定し、(45)その後シュミット-シャールデンが、調査結果を『各国で利用されている病院図書館制度の研究(A study of the systems of hospital libraries in use in different countries)』という題名の論文にまとめた。これは1956年のIFLA年次大会(ミュンヘン)で討議されたが、(46)その後も2年間にわたり年次大会での討議は続けられ、(48)ポインドロンの勧告の一部と合わせて、委員会初の基準を開発するに至った。
最後に、1950年代後半に委員会は病院図書館のための研修に関する勧告を再び提案したが、その目標は、この分野における国際的な画一化を促進することであった。