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日英シンポジウム2001「すべての人が尊厳をもって共に暮らせるまちづくりをめざして」

プレゼンテーション報告 アンドリュー・モーソン(大阪)
「CAN の理念と実践」

アンドリュー・モーソン(大阪)

 ありがとうございます。こちらに来ることが出来て本当にうれしく思っております。そしてブリティッ シュ・カウンシルならびに組織委員会の皆様方に感謝申し上げます。本日は迎えてくださいましてたいへんうれしく思っております。
 さて、社会事業家ということで、私のような仕事をしている者ですが--このような会合をし、人々と会い、いろいろなことを学ぶために来ているわけです。
 私は、同僚のポール・ブリッケル教授と共に来ました。ブロムリ・バイ・ボウで彼と初めて会いました。彼はこのプロジェクトに参加してくれました。数年後に彼がチーフ・エグゼクティブになってくれて、私が英 国全体をカバーする責任者になりました。
 ダイアナさんがブロムリ・バイ・ボウを訪ねた翌年の92年に、ロビン・ローランドさんに、彼はビジネスマンでしたが、会いました。今では彼は国際大使として活躍してくれています。それから95年に私は他の社会事業にも関与していました。そしてロンドンで大きなイベントを行いました。3 万人の人々でグレイト・バンケットを行いました。ブレア現首相もイベントに来てくれました。野党の党首をされていた時代です。そこで彼は親しい友人のピーター・トムソンさんを連れて来ました。そこでいろいろと話をして友情を分かち合うことができました。そして、ピーターがコミュニティ・アクション・ネットワークをオーストラリアで作ってくれています。
 私からは初めになぜこういうことを始めたのか申し上げたいのです。そしてマクロの、大きな問題、たとえばイギリスや日本といった社会をどのように理解していくのか、そしてこれらの方向性をどう見つけるの か。またアフガンでどういうことが起こっているかという、この深刻な問題をどのようにするかと考えたとき、私が提案したいのは、マクロから行なってはいけません、ミクロから始めましょうということです。こ れが私の示唆です。
 一つのコミュニティで、一つの場所で詳細から始めるのです。いったいここで何が起こっているのかということをミクロの観点から見ると、もっと大きな森を見ることができると思うのです。
 ブロムリ・バイ・ボウは、ロンドンの東にあります。84 年から始めました。本当に貧しいイギリスの疎外されたスラムでした。私は教会で働いていましたが、教区を10 分歩くと、50 の異なる言葉や方言が話されて いました。世界中からいろんな人が来ていたのです。このコミュニティは、炭谷局長が正確におっしゃったようないろいろな問題を抱えていたコミュニティだったのです。
 状況としては、たとえば他の地域に行ってもっと幸せになれるなら、誰でもそうしたというような所でした。私は牧師としてこの部屋くらいの大きさの教会を担当していました。12 人の高齢者の白人がスタッフとしておりました。銀行には少額のお金しかなかったんです。そしてこの状況を何とかできないかと考えました。街に出ればすぐに社会的な問題に出くわしてしまう。このときはどうしたらいいかわかりませんでした。 そこで私にはじっくり時間をかけて人と会って、現状を把握するということが必要だったのです。つまりミクロから始めようと考えました。
 2 、3 カ月たちました。イギリスにおいて多くの公共機関がこのコミュニティにたくさんの投資をしていました。しかしその方法ではぜんぜん改善にはなりませんでした。ミクロの詳細な問題点については留意して くれなかったからです。
 イギリスの古い慈善団体を訪問しました。会合にも出ました。マネジメント・ディスカッションにも出ました。そういうところに行くとたくさんの議事録や書類が作成されたり、多くの話し合いをするんです。でも、やっとわかりました。近所のドーリック・タワーブロックという23 歳の若い女性に出会い、彼女がこう言ったのです。「マネジメント・コミッティーには参加したくないけれども、たとえば看護婦や、子どもたちのヘルスセンターを何とかして欲しいと思っても、いろんな話はしてくれるけれども、それからいろんな委員会はできるけれども、地域で私が実際に欲しいものとは違うのよ」と。そのとき、数人の人が集まりこの問題を別の見地から対応すべきだと考えました。
 話だけではいけない、言うだけではいけない。何か実践的なことをやってくれる人々と環境を変えようと 考えました。初期の頃の人々、グループや家族も一緒に、子どもたちの保育園、小さい家に小さい保育園を26作ろうということになりました。大きな教会が使われていないことに気がついて、使いたいと申し入れました。「使ってくれていいですよ、ただしパートナーシップを組んでください。一緒に仕事をしましょう」と私は言ったのです。彼らもそうしようと言ってくれて協力してくれました。実際に建築家を呼んできて、近くに住んでいる女性たちが集まってきて計画を練りました。
 こういうスペースを空にし、家具を動かし、またテントをこのような構造にしたらどうだろうか、教会の真ん中の集合所を使って40 人集まれるようにしたらいいのではないか。200 人も収容出来なくていい。3 分の 1 の人々がイスラム教徒でありキリスト教徒ではないので、この方が現実的ではないだろうか。それからアートギャラリーを作って、外の安いところに住んでいるアーティストに集まってもらったらどうだろうか。アートギャラリーの周囲に統合された保育所を作れないか。もちろん貧しい子どもたちも入れるけれども、それだけではなく、たとえば25 人の貧しい子どもたちを入れるともっと貧しくなります。でも貧しい子どもたちを入れて、ドクターの子どもや先生の子どもも入れてお金を払ってもらうのです。そしてベンガル人の子どもたち、背景の違う子どもたちも一緒になると新しい現実が生まれるのです。これによって、他の子どもたちを週に11 クラスに入れられるわけです。また、トイライブラリーの戸棚を開けられるようにして、地元の家庭からおもちゃを持って来てもらいます。教会の入り口のキャノピー(日よけ)を上げて、家具を動かし入れて劇場も作ろうと。つまりフレキシブルなスペースを作ろうと考えたわけです。これが計画でした。
 それから専門の社会事業の職員を呼びました。そして彼女にこの建築モデルと素晴らしいアイデアを見せたのです。しかし、彼女は興味を示しませんでした。彼女はバッグから百科事典を出していくつものダメな理由を並べたのです。イギリスではこんなアートギャラリーや劇場やトイライブラリーを付けた保育所は作れないと言ったのです。法律で規制されているからだと。でも法律がこの建物の外のような最悪の状況を作り出したと指摘しました。ならば法律規則を変えたほうがいいのではないですか、と。彼女は「不可能」と 言いました。私達は不可能ではないと決断しました。なぜならば私達が直面している現実は重大だからです。彼女は社会事業の局長を呼んでくれました。そこで議論した後、彼は、「財務的な現状、あなたの言っていることはよくわかります。ひょっとしたら今までの1 つを建てる高い予算で、このような保育所を12 個建てられるのではないか」と言いました。これが、私が出会った公共セクターの人で初めて出来るという精神を持ってくれた例です。彼がやってくれるのに、なぜ今まで何千人もの人ができなかったのかと思いました。
この保育園を16 年もやっています。今では2 つの保育園をやっています。実際、そのうちの1 つはうまくいっていないからと政府が私達に与えたものです。
次に、コミュニティ・ケアの仕事を始めました。私達のコミュニティに働いている人々は障害者が多いのです。精神障害者や失業で困っている人々。そしてテレビだけで家から出ないという人々、貧しい人々です。 私はロンドンに行ったときにいろいろな専門職の人々を見つけました。彼らは20 マイルくらい離れたすばらしいアパートに住んでいるのです。朝、来てこういう人々を見るわけですが、サラリーをロンドンで稼いで も郊外に帰ってしまうわけです。こういったコミュニティというのはそういった人々に依存してしまっているわけです。これは健全だとは言えません。ですからもっと皆が自分の生活に、自分のコミュニティに責任 を持つようにすることが必要だと思いました。そしてそうしたい人を集めました。
 もし、今日ブロムリ・バイ・ボウに来られることがあれば、3 エーカーの見捨てられた場所が公園になっているのを見つけるでしょう。以前健康の問題で家を出ていた28 歳の若者が、今では元気になって結婚もして、公園を作り直しました。またやはり若い女性で健康の問題を持っていた人も教育を受けることができました。そしてコミュニティ・ケアの人々を教えているのです。
 今ではブロムリ・バイ・ボウには100 人以上のスタッフがいます。58 %のスタッフは近隣の住民なのです。20マイルも離れたところの人ではありません。お金を儲けてスキルを上げて現実を変えているのです。そして政府と再交渉するということもやりのけているのです。公共機関と私どもが互いに学ぶことができました。
 もちろんいつでも簡単に出来るわけではありません。しかし面白いです。
 8年前、35歳のジーン・バエルズという女性が、私達の近くで35 歳でガンで死にました。彼女には16 歳と2歳の二人の子どもがいて、小さなアパートで1 つのベッドで寝ていました。貧しい暮らしでケアグループに 入ってきました。余命は6か月でした。この状況に対して政府はいろいろな報告書を出していたのです。でも誰も彼女の友達ではありませんでした。ジャッキーという5 人の子どもを持つ若い母親が毎朝行って彼女を入浴をさせていました。貧しい人が社会福祉サービスを受けられない。国が提供できる社会サービスがうまく奏効していなかったのです。結局ジーンは亡くなりました。私がお葬式を取り仕切りました。これが全国紙に出たのです。家族が非常に怒ったからです。
 3週間後、私達のプロジェクトの近くの病院で大きな会議が行われました。その会議には多くの当局の人も来ました。ジーン・バエルズの件ですべきだった事をなぜしなかったのか。悪い人たちではないのです。い い人たちばかりなのです。でもシステムがうまくいっていなかったのです。この会議の中盤で、私はこう指摘しました。「このシステムはお客様、ジーンに焦点をあてていなかった。システムや構造のために作られたシステムである。そして専門職のためのシステムである。」と。
 そして、病院側が地元の開業医に聞きました。「あなたはそもそもなぜ、この人がこういう状態だというこ とを伝えてくれなかったのか」。すると、彼は「あなたのファックス番号はつながらなかったではないか」と言いました。
 それから2時間経ち、詳細がわかりました。誰と誰が話していなかったのか。何がなされなかったのか。悪い人たちではないのです。システムや構造が間違っていたのです。うまく機能していなかったのです。割れ 目がだんだん大きくなっていって、このようにジーンが亡くなってしまったのです。
 会議の後で、4人の当局の担当者が個人的にこう言いました。「アンドリュー、あなたの言っていることはその通りだ。でも私は公共の場ではあなたに同意できない」。なぜか。つまり、グループの利害があるからです。このシステムに係わっている人達の給料がかかっているからです。
 私は、システムがもしうまくいかなければ、変えなければいけないのではないか、そろそろその時期が来 たのではないか、と思いました。
 2週間後、また大きな会議がありました。そこで計画を練りました。そのとき発言したのです。「この見捨てられた教会の裏の3 エーカーのスペースを申し受けます。そして私達自身のヘルスセンターを作ります。す ばらしいビルを、オックスフォード大学のようなものを作ります。」と言ったのです。そして庭も作る、すばらしい日本庭園みたいなものを作る、アートギャラリーも作る、と言ったのです。そしてヘルスセンターの受付にはこんな形で、ドクターは処方箋を書いていろいろな選択肢を提供、毎週125 ものプログラムから選択できる。単なる高い薬を売るだけでなく、公園やスペースで遊べる、ビジネスも展開できる、教育も受けられるようにする、と。
 人々の健康の問題というのは、孤独・疎外ということが原因となっています。無教育、失業とリンクしています。それらを統合的に考えなければ問題を解決することはできません。
 公園を作り、隅に住宅、たとえば精神障害者の人々のためのスペースを作ろうとしました。こういった病気の人々を疎外するのではなく、コミュニティの中でケアをしようとしたのです。公園やヘルスセンター、保 育所、教会そしてコミュニティ・ケアができる住宅を統合的に作ろうとしました。ヘルス・リビング・センターの統合版が初めて英国にできたのです。びっくりするような結果でした。
 それから3 年、この新しい考え方を実施してきたわけです。このプロジェクトは、3 年前、イギリスで最初のヘルス・リビング・センターとして国務大臣によってオープンしました。オープン時には首相夫人のシェリー・ブレアさんもいらっしゃいました。また今では政府でもこのアイデアをいろいろとサポートして、全英的に拡大していこうとさまざまな財源の援助をしてくれています。
 毎週2千人の人々がブロムリ・バイ・ボウ・センターに来ています。100 人以上の人々を雇っています。つまりこの地域の経済が変革しているのです。
 また、パートナーと2 億ポンドの住宅会社を設立しました。5 千戸の住宅を地元に建てました。それまで公共住宅だったものを私達が運営し、そしていろいろなスタイルの住宅を入れました。さまざまな人が住む社会です。貧しい人、豊かな人、皆が一緒に住めるような形にしました。
 この作業がどんどん大きくなってきたので、より全国規模の仕事が必要になり、ポール・ブリッケル教授が私達のチーフ・エグゼクティブになりました。あとで彼から最近の動向について詳しくご紹介したいと思 います。
 このような状況から、私は自分と同じようなことをやっているイギリス各地の人々と話を始めました。皆、うまくいかない仕組みやシステムのなかで悩んでいた。皆孤立していて変化をもたらすことがなかなかできずに苦労していたのです。私もそうでした。
 ロンドンの社会起業家のアデル・ブレイクブラさんが、ロンドンの南部で一日に340 人のヘロイン重症者を助けていました。ヘレン・テイラー・トンプソンさん、76 歳の女性ですがすごい人です。ですから年齢は関係ないのですが、彼女はエイズの母親と子どもの最初のホスピスをヨーロッパで作った人です。彼女とも一緒に仕事をするようになりました。一緒に仕事をすることによって、自分たちのやっていることがより大きくうまく展開できるようになったわけです。2 +2 は4 ではなく、2 +2 は6 になることがわかりました。
 こうして私達は自分たちのようなことをやっている社会起業家を10 人、さらに20 人とどんどん増やしていき、ピーター・トムソンさんと私は電車やバスでイギリス全土を旅して、自分たちで孤立して環境、健康、住宅、社会プロジェクトなど何か新しいプロジェクトをやろうとしている人達を見いだしました。
 彼らをインターネットでつなぎました。近代的な通信技術を使ってきたわけです。インターネットでCANオンラインというマーケットプレイスを作り、お互いに支えあったのです。経験を分かち合って、一緒に全 英でプロジェクトを展開し、また個々のプロジェクトに今までできなかった形で資金の供与ができるようになりましたし、これからますます大きくなっていく起業家的な環境づくりが成功してきました。現在は私の ような人が600 人以上、イギリス全体で互いに連絡を取り合っています。皆、実際的なプロジェクトを地に足がついた形で展開し、社会福祉、地域社会というなかで革新的な活動をしている人たちです。加えて、18 のCAN センターをイギリス全土のさまざまな都市に設けています。一カ所に企業や自治体、ボランティアが集まるわけです。
 考え方というのはまったく新しいところから、人々のつながりから、今まで会ったことのない人が一緒に仕事をすることによって生まれると信じています。
 こういった全英センターのいくつかの例をご紹介したいと思います。
イングランドの北西部にホワイトヘブンという小さな町があります。ジム・ベイカーという人に私は出会いました。彼の町では失業者がたくさんいました。炭鉱が閉鎖されたからです。町の真ん中には古い多層の 駐車場があり、ヘロイン常習者がいました。ボロボロの車が放置されていて誰もそこには近づきませんでした。そこで若い失業者とジム・ベイカーさんは仕事をしました。その土地を持っていた駐車場のオーナーに 土地を借りて運用しました。ボロボロの車を全部なくして、若い人達にきれいにペンキを塗らせて建物の色を変えました。そして社会事業を始めて、カードを作って車を歓迎したわけです。すると女性やいろいろな 人が少しずつその駐車場を使うようになりました。ささやかなビジネスとなり利益も出てきました。失業者、若い人たちもこの仕事を運営することによって技術を持つようになりました。また、小さなカフェを作りました。そして他の人たちがそこで訓練を積んで仕事をするようになりました。私達はこうした人たちとも手を結び合うようになりました。大企業と地方自治体にお金を出してくれと頼み、もっと土地を買おうとしたわけです。使われていない建物を買おうとしました。建築家を呼んできて建物を8 か月という短い期間で新しく作り直しました。事務所や、CAN のディレクターのオフィスも作りました。最近100 万ポンドを得まして、最初のヘルス・リビング・センターがそこに出来上がりました。
 このように一緒に仕事をすることによって、より大きな、新しい、そして創造力豊かな企業の展開が可能 になるのです。
 2つ目の例は、カーディフというウェールズの町です。現在、入札段階です。非常に大きな公共の建物ですが、もともと市議会が持っていたもので、何百ポンドも今まで投資されていましたが、ほとんど空き家状態。 これは市議会にとっても恥ずかしいことでした。すなわち、政府からこんなにこの建物に投資をしたのに誰も使わないのはなにごとか、と言われていたからです。そこで私達がパートナーシップをBBC と結び、他の 企業も入ってビジネスプランを作りました。この建物を私達が運用するためのプランです。建物は市議会が所有する。しかし中身の運営は私達がやる。そしてそこに人々をたくさん入れようという考え方でした。
 私達のテクノロジーのネットワークで、私のような人々をネットワーク化しようということをウェールズで行いました。これは問題を取り上げて実際的な機会に転換する一つの企てです。
 3つ目の例。これはロンドンです。CAN センターをロンドンアイ--テームズ川の大きな観覧車ですが、そのそばに作りました。非常に古い荒れ果てたオフィス・ブロックを引き継ぎました。このくらいの大きな部 屋のスペースを設けて、14 の団体が集まりました。企業もありましたし、公共団体も社会団体もありました。そして丸いテーブルを置いたガラスの部屋を作りました。緑の部屋、青い部屋、黒い部屋と。そして昨年どうしたかというと、コーヒーを飲みながら皆がテーブルにやってきていろいろな話をするのです。たとえばマーケティングに優れたグループはマーケティングをやる。ビジネスプランを書くのが得意なグループはビジネスプランを書く。一緒になってそれぞれ自分たちの技術を提供してプロジェクトを展開するのです。現在までにここからたくさんのプロジェクトが生まれました。変化の駆動力になったわけです。
 こうやって一緒に集まるスペースを設けたことによって、私達は各14 の団体のコストを3 分の1 に下げることができました。そしてそのスペースは1 年間100 %占有率が上がりました。さらにオフィス・マネージャーを雇いました。今は政府の補助金に頼らない、独立した、しかも利益の上がるプロジェクトもやっています。これが社会的な企業です。
 プロジェクトの多く、特にイギリスの荒れ果てたところでは補助金頼りです。コミュニティ・アクション・ネットワークは企業的な形でコミュニティをうまく動かす土台づくりをしています。
 コミュニティ・リインベンションという言葉は非常にいいと思います。これは私、イギリスに持って帰りたいと思います。
何よりすばらしい言葉だと思います。コミュニティ・リインベンションを今まさに私達はやろうとしているのです。たとえば人道的な博愛主義的なよく知られているやり方、過去のアプローチを見 ますと、これは自立ではなく「依存」を作ってしまったのです。一人ひとりの人々は皆リソースを自分たちで持っていて地域社会を作ることができる。そのためには人々を集めて人々の力を使っていくことです。で すから、こうした人々を排除するのではなく、ソーシャル・インクルージョンを進めていくことが必要です。
 ここで私達がイギリスで学んできた原則をご紹介したいと思います。新しい環境を生み出そうとしたなか で、私達がどんなことを学んだか。
 まず第一の原則は、お金や資源を委員会に投資するのではなく、一人ひとりの人々、そしてアイデアに投資します。そしてさらに人を集めてビジネスチームを作って物事を実現しなければなりません。それが企業 の人でもボランティアでも自治体であってもかまいません。大事なのはきちんとした考え方を持って何か実務的なことをやりたいと思っている人を集めることです。
 二つ目の原則は、パートナーシップを、官、民、そして社会の間に結びつけることです。イギリスの考え方では、雲の中からいきなり新しいアイデアが生まれることはありません。今まで結びつかなかった人々が 結び合うことで新しいアイデアが生まれる。今まで考えていた伝統的な箱の外に目を向けることによって新しいアイデアが生まれてきます。

 三つ目の原則は、リスクをとって機会をとらえることです。
 第四の原則。門戸開放です。柔軟性を持つことです。扉を閉めることでは決してありません。
 第五に、イギリスでこういう行動を取り始めたらより良い環境が生まれてくるものです。ブロムリ・バイ・ボウでは、住宅や雇用の創出、仕事の機会がこの結果生まれました。社会サービスも再びうまく回るように なりましたし、いろいろな人々、異なった国籍の人々が一緒に集まり、そして関わるようになりました。皆それぞれの役割があるのです。皆同じではありません。決して誰も同じではないのです。ただジグソーパズルのように、それぞれ自分がはまるピースを持っているわけです。そこで社会がもう一度うまく機能し始めます。
 第六に、このようなやり方によって多様性を讃えるようになります。いろいろな所、いろいろな社会、いろいろな国がある。これはチャンスであり、問題では決してないのです。
 第七に、企業的な文化が生まれます。ゴールを設けるのです。CAN 、できるんだという文化です。昔は、できない、CAN NOT という文化だったのです。

 第八に、人々が皆学びあう環境が出てきました。すなわち、地域のリインベンションという新しい環境が生まれたわけです。
 最後にいくつか重要な点を申し上げたいと思います。このコミュニティ・アクション・ネットワークにとって、全国規模に広がるなかで、企業とのパートナーシップも重要です。つまり、私達がビジネス的な考え方 を社会問題に適用していることを企業が理解してくれたことによって、いろいろな企業と仕事をするようになりました。BBC 、コカコーラ、BT セルネット、ブリティッシュ・ガスといった大企業も入っています。彼 らは企業としての関心と社会としての関心が結びついていることを理解しているのです。
 一つ実例をご紹介します。ブロムリ・バイ・ボウにおいてヘルスセンターを作りました。テスコという大手のスーパーストアが道の向かい側にありました。多くの人々を招待した食事会に店長がやってきて言いま した。「この人たちはここに住んでいる。自分は仕事をするために長い通勤時間をかけてここにやって来ている」と。「それならば売っている品物が悪いのだ。3 分の1 は自分の店に買いに来ていないじゃないか。だから少し考えなければいけない」と言ったのです。ヘルスセンターを道路のこちら側に作るのであれば、反対側には薬局を作ってはどうかと、その店長は言いました。
 すなわち社会的な利害と企業の利害は別個ではなく互いに結びついていることがわかりました。私達は一つの統合された環境のなかにいるわけですから、一緒に仕事をする機会はいくらでも見つかるはずです。
 イギリスでの重要なメッセージというのは、新しい考え方、新しいモデルを作っているわけで、これは伝統的な博愛主義を超えた社会的企業の枠組みに移っているわけです。社会的企業というものを進めたわけで す。自立して、ビジネスライフを将来担っていける人を作ることが重要です。
 コミュニティ・アクション・ネットワークについてもう少し詳しいことを知りたい方は、ウェブサイトにたくさんの情報が載っています。イギリスの地図を見ていただくと、全国でどういうことが起こっているか もわかっていただけると思います。コミュニティ・アクション・ネットワークではこの3 年でいろいろなことが起こりました。首相からも個人 的なサポートの手紙をもらいました。私達は長い道のりを歩んでいます。
 しかし、まだ学ばなければならないことがたくさんあります。少しは知識はありますが、すべてを知っているわけではありません。そこでもっと幅広い環境を、日本とも結びつきたいと思います。日本に来ていろ いろなものを見ました。神戸や大阪、その他の土地でのいろいろな活動を見ました。こうしたことにたくさんの知識をお持ちの皆さんから学ぶことがあるでしょうし、皆さんも私達から学んでいただけることがある と思います。それから、私達はオーストラリアにもネットワークを作りました。オーストラリアのアボリジニとも一緒に仕事をしています。彼らも私達の知らないことを知っています。
 新しい環境を作るという手がかりは世界中いろいろなところにあります。イギリス中を旅して一緒に仕事をする人を見つけたのです。私は同じように世界中を見ることが必要だと思います。皆が共有している昔か らの問題について非常に興味深い解決策を持っている人が、きっとどこかにいるはずです。
 最後にここに来れてたいへんうれしく思っています。皆さんからたくさん学び始めました。もちろん私達の知識はまだまだ限られています。これから深く長期的なパートナーシップを日本と構築したいと思います。コミュニティ・リインベンションを一緒にやっていきたいと思います。お互いに教え合うことがたくさんあると思います。お話の場をいただいて本当にありがとうございました。