音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

講演<5> 「ボランティアと"意味"の変容-ハンセン病をめぐって」

早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター助教
西尾 雄志

 

高嶺 引き続きまして、西尾雄志さんに、最後の発表をお願いしたいと思います。西尾さんは、早稲田大学の平山郁夫記念ボランティアセンターに勤めておられる方です。早稲田大学の研究博士課程を満期退学されており、現在、中国のハンセン病回復村でのワークキャンプ活動の支援などに関わっておられて、著書もあるということです。今日は、その体験をお話ししていただくことになっております。よろしくお願いします。

 

西尾 皆さんよろしくお願いします。早稲田大学の西尾と申します。今日、お話しさせていただく内容は、中国のハンセン病の「回復村」での日中の学生たちのボランティア活動のお話です。回復村とはハンセン病に昔かかって、今は治った人が社会的差別から故郷に帰ることが出来ず、未だに住み続けている村のことです。

この活動は2001年から始まったのですが、その活動の中で私自身「CBR」という言葉を意識したことは、最初に正直に申し上げますが、一度もございませんでした。CBRという言葉をきちんと調べたのも、今日の発表の機会をいただいてからでございます。私の関心の中心は、ハンセン病の問題と、学生のボランティア活動支援でしたので、CBRということはほとんど意識しておりませんでした。今日、CBRのことについて、最前線でご活躍されている皆さんに、どの程度ご参考になるお話ができるのか、はなはだ心許ないのですが、事例を報告させていただきたいと思います。

 

私の発表では、皆さんのお手元にある紙資料をもとに進めていきたいと思います。まず、ハンセン病に関して簡単にご説明しておきたいと思います。ハンセン病は、細菌による慢性の感染症の1つです。この病気はたとえ菌の感染が起きても発病に至らず、つまりハンセン病の原因であるライ菌が人の体に入っても、その菌が悪さをするとは限らず、共生状態にとどまって発病しないことも多い病気です。

日本の場合は、ほとんどの人がハンセン病に対する十分な抵抗力を持っているので、たとえ感染することがあっても、発病することはまず考えられないし、そもそも原因となる菌が日本にないと考えて構わないと思いますので、日本でハンセン病を発病するということはまずあり得ないと考えてもよいかと思います。

一般的なイメージでは、ハンセン病にかかるとすべての人が、指が曲がったり、外傷が出たりというイメージがあるかもしれませんが、これは誤解で、現在は早期に治療すればハンセン病は後遺症を全く残すことなく治る病気です。

ハンセン病の問題なのですが、この説明でも十分おわかりいただけるかと思いますが、日本でハンセン病を発症する人はほとんどいません。今日お話しさせていただく中国でも、WHOが定める公衆衛生上の問題として、ハンセン病は制圧されています。が、問題なのは、差別と偏見の問題です。

ご記憶にある方もいらっしゃるかもしれませんが、北京オリンピックが開催される直前に、次に該当する外国人入国禁止というアナウンスメントが流れたんですが、その1つに、ハンセン病の患者が含まれていました。それはいろいろなところから抗議の声が上がって、オリンピック開催前に取り下げられたのですが、ハンセン病に対する理解というのはなかなか進んでないのが現状であるかと思います。

 

中国のハンセン病のことに関してお話しする前に、少し話がいろいろと飛んでしまうのですが、ハンセン病問題に関して、若干問題整理をしたいと思います。皆さんの資料に、ハンセン病問題の所在、ハンセン病問題の三側面ということを書かせていただきました。


■ハンセン病問題の所在

ハンセン病問題の三側面

  1. 医学問題としてのハンセン病問題--治療法の確立
  2. 国家政策の問題としてのハンセン病問題--国賠訴訟
  3. 社会問題(差別と偏見)としてのハンセン病問題--?

病い (illness)、疾患 (disease)、病気 (sickness) [Kleinman 1988]。

「病い」: その病を病んだ人、もしくはその家族など身近な人にとっての意味(患者やその家族、もしくは社会にとっての意味)

「疾患」: 治療者にとっての意味(医者にとっての意味)

「病気」: よりマクロ社会的(経済的、政治的、制度的)な影響力と関係において捉えられた意味
Kleinman, Arthur, 1988. The Illness Narratives : Suffering, Healing and the Human Condition. Basic Books.
(=1996,江口重幸他訳『病いの語り―慢性の病いをめぐる臨床人類学』誠信書房)

  1. 患者やその家族、社会にとってのハンセン病の意味
  2. 医学的問題としてのハンセン病の意味(医者にとってのハンセン病の意味)
  3. 国家政策としてのハンセン病の意味(国家にとってのハンセン病の意味)

―それぞれの意味の変容と、今日的課題


ハンセン病は病気ですから、ハンセン病の問題というのはまず病気の問題なのですけれども、ハンセン病の場合、単に病気の問題ではなかったというところに大きな特徴があると思います。単に病気の問題ではなくて、日本の場合はハンセン病に対して終生隔離政策、死ぬまで隔離政策がとられました。この意味で日本の場合、ハンセン病問題とはあやまった国家政策の問題でもあったわけです。  さらにハンセン病の場合、国の政策の側面だけではなくて、差別と偏見という社会問題という側面、この3つの側面があると思います。

順に考えていきますと、医学問題としてのハンセン病問題は、1940年代に特効薬が開発されましたし、現在はそれよりも進んだ治療法が確立されていますので、第一の側面、医学の問題、病気の問題としてのハンセン病を人類は克服し得たと言うことができると思います。

では2番目の問題、日本のハンセン病に対する政策の問題はどうだったかと言うと、これは誤った政策だったということが2001年の裁判で公に認められたことによって、解決されたということができると思います。

では3番目、差別と偏見に対してどうなのかということを考えますと、皆さんご記憶にあるかも知れませんが、2003年に、ハンセン病療養所に暮らしていた方が、ある温泉に泊まろうとしたところ、宿泊を拒否されるという事件がありました。そのホテル側の言い分は、他のお客様の迷惑になるからというものでした。これは宿泊拒否だけにとどまらず、その後全国各地からいろんな批判文書が日本の療養所に届くことになりました。その中には、「死ね」とか、「国の金で生きているくせに偉そうに権利を主張するな」とか、そういういろんな誹謗中傷もありました。このことが象徴的に示しているように、医療の問題としても国家政策の問題としても、ハンセン病の問題はある程度解決したと見ることができるかもしれないけれども、社会問題、差別と偏見の問題に関しては、まだまだ解決には至っていないというのが現状であると思います。

その中で、世界でハンセン病が制圧されつつあるからと、人権の問題が放置されたまま人々の意識からハンセン病問題が遠のきつつあることに私は危惧を持っています。ハンセン病の制圧自体は人類悲願の達成と言っても構わないと思うんですが、ハンセン病が人々の意識から遠のいていくということは、ハンセン病に対する差別という人類共通の負の遺産に対する忘却の始まりだと思います。

今日紹介させて頂く、中国のハンセン病の村での学生たちの活動は、医療ボランティアではありません。かと言って日本の学生が中国のハンセン病の施設に行って、中国のハンセン病政策はけしからんと、そういうことを言いに行っているわけでもないです。じゃあ何をしに行っているかというのを、先ほど整理した中の3つ目の問題、つまり差別と偏見の問題がテーマとなっています。

ワークキャンプの概要

年間大体日本から100名ぐらいが、中国の学生は1,400名ぐらいがハンセン病の村に行って、活動をしています。どんな活動をしているかと言うと、彼らは自分たちの活動のことを「ワークキャンプ」と呼んでいます。ワークキャンプというのは、非常に耳慣れない言葉かと思いますが、ボランティア活動の1つで、だいたい20名から30名のボランティアがハンセン病回復村、学校などのキャンプサイドに1週間から3週間泊まり込み、現地の人々と生活をともにしながら土木作業を行う。中国のハンセン病の施設というのは、1950年代、60年代に建設されたものが多いですので、老朽化が激しい。雨漏りがしたり、崩れそうになっていたり、トイレがなかったりする。そういった村に行って、トイレを作ったり、屋根の補修をしたり、家屋の建設をしたりという土木作業を、日本と中国の学生がやっているわけです。

ワークキャンプという言葉、耳慣れない言葉をあえて紹介しましたが、ワークキャンプって何かと言うと、極々当たり前のことですが、それは「ワーク」という言葉と「キャンプ」という言葉の合成語です。これを単純に日本語に訳すと、労働と合宿です。その2つの要素がある活動がワークキャンプです。

そのワークと合宿がそれぞれ何を生み出すのかと言うと、ワークというのは肉体労働ですから、ワークによってトイレができたり家がきれいになったり、道路が舗装されたりします。一方、キャンプによって何が成し遂げられるかと言うと、要するに一緒に生活するわけですから仲良くなります。仲良くなることによって何がもたらされるか、これを今日は「質的な変化」という形で皆さんにご報告したいと思います。ハンセン病の差別と偏見の問題を考えてみたいのですが、その差別と偏見の問題と、仲良くなることによってもたらされるものがどのような形であらわれてきているのかを見ていきたいと思います。

その前に中国のハンセン病の現状を皆さんにお伝えしないと、ワークキャンプによってもたらされるものも明確に見えてこないと思います。先ほどオリンピックの例で言ったとおり、中国でもハンセン病に対する啓発はまだまだ進んでいないのが現状です。日本の場合はハンセン病の療養所は、国立13ヶ所、私立2ヶ所の計15ヶ所ですが、中国は大体600ヶ所ぐらいあると言われています。それが山の奥のすごくへんぴな所に建てられているケースが多いです。これは逃走防止を目的としており、交通のアクセスが非常に悪い所に作られています。

そこに暮らす人は、結婚が禁止されていましたので、大半はおじいちゃん、おばあちゃんです。大体70歳ぐらいです。子どもの姿は基本的にない。ですけれども、中国は皆さんご承知のとおり、非常に大きな国ですから、中央政府から遠い所に行けば行くほど、中央政府の「子ども作っちゃいけません」という政策が浸透しなかったらしく、子どもや若い人の姿もあるそうです。

 

ハンセン病回復村に暮らす人もハンセン病自体は治っています。が、ハンセン病回復村の周辺に暮らしている住民は、ハンセン病のことをよくわかっていません。何か変な病気にかかった人が大勢住んでいる所、そんな認識です。そういう所に子どもが遊びに行こうすると、あそこは怖いから行っちゃダメですよと親が子どもに教えるようです。

日本でもハンセン病に対する差別偏見というのはまだ残っているとは思いますが、中国の場合はそれよりも厳しいところがあるなと感じます。バスの乗車拒否というのも、つい最近まで結構頻繁にあった。ハンセン病の回復者だということがわかると、バスを乗車拒否される。またどうしても用事があって市場に行ったりしなきゃいけなくなったときに、ちょっと後遺症が残る曲がった手でお金を渡そうとすると、お金をお箸でつままれるという経験は結構多くの方がされているようです。要するにハンセン病に対する差別偏見がまだまだ残っているのです。

そこにどういった変化が、学生たちが行くことによって現れるかと言うと、人々の意識の面が大きいように思います。ここでいう人々の意識というのは、一般的な中国の人だけではなくて、ハンセン病の村に住んでいる当事者の人、要するにハンセン病の回復者ご自身の意識も含まれると思います。

こういうことがありました。ある中国のハンセン病の村に日本の学生と中国の学生が初めて行きました。目的はトイレ作りです。このことは、その村の村長さんに、現地のNGOを通して伝えてありました。しかし村長さんは、それをNGOから聞いても意味がわからなかったそうです。要するに何十年も隔離されて、家族とも絶縁状況が続いて、周辺の村の人も嫌がって来ないような村に、なぜ大学生が来るのか。それも都会から。その理由をNGOの人に聞いたら「トイレを作りに来る」と言う。ますますわからない。あまりいい説明の仕方かどうかわからないですけれども、特に中国とか、そういう経済開発途上国と言われる国々では、やはりトイレとか土木作業って、あまりいい言葉じゃないですけど、下層の労働者がする仕事ですよね。

中国の場合、特に地方部に行くとそうですけれども、大学生ってすごくエリート、非常にエリートなんです。そんな大学生が都会からわざわざ、わしらの便所を作りに来るとは村長さんにとっては理解不可能なんですね。なので学生に聞いたそうです。「何しに来たんだよ、君たちは」と。で、「何しに来たんだ、君たちは」と聞かれた学生は、「見せ物じゃねーぞ、オレたちは」と怒られているのかなと思って、モジモジしちゃったそうです。モジモジしているけれども、村長さんはやっぱりそれでもわからないから、「あ、あれか。国に命令されたのか」と最初に聞いたそうです。「いや、別に国に命令されたわけではないです」と学生が答えると、「じゃ、学校が命令したのか。学校の決まりか何かで来たのか」と聞かれた。けれどもこれはボランティアですから、学校が「行け」と言ったわけでもないし、単位になるわけでもないですから「いや、そういうわけでもない」と言うと、もう村長さん、しびれを切らして「じゃ、何でだ」と聞いた。そのときに、学生がモジモジしながら「来たかったら来たんですけど」というふうに言うと、非常に村長さんはびっくりしたそうです。

その一言は村長さんにとっての「ハンセン病の意味」に変化を起こしたんだと思います。要するに、その村長さんにとってハンセン病の意味というのは、この病気にかかったら家族とも絶縁になるし、隔離されるし、みんなからは嫌われるし、病気が治っていようが治っていまいがずっとそこで静かに、隔離された村に住むしかない。そこに都会の若者が来ることは考えづらいし、もし来たとしても、それは国の命令か学校の命令でしかないだろうと。それが村長さんにとってのハンセン病の意味だったと思うんです。

その村長さんのハンセン病の意味というのを、大きく、学生たちは動かしたんじゃないかと思います。それは、トイレを作ったことよりも大きかったと思います。

そういった意味の変化というのは、村長さんだけ、当事者の方たちだけに起きているのではないのです。ワークキャンプで日中の学生たちが地方のハンセン病回復村に行く。そうするとやっぱり外国人は珍しいんですね。で、外国人が何やら変な村で何かやっているとなると、ちびっこが回復村まで見にくるんです。「外国人がいるらしいぞ、あそこに」って。で、ちびっこがその村に来ると学生たちも遊んであげるんですね。トイレを作ったり、土木作業をする傍ら、ちびっこたちと遊んであげる。するとちびっこたちはどうするかと言うと「外国人見たで」って、次の日学校で自慢します。すると、今度は友達を連れてハンセン病の回復村にやってくるんですね。人の往来が何十年もなかった隔離村に。そういうことをしているうちに今度は親が心配しだすんです。今度は親が子どもを心配してハンセン病の隔離村にやってくる。そうすると、ちびっこも学生も、何か楽しそうに、恐ろしい病気だと思っていたハンセン病村で仲良く楽しそうに一緒にやっていて、作業もして、ご飯を食べている。そんな様子を親は目撃するんですね。そこで中国の学生が「こうこうこういうことで、ハンセン病というのはこういう病気で、けどみんな治っていて」などと説明をすると、比較的容易に地域の人もわかってくれるようです。

 

こういうこともあったそうです。ある女子大生がワークキャンプで、ある村のおじいちゃんと仲良くなった。仲良くなって、ちょっと市場行こうかと、一緒に市場に行った。市場に行くときも、仲がいいからおじいちゃんと手をつないで、一緒に行った。そうしたら市場の人たちがやっぱりびっくりした。市場の人は今でもハンセン病を怖い病気だと思っているし、その人を見たら口を押さえるようなことを、ついこの間までしてきた人ですから、あの怖い病気の人たちと若いねえちゃんが手つないで歩いている姿に、非常にびっくりする。で、人だかりができる。そこでまた中国の学生なんかが、こうこうこういう病気だけれども、もう治っていて、みたいな説明をすると、またそこでもみんな比較的容易に理解を示してくれるそうです。

あともう一点。そうやって、学生たちが、わざわざ土木作業をしに、中国のハンセン病の村に行ったりすると、ハンセン病の村に暮らしている人たち自身のいわゆる劣等感みたいなのに影響を与える。堂々とするようになる。「俺のこと怖くないのか」と恐る恐る聞いていた村の人もそのうち、学生とも軽口を叩くようになる。市場の人たちも、学生たちと仲良くしている姿を見て、ああ、この病気は怖くないんだなということがわかり始める。

 

そうやって、目に見える範囲でまず変化が起こるのですが、その後起こる変化としましてメディアの影響が大きい。話は少しかわりますが、中国も最近はボランティアをやりましょうという風潮なんですね。駅とかに行くと、ボランティアですというたすきをかけた人が、つまらなそうにしているんです。何をやっているのか聞くと、「何か困ったことがあったら聞いてくださいボランティア」みたいな、そういうボランティアみたいなのですが、誰もあまり聞いてくれなくて、退屈そうにしているのです。

なので、学生がボランティアをやっていること自体は、ニュースバリューはそれほどない。ですが、外国人が来ていると言うと、ちょっとニュースバリューが出てきてくるようです。外国人がわざわざこんなへんぴな所まで来て便所を作っていますというようなことを、地方紙とか地方局は、結構好意的に取り上げてくれる。そういうことがあると、今までハンセン病のことを全く知らなかった町の慈善団体であるとか、篤志家であるとかが、ああ、なるほど、こんな村があったのかということで、支援をし始めてくれたりする。市の役人とかも、そこに表敬訪問に来るようになる。

学生たちは、こういうこともあるのかということで味をしめると、じゃあこっちから近くの高校に行って授業をしようということになる。でも高校生相手に、ハンセン病の授業と言っても生徒が集まらないから「日本を知っているか?講座」みたいなのをすると、生徒も集まってきていろいろ関心を示してくれる。そうやって来たのをうまく捕まえて、ハンセン病というのは怖くない病気でどうのこうのという話をすると、じゃあ今度村に遊びにおいでよ、ということになって、大勢の高校生たちが村に遊びに来るようになる。そういった変化が現れてきています。

 

以上、日中の学生たちが中国のハンセン病回復村で行っているワークキャンプによってどんな変化がおきているのかを断片的にお話しさせていただきましたが、それとどうCBRが絡むのかという本質的な部分に関しては、はなはだ心もとない限りです。今日紹介させていただいた小さな変化のひとつひとつがどこかでCBRと関係しているのではないかなと思いながら拙い報告とさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

 

高嶺 大変ユニークな発表をありがとうございました。このハンセン病の問題、このボランティアの問題、CBRの切り口からぜひ質問あるいはコメントがあればと思いますが、いかがでしょうか。

 

チャパル どうもありがとうございます。とても楽しいプレゼンテーションでした。明日、私はCBRとハンセン病について講演をすることになっています。両方の分野に取り組んできましたが、確かに両者には強い結びつきがあると私は考えております。

質問が1つ、コメントが1つあります。質問は、ハンセン病回復村に住んでいる元患者さんの平均年齢はいくつぐらいでしょうか。

それから、コメントです。私たちは、更に多くのハンセン病の元患者さんたちが社会の他の人たちと同じように扱われるようにすべく、非常に活動的に、精力的に取り組んでいます。去年、WHO/ILEP(世界ハンセン病団体連合)がテクニカルガイドを出版しましたが、これはCBRとハンセン病だけを扱っています。CBRガイドラインでは、特別に章を割いて、4つの問題を取り上げています。それらは、まさにCBRの外側と考えられていますが、実はCBRと非常に結びついている課題です。

1つはHIV/エイズ、2番目は精神保健、そして3番目がハンセン病、そして4番目が危機つまり災害におけるCBRの4つです。ケーススタディがいろいろと行われていますけれども、CBRとこのハンセン病というのは非常に深い結びつきがあります。そしてハンセン病の問題がどのように扱われるかが、社会的偏見を生み出していると私は強く思っています。ですから、思い切った方法を取って、この障壁を打ち砕かなければなりません。さもないともう一世紀の間、同じ状況が続くことになります。

 

西尾 どうもありがとうございました。ハンセン病の回復者の平均年齢ですが、日本は80歳ぐらい、中国が70歳ぐらいだと思います。中国の70歳というのは、2004年の調査です。学生が年間日本から100人、航空券代も含め全部自腹で行くんですけれども、なぜそんなに行くのですかというのをよく聞かれます。早稲田大学のボランティアセンターのプログラムは20か30個ぐらいあるんですね。環境問題に取り組んだり、ストリートチルドレンの問題に取り組んだり、いろいろあるんですが、参加者数が一番多いのがハンセン病なんですね。「何で?」とよく聞かれるんですけれども、僕もちょっとよくわからないのが本音なんです。おそらく考えられるのは、今の日本の若者がおかれている環境というのは、20歳ぐらいになるまで、人の死と向かいあった経験がないと思うのですね。なんですが、中国で70歳ぐらいとなると、「去年いた、あのおじいちゃんは?」って聞くと、もう亡くなったというケースがもう結構ある。ハンセンの村の人の数がどんどんどんどん減っていっている。それに対するショックというか、何て言うか、学生が初めてそこで人の死と向かい合うことによる衝撃が多いのかなというふうに見ています。

ハンセン病の問題は、もう制圧傾向にありますし、新しくかかっても治りますから、中国のハンセン病村も、10年先、20年先にはおそらくなくなると思います。その「なくなる」ということを意識しつつ、学生たち、特に中国の学生が頑張っていますが、今できることを一生懸命やろうとしているのではないかなと思います。

 

高嶺 どうもありがとうございました。おそらくこのハンセン病の問題というのは、インクルーシブ・ディベロップメントのほとんど逆ですよね。エクスクルーシブ(排他的)な社会で起こりうる問題がクリアになっている問題だというふうに思います。先ほどチャパルさんがおっしゃったようにHIV/エイズもそうですし、精神障害の問題というのもほとんどこのハンセン病に近いですよね。そのへんの経験が、排他的な要素、日本はおそらく今、すごくそういう要素が強い社会になってきていると思うんですけれども、それに対する取り組みとして、ここからいろいろ学べることではないかというふうに思っておりました。どうもありがとうございました。

今回の発表、前半はこれで終わりです。講師、発表者の皆さん、本当にありがとうございました。皆さんに拍手をお願いして終わりたいと思います。