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障害者放送協議会 放送・通信バリアフリーセミナー
障害者と放送・通信

第2部 
質疑応答

<荒井氏>
お二人の方お疲れ様でした。後半30 分ほど質疑応答という時間を設けておりますので宜しくお願い致します。今、私の手元に会場からの質問用紙が2枚ほどきています。まずは会場から質問を受ける前に、提出して頂いておりますこのペーパーの質問に答えて頂きたいと思います。まずケニーさんに質問があります。

<質問者>
アメリカでは映画の中で通行人として車椅子の人が通っていたり、スピルバーグでしたか「A.I.」のように障害のある俳優が、壊れたロボットの役を演じたりしていますが、それは当事者の方の運動があって実現した事なのでしょうか。ケニーさんお答えいただけますでしょうか。

<フリース氏>
そういうことは滅多にあることではないと思います。映画において障害を持つ俳優のキャスティングを決める際に、障害者の組織が影響力を持っているとは思いません。私の友人は障害を有する俳優ですが、役をもらうのにひどく苦労しています。もしもらえたら、運がいいということでしょう。私はそう思います。障害者の役を障害者ではない俳優が演じるというのが、通常でしょう。例えばエックスメンという映画では、パトリック・スチュワートが車椅子の人間を演じていましたが、彼は障害者じゃありません。

<荒井氏>
以上、ケニーさんからのお答えですけれども質問頂いた方よろしいでしょうか?それではもう一つきています。ちょっと長文なものなので、まとめきれなので読み上げてまいります。

<質問者>
2005 年1 月からNHKのデジタルラジオの試用放送の中に、「ハートトーク133」というレギュラーの番組がデジタルラジオで計7 回放送されました。NHKの事情で、この番組が残念ながら終了しました。私がろう者で、その番組のパーソナリティとして計6回出演しました。その番組を通して思った事、気づいた事を書きます。ラジオという機器を利用して、見える文字や緊急災害連絡の機能を持たせた、新しい技術を提案しているとよく聞きます。しかし聞こえない人が楽しむ番組なのに、従来のラジオにそういう機能を付けて、聞こえない人に「持ちなさい」ということ自体に非常に疑問を感じました。それは放送の間に思った事です。楽しむ物が無ければ聞こえない人にとっては、ラジオがお荷物的な存在にすぎません。楽しむ番組があって、更に災害情報などの役立つ機能があって、始めてラジオの役割が果たされたと思っています。技術先行に思い込みを入れすぎて、ラジオの娯楽性を無視することはいけないことだと思います。テレビにおいても見えない人にとっては同様だと思います。技術開発でも娯楽性を見失っていては、この新しい技術が宝の持ち腐れになってしまいます。

そしてラジオで話す為のシナリオを作成する段階で思ったことは、ケニーさんの言われる通り、障害者のモデルが重要だと感じられました。慈善的イメージを打破するために、ろう文化とろう者の本当の姿とユーモアを盛り込んで、シナリオを作成して放送しました。試用放送であって、新聞などに大きな宣伝にならず計7 回で終了されたことは残念でしたが、一つの試みとしてイメージを変える放送をする事自体が、今後続けることが非常に大切なのではないでしょうか。それを、NHKをはじめ民放がどう受け止められるか。NHK側の聞こえる人達の理解がカギとなると思います。

<荒井氏>
というコメントを頂いております。ラジオの世界といいますか、ラジオの分野なのでテレビの方では中々難しいと思いますけれど、何かコメントを頂けたらと思います。

<泉谷氏>
技術が先行しているというのは、私達ソフトコンテンツ制作者にとっては、あります。腹立たしい部分はあります。というのは結局「これが出来るから、あなた達番組を作ってよ」というような感じで、いわば非常にレアな形でどんっと投げられて「いったいどうするのよ」というようなことが沢山、今迄もありました。とはいえ出来ちゃったものですから、これからコンテンツを充実していくのは私達の義務なのです。当然、義務であります。それで楽しい番組を、この方は作っているとお思いだったにも関わらず止めちゃったという事は、お金の問題か何なのか、要するに制作者のスタンスが悪いのか良く分かりませんが、当然面白い番組を作らない限りでは受け入れて頂けないということは十分承知しておりますので「頑張ります」と。ラジオにとっても、テレビにとっても同じことでありまして「頑張ります」というふうに言えないかなと思います。

<荒井氏>
ありがとうございます。この書かれた方のペーパーの中に、やはりもう一つありました。障害者放送協議会とはどういう組織なのかよく理解出来ないというコメントが一つ。それから、会場内の配置が手話通訳の方・文字通訳を利用する当事者の立場がどうも無視されていると。具体的に現状はこうだと、でも改善する時はこうだというような配置図も頂ました。これは事務局の方に上げておいて、次回こういうセミナーの機会があれば、また会場の配置等々をきちんと、またこちらの発言者の意図が伝わるように、会場配置も含め、機器の配置も含め改善していきたいと思いますので、これは受け止めさせて頂きます。その他に、私のここに届いているペーパー2種類ですけれども、どうぞ会場の中から、もし先ほどの発言の中で確認したい事、この事はもう少し詳しくという事があればどうぞ挙手をして下さい。いかがでしょうか。

<質問者>
静岡福祉大学のオオタと申します。貴重なお話しありがとうございました。フリースさんに2つご質問があるのですが、1つは、例えば先日オリンピックがあって頑張る姿に私達は感動するわけです。それから、例えば癌にかかって闘病している人、そういった方を応援する事があります。障害とは切り離して言っている訳ですが、私達がそう思う感情について障害学ではどの様に評価をする、位置付けていらっしゃるのか、これが1つ目の質問です。

それから2つ目に、障害が医学的でかつ治療すべき状態ではなくて、周囲との環境との間で生まれるある状況であると、そのような考え方がWHOなどで出されていますが、そういった考え方について、やはり同じく障害学という学問分野ではどの様に位置付けていらっしゃるのか、この2つをお聞きしたいと思っています。

<荒井氏>
それではケニーさん、2点。コメントをお願いします。

<フリース氏>
二つは全く違う質問ですね。どのようにお答えしましょうか。

最近、新聞に記事が出ていました。どこの記事でしたかね。たぶんジャパンタイムズでしょう。私が読んでいるのがジャパンタイムズですから。内容は、冬季オリンピックはエリートのためのもの、すなわち選手を支援することのできる人達のもの、というものです。競技で優位に立って実際に勝利している選手を見ると、大抵は先進国の選手です。ですからオリンピックの選手を応援するということは、究極的には選手や選手の成績に声援を送っているのではなく、選手たちを支えている経済システムに声援を送っていることになるのです。同様に障害者の場合でも、障害者がうまくこの世の中で生活を切り開いていったかどうか、ということが問題ではないのです。問題はなぜその人はうまくやれたか、ということです。

ここで、数年前米国で大きな話題をさらったエピソードを紹介したいと思います。映画化もされました。ある女性がいて、この人はハーバードに進みました。ハーバードといえば一流大学、世界でも指折りの大学といっていいでしょう。当人は重度の障害があって、マスコミ報道もテレビ映画もその女性の生活を描いたものなのです。名前はブルック・アリソンといい、描かれているのは、彼女の母親がノートを取り、その他身の回りのことをして彼女を卒業まで手伝う、というものです。

見た時最初に私が思ったのは、家族の元を離れ、他の子供達から離れ、仕事も持たないでこんなことをできる母親を持っている人が、世の中に何人いるかという疑問です。私の目からすれば母親が当人を助けたのではなく、社会が母親にそうすることを強制したということだということになります。本当は経済の話なのに、一個人のストーリーとして描かれていました。問題は、物事を見るときに個人の闘争としてみてしまうことです。本当は個人の闘争を超えた多くのストーリーがあるのにです。枠組みがあることを忘れてはいけないのです。

ところで皆さん米国のオリンピック報道の仕方をご存知かどうか知りませんが、米国ではこの盲目の選手の母親はどうだとかそういった話ばかりです。日本にいてNHK でオリンピックを見ていて嬉しいのは、コマーシャルなしに、こうしたいわゆる「ストーリー」に惑わされることなしに競技だけを見られるということです。これで前半部分に対してはお答えしました。

二番目の質問ですが、こういう風に申し上げましょう。人は私が気でも狂ったかと思うかもしれませんが、障害というものは実は存在しないのだと思います。実際私の研究はそこに帰着します。障害とは人間が作り出したカテゴリーです。障害とは何か,私たちはその定義をなぜ、どこで、どのようにして決めるのでしょうか。そのように問われると、私には簡単に答えることができません。私たち誰もがある意味で障害者だと思います。私の障害が他の人と違うとすれば、私は障害者だと見られて、それなりの処遇を受ける点です。でも誰だって、限界を持っているのです。アン・フィンガーがこの点をうまく表現しています。彼女に言わせれば、「オートバイに乗るのがかっこいいなら、どうして車椅子に乗るのはかっこよくないの?」となります。(両者の区別は)全く恣意的です。

違いを考えてみましょう。「ねえ、車椅子に乗るって、かっこいいじゃない。」。そうなると全く世界が変わります。私はそういう考え方だし、私の長年の研究の帰着するところはそこです。これで質問の回答になったかわかりませんが、そんな考えが心に浮かびました。

<荒井氏>
ありがとうございます。司会者の本音としては、障害論とは何かという議論の深いところに行かないように交通整理するつもりなのですけども、他にございますでしょうか。もしくはコメンテーターの方から何か言い足りなかった事、せっかくまだ15分もありますので、よろしいでしょうか?

<泉谷氏>
さっきの第一部のセッションのところで*2アテネのパラリンピックの扱いについてというご質問、ご意見があったと思うのです。おっしゃる通り、やはりパラリンピックが、まだ福祉番組の粋を出ていないということに関しては実はあります。私は今、編成局という所におりまして、微力ながらそういうことは少しずつ変えて行こうという立場にありまして、実はパラリンピックの番組始まる前哨戦は、教育テレビで本放送があるのですけれども、すぐに総合テレビで再放送するようにしました。前のアテネの時は、実は総合テレビでそれがなかったものですから、それは私の中で非常に大きな反省だったもので、トリノではすぐに総合テレビで出るというふうにしましたし、それから3 月21 日の朝なのですけれども、トリノのパラリンピックの総集編に関しては、生放送で朝の8 時35 分から編成することにしました。ですから「福祉番組なのだから全部もう教育テレビでいいんじゃないの」というような気分というのが、やはりどこかに誰かの中にあるということを全部じゃないですけど、少し少しずつでも突き崩していくということが大事だと思って、今回は2 つの番組を総合テレビの方で、積極的に編成をさせて頂きました。今は番組作っていませんけれども、頑張りますので宜しく、ちょっとずつですが頑張ります。

<荒井氏>
有り難うございます。これで皆さん視聴率が上がるかと思います。どの様な、いつの時間に、いつなのか、何を流すのだということで注目していきたいと思います。時間のことばかりで申し訳ございません。10分ございます。もうたっぷりの時間だと思いますけれども他にございませんでしょうか。

<質問者>
岩井と申します。泉谷さんの方から、大阪放送局での積極的な当事者の目線になった番組作りの報告をいただいたわけですけれども、こうした事が大阪だから出来たのかなと、本体ではどうなのかなということが非常に気になっているわけです。そこで質問なのですが、やはり当事者がそういった番組制作の側にも入るという事が非常に大きいのではないかと思うのですが、リハ協の方でレポートを出していらっしゃる、障害者とメディアとかそういった部分で、英国の状況なんかではBBC 英国放送局にはそういった当事者のレポーター、あるいはディレクターがいらっしゃるというふうな報告を拝見しました。そこで、例えば同じ公共放送としての障害者、当事者が番組制作等に入ってらっしゃるようなそういう事例はないのか、或いはそういう米国等ではどうなのか、そういった部分で、もしわかるようであれば教えて頂きたいなと思います。

<泉谷氏>
日本の場合ですけど、放送の現場でどれだけ当事者の方がいらっしゃるかいう事ですが、坂井 律子もここにいますけども、彼女のセクションにもいました。実際に車椅子の職員が福祉番組を作っているという事もあります。制作現場にいるのですけど、実際の話しで言うと障害者だから障害者の番組作りたくないと言って、色々な現場に散っているという事はあります。ですから、実際に一つのパワーとして集約しなければならないのは、確かに障害者の福祉番組のところだとは思いますが、色々な所に今いるという、活動しています。だから逆に言うと「僕が、障害があるからといって、僕の仕事を規定して欲しくない」というようなことで色々な現場にいると。学校放送の現場だったりとか、ああいうところにいます。それは本人のやはり意思だし、そっちは私たちが規定する方がおかしいと思うので、そういう状況になっております。

<荒井氏>
それはNHKの仕組みの中できちんと保証されると、言い方おかしいのですけども、泉谷さんとか坂井さん頑張ってらっしゃるから、障害をお持ちの方がなんとか現場に配属された、ということではなく、NHK全体の姿勢としては、当事者の方が参画しての番組作りをしていこうという姿勢の中で現れていると理解して宜しいですか。

<坂井氏>
私はNHKを代表して答えられないのですけれども、理解している範囲では障害のある方達をどこの部署でも配属するというように、さっき泉谷さんが言ったように法定雇用率に則って雇用をしているというのが第一ではないかと理解しています。現実にNHKは、視覚障害者の番組はもちろん、出演者としては出て頂いていますし、聴覚障害者の例えば、「みんなの手話」に講師の方はろう者の方であるとか、そういった出演者としては出て頂いていますけれども、ディレクターに視覚障害者のディレクター、聴覚障害者のディレクターというのは東京ではいない、大阪でもいないですね。

<泉谷氏>
私の夢だけどね。

<坂井氏>
それは私達の夢でありますけれども、いないということで、勿論今のお話しで出たBBCが「See.Hear」という番組で聴覚障害のプロデューサーがいらっしゃって、それから視覚障害のピーターホワイトさんという方が長年、職員でいらっしゃるかどうか存じ上げませんけれども、視覚障害者の番組のコレスポンダントっていう言い方を確かしていらっしゃったと思いますが、いらっしゃるというふうに聞いています。そういった形ではNHKはまだ実現していない。それからさっきちょっと公共放送で、当事者の方が製作に関わっている例がないかというご質問だったのですけれども、一つだけ、私が取材した事があるのはスウェーデンの公共放送SVPという放送局が、手話番組部の作る手話番組を全面的に聴覚障害者の団体に委託というか、全面的に作ってもらうということを試みていた時代があります。それはそこに行って少しお話を伺ったのですけれども、1970年代にヨーロッパで原発に対する色々な少数意見というか、原発に対する反対運動が非常に起こった時に、聴覚障害者の団体の方が原発反対のビデオを作ろうとしたにも関わらず、健常者がそれに介入したために、全く違う主張のビデオが出来てしまった。そういう事があってスウェーデン放送協会の中に、手話番組部を聴覚障害者の人達が担うということが起きて、しばらく委託をしていたそうなのです。つい数年前に、スウェーデンの放送協会の方に、その編集権が戻されていると。ただその手話番組部で働いてらっしゃる方の数を忘れたのですけれども、半数が聴覚障害者。スウェーデン放送協会職員の聴覚障害者で、もう半分は健常者の職員で、しかし完全に手話が出来るバイリンガルの方という事で、手話番組部の構成員が全員、つまり作っているディレクターはスウェーデン放送協会の職員ですけれども、全員手話ができるという状態であるというのを取材したことがありました。これもすごく一つの取り組み方だなというふうに思いました。すみません、ちょっと長くなりました。ごめんなさい。

<荒井氏>
有り難うございました。ケニーさん。そういう作り手側に当事者の方が参加している件について、ユニークな活動とか面白い・知っている範囲で、もしお答えいただければ有難いです。

<フリース氏>
恐らく放送の世界で、障害者として最も有名なのはジョン・ハーケンベリーでしょう。彼は昔ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)にいて、その後NBC ニュースに移りました。また具体的に障害関係の番組も2,3 手がけています。とても有名な人で、障害を有する放送関係者としての経験をつづった、「Moving.Violation」という回想録も残しています。恐らくこの分野では最も有名な人物です。俳優のほうではマーレー・マットリンはよく知られた女優で,テレビなどにも登場していました。舞台裏がどうなっているか私は知りませんが、障害を有する俳優というのは多くないでしょう。多ければ状況は少し変わったでしょうから。これは私の推測です。でもハーケンベリーは恐らくテレビ界では最も傑出した障害者でしょう。今当人はどうしているのか知りません。彼のやっていたテレビ番組は知っていますが、ここしばらくテレビに出ていませんから。

しかし彼はNPR の記者として中東に行き、戦争取材もしており、そのストーリーはとても興味深いものです。というのが取材対象の事件だけでなく、障害者としての仕事振りが興味を引きます。ある種、すごいといえます。

<高岡氏>
高岡です。ケニーさんの話の中では、歴史的に社会的に障害者が悪いイメージ、マイナスイメージを持った存在として、ずっと描かれ続けてきた。そのことが普通の社会でも、健常者でもマイナスのイメージが刷り込まれてしまった。そこに私達、障害者自身もマイナスイメージを持たされてきたという事があるのです。やっぱりその方向を変えるのは、アメリカのように障害者自身がそういうことに気が付いてどんどん活動していく、情報を発信していくってことが大事だなというふうに感じたのです。放送の現場においては障害を持った人がいるのだけれども、そうした社会観・障害者観を変えるという部分に障害者が出てこないというのも、ある意味では、まだマイナスのイメージを引きずっているのではないかなと思いました。実際に放送の現場で、障害者が色々な役割を持って活動するという環境があるのかどうか、力を発揮するような仕組みがあるのかどうかという事も懸念されます。

確かに今は、健常者の方が障害者の問題を取り上げて頂いていると言ったら変ですけれども、取り上げているのも一つの過渡期だと思うのです。いずれは色々な障害を持った人が、番組制作もそうですし、色々な分野で力が発揮されるようになると思うのです。実際に私の報告でもお話ししましたCS障害者放送統一機構は、聴覚障害者自身が番組の制作に関わっています。ディレクターをやったり、カメラを担当したり色々な役割をして立派に番組を作ることが出来るのです。また各地の聴覚障害者の情報提供施設では、聞こえない人がビデオの番組を作ったりして配布しています。そうしたことを、NHKも、放送事業者も、もっと取り上げて欲しいと思うのです。今は、障害者は力があるのだということを社会に示さないと変わらないので、障害者にある意味の角度をもって取り上げるというのは、今は重要な時期かと思います。昨年障害者自立支援法が大きな問題になって、国会で大騒ぎになったのですけれども、NHKは民法に比べると取り上げ方が少し弱かった。それはやっぱり記者の中に障害者がいなかった、或いは障害者を接している記者がいなかったので、取り上げ方が弱かったのではないかなと思うのです。ですからNHKも民法の方も、もっともっと普通にどんどんこういう場所にも出てきて欲しいし、私達も呼んで欲しい、色々変えていきたいと思うのです。どうも有り難うございました。

<荒井氏>
第2部の締めのコメントとして受け止めさせて頂きます。お約束の時間をちょっとまわっ てしまいました、すみません。マイク司会者にお戻しいたしますので宜しくお願い致します。 ご苦労様でした。