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第22回総合リハビリテーション研究大会
「地域におけるリハビリテーションの実践」-総合リハビリテーションを問い直す-報告書

【実践報告1】:施設を出て町に暮らす

小林 繁市
伊達市地域生活支援センター

  町で暮らす旭寮の朝(ビデオ)

・(虫の音)知的障害者総合援護施設「太陽の園」の近くから、伊達市内を展望しています。室蘭本線の伊達紋別駅から市街地を車で数分行くと、伊達市地域生活支援センターがあり、その中に通勤センター旭寮があります。入寮生の出勤前の朝の日課が始まります。寮生は個室を使っていますので、そこでの生活はすべて自分でとりしきることになっています。通勤寮での生活訓練の効果がだいぶあらわれているようですね。掃除機の使い方も堂に入っています。
・(いただきまーす)
 朝夕の食事は、調理員の方と寮生が協力して自分たちで用意します。出勤に合わせてそれぞれが食卓につきます。これはお昼の弁当箱ですね。自分で弁当を詰めていきます。後始末も自分たちでします。通勤寮からはやく地域の生活に移りたい人たちが毎日がんばっています。7時半頃になると旭寮前の道に集まります。この人は阿部君といいますが、のちほど職場を訪問したいと思います。
・(あれ、ずいぶん時間早いなあ)
 近くのグループホームの人たちも旭寮に顔を出してから、ここで一緒に待っています。職場によって、歩いて行く人、自転車の人、お迎えの車で行く人、さまざまです。早く職場に行きたいという雰囲気がうかがえますね。 ・これは製菓会社のマイクロバスです。ここには何人かの人たちが一緒に乗り合わせています。寮生の皆さんを送り出してから、センターの朝の連絡会議がもたれます。

 北海道伊達市

 用意させてもらいました「施設を出て町に暮らす」という資料で、伊達の町の地域生活支援の様子について説明したいと思います。
 いまビデオで紹介された伊達市は、北海道の片田舎にある農業漁業を基幹産業とした人口3万5千の小さな町です。その小さな田舎町に、ビデオにあった通勤センター旭寮を中心として、グループホームやアパートなどで暮らしている人、結婚してカップルで暮らしている人など、241名が地域生活支援センターの援助を受けながら暮らしています。私たちのセンターには、障害を持つ人達の暮らしの様子や支援の様子を見たいと、年間千人くらいの人が訪れますが、ビデオにあったように以前に三ツ木先生も訪れて下さいました。

 「施設を出て町に暮らす」の出版

 伊達市を訪れる人が、急に増えてきたのは4、5年前からのことです。その理由は2つあると思われます。一つは、私共が出版した「施設を出て町に暮らす」という本を読んで、伊達市に興味を持っていただいた方々です。この本は現在第7刷になっておりますが、もし買って読んでいただければ、私たちの所に2割の印税が入り、それが伊達市の地域生活推進基金になります。
 この本は最初、入所定員400名の知的障害者総合援護施設「北海道立太陽の園」に、出版の依頼がありました。その内容は、太陽の園におけるリハビリテーションシステム、つまり生活自立プログラム、職業自立プログラム、体力作りなどの自立プログラムによって、どのように入所者の能力開発が図られ、そしてどのように社会復帰を進めているかを具体的に紹介してほしい、ということでした。当初私たちも、それにあわせて原稿を書きました。しかし実際には、知的障害を持つ人達が施設に入って再び社会に戻れるのは全国平均で1%位、太陽の園でも3%程度で、他の圧倒的多くの人達は一生涯にわたって施設で暮らすことになります。そういった意味においては、現在の知的障害者の施設におけるリハビリテーションシステムは、ほとんどその機能を発揮していないのです。
 そこで、私たちは発想を転換しました。もし町の中で暮らすのに10の力が必要だとしたら、これまでのように本人達に10の力をつけようとするのではなく、8の力を持っている人には2の支援を、5の力をもっいる人は5の支援を、合わせて10の力になれば町に暮らせるのではないか、と考えたのです。
 私にはこの眼鏡があるので、後ろの方の席までよく見えます。車の運転もできます。私は一生涯この眼鏡をなくすることはできません。もう身体の一部になっています。同じように知的障害を持つ人達には、どこで暮らしても、一生涯「人の支援」という「眼鏡」が必要なのです。こうした考え方のもとに、一人一人の能力をどう高めていくかという視点ではなく、支援のメガネをどう作っていくかということをこの本のメインテーマにしました。この本を読んだかたがたのうち、こうしたテーマに共感してくださった方々が、わざわざ伊達までおいで下さる訳です。

 バンクミケルセン記念賞を受賞して

 もう一つの理由は、1994年に「第1回N・E・バンクミケルセン記念賞」を受賞したことです。ノーマライゼーションという福祉の理念があります。これは「障害をもつ人も持たない人も同じ市民として地域の中で共に生きる」という共生理念です。この理念を提唱した人は、バンク・ミケルセンというデンマークの人で、今からちょうど40年前の1959年に、この理念がデンマークの法律になりました。この方が1990年に亡くなり、その偉業を讃えようということからバンク・ミケルセン記念財団ができ、その財団の事業として記念賞が設けられました。その第1回を伊達市がいただいて、このことにより私たちの実践が全国に知られるようになったのです。
 バンクミケルセンが提唱したノーマライゼーションの理念は、日本では「正常化」と訳されています。正常な状態にしていこう、ノーマルな状態にしていこう、という運動理念ですが、その前提には、今はノーマルな状態でない、アブノーマルな状態だからノーマルな状態にしていこうという考え方があります。では、何がノーマルで何がアブノーマルなのか、ということになります。今まで私たちが福祉や教育の中で取り組んできたことは、障害を持つ人たちはノーマルな人ではない、アブノーマルな人たちだから、なんとかノーマルな人に近づけようという考え方がありました。こうした考え方に沿って、施設でもなんとか健常者に近づけようと、日々更生訓練を重ねています。
 私は身体障害者です。右足が左足より3センチメートル短く、太さも3分の2位しかありません。どんなにがんばっても、同じ足の長さにはならないのです。ですから、バンクミケルセンが主張したノーマライゼーションという理念からみれば、障害をもっているからといって、あるいは年を取って弱い立場になったからといって、一般社会から分離して人里離れた施設で生活したり、訓練したり、教育したりするのは、ノーマルな状態ではないということになります。障害を持つ人も持たない人も同じ市民として町のなかで隣り合わせて暮らす、それがノーマルな社会なんだ、というのがノーマライゼーションの理念です。こうした理念の提唱者であるバンクミケルセン記念賞をいただいたことは、大変な名誉だと思っています。

 デンマークとの違い

 バンクミケルセンはデンマークの人です。ですから第2回はデンマークから選ぼうということになりました。ところが、デンマークではなかなか該当者がなかったそうです。なぜかといいますと、デンマークでは、障害を持つ人達が地域の中に住むのは当たり前のことです。ですから、伊達市のように障害を持つ人たちが町の中にたくさん住んでいるからといって、賞の対象にはならないのです。また障害を持つ人達が伊達にたくさん集まるのは、どこかに締め出すところがあるからで、それぞれの市町村でしっかり支えることができれば、一つの町に集中することはありません。ですから、伊達のようにたくさんの障害を持つ人達が住んでいるという町はデンマークではあり得ない訳です。
 最近のデンマークでは、QOLが最大の課題となっています。さらにその中での最大のテーマは、性や結婚の問題です。そこで第2回バンクミケルセン記念賞は、その問題に取り組んでいる大学の先生が受賞しました。これまで私たちは、この賞をいただいたことに対して名誉だと思ってきましたが、ある意味では、これは日本の福祉の後進性の証明でもある訳です。
 伊達市では、今も毎年10人ぐらいは障害をもつ人たちが増えています。施設から出て町に住む人もいるし、他の市町村から引っ越して来る人もいます。道内だけでなく、道外からも引っ越して来ます。1カ所に障害をもつ人たちが集中するのは、決して正常な状態ではない、ノーマライゼーションではないと思います。ですから、伊達のようにたくさん障害を持つ人達が集まっている町が、本当にバンクミケルセン記念賞に値するのか、と考えてしまいます。

 障害者が暮らす住居マップ

 資料の伊達市内住居図マップを参照して下さい。これは障害をもつ人たちの暮らしの場です。62番まで番号がありますが、グループホームやアパートの名前です。2番に猿橋アパート(5戸)とありますが、これは5戸の猿橋さんのアパートを借りているという意味です。これらを合計しますと80戸になりますが、これらの住居に障害を持つ人達が一人で暮らしたり、カップルやグループで暮らしています。ごく少数ですが、家族と暮らしている人もいます。これらの住居に住んでいる241人の人達を支援するためのセンターが、私が勤務する伊達市地域生活支援センターです。

 伊達市地域生活支援センター

 伊達市地域生活支援センターは二つの機能を持っています。一つは、先ほどビデオで紹介していただいた「通勤センター旭寮」と、もう一つは「地域援助センターらいむ」です。通勤センター旭寮の入寮期間は原則として2年です。原則ですから、短い人は6か月、長い人で3年以上の人もいます。現在の平均の在園年数は1年9か月です。ここでの役割は、ビデオで食事のシーンや掃除のシーンなどがありましたが、入寮者に対して身辺、調理、金銭、余暇、健康管理、対人関係の調整等、独立自活に必要な指導援助を行い、社会適応能力を高めて地域生活の実現を図ることです。いわゆる「育ての機能」です。
 それにあわせて、経過観察の機能があります。本人がはたしてどの程度の力をもっているのか。グループホームやアパートで暮らすためには、どのような支援が必要か。一緒に暮らす仲間はどのような組み合わせがいいのか。いろいろ観察しながら、本人達とも具体的に相談して、地域に移るにあたっての具体的な支援計画を作成します。
 通勤寮から出てグループホームやアパートなどに移ると、支援は「地域援助センターらいむ」に移ります。以前は指導部門「通勤センター旭寮」しかなかったのですが、地域生活者の増加に伴って、新たに地域生活者の支援部門「地域援助センターらいむ」を併設しました。この二つを総称して「伊達市地域生活支援センター」と言っています。
 支援センターは現在241名の障害を持つ人達を支援していますが、これらの人たちの83%は、知的障害者総合援護施設「太陽の園」の出身者です。太陽の園は入所定員400名の北海道立の施設として、全道各地の市町村から入所しました。昭和43年に開設されて以来これまで約700名の人達が卒園していますが、そのうち200名は卒園時に出身地に戻れずに伊達市に住むことになりました。このように、現在伊達市に住んでいる人の大部分は、伊達市で生まれ育った人達でなく、他市町村の出身者なのです。

 二つの基本理念

 太陽の園が開設されたとき、二つの基本理念がありました。
 一つは「一生涯の援助」です。当時はまだまだ施設が足りない、福祉が貧困な時代で、家族の多くは、障害をもつ人をかかえて苦しんでいました。こうした状況のなかで、一生涯にわたって面倒をみてくれる施設がほしいというのが、当時の親の思いでした。こうした親の切なる願いを受けて、必要であれば一生涯お世話しますということを旗印にして、太陽の園は誕生しました。狭き門を突破して太陽の園に子供を入れることのできた親たちは、「これでこの子を残して安心して死ねる」とか、「施設にお願いできたので、これで私たち夫婦も普通の暮らしができる」と喜びました。これに対して、私たち職員も「任せてください。一生涯、責任をもってお世話します」と胸を張って答えていました。この「一生涯にわたる援助」が、第一の基本理念です。
 もう一つは、「ともに生きる」ということです。太陽の園は、日本で最初の公立コロニーと言われています。106ヘクタールという広大な敷地の中で、牛や豚を飼ったり、畑や田圃を耕したり、炭を焼いたりして、400名の入所者と121名(当時)の職員が一生涯にわたって、一つの生活共同体として暮らして行こうという考えがありました。しかしコロニーの中で、施設のなかでということが前提でした。
 しかし、本人達にきくと、「町のなかで普通に暮らしたい」という人がほとんどでした。また将来「結婚したい」という人もいました。こうした本人たちの願いを受けて、私たちは、町のなかで暮らせるように、いわば社会復帰への取り組みを開始します。こうした実践の成果が実り、開設以来30年の歩みの中で、今は200名以上の人達が伊達市の普通の市民として暮らすまでになりました。
 太陽の園創立時の二つの理念は今も生きています。伊達にいる限り、施設で暮らしても、町の中で暮らしても、誰とどこで暮らしていても、「一生涯にわたって支援する」ということは今も変わっていません。しかし、それは施設の中でという限られたものではなく、伊達市の中で一生涯にわたって支援する、と言うふうに大きく広がってきています。  もう一つの「ともに生きる」ということも、施設のなかだけでともに生きるのではなく、伊達市民3万5千人のなかで、ともに生きていく、そんなふうに、施設という狭い枠から出て、「まちづくり」と言う考え方に変わってきました。施設ではなく「町のなかで一生涯にわたって支援をする」、そして「町の中で障害をもつ人ももたない人もともに生きる」というのが、今の基本的な考え方です。
 先ほど紹介した町に暮らしている人たちの住宅は、すべて民家で、一般の住宅を借りて住んでいます。これらの家は、支援センターから2キロくらいの、町の真ん中にあります。知的障害をもつ人達の多くは車の運転ができません。歩くか、自転車で移動することになりますので、町の便利な所でなければ暮らせないのです。車のある人はどこに住んでも暮らせますが、ない人は町の中でないと暮らせません。これまでは、障害をもつ人を隅っこに追いやって、障害を持たない人が町の真ん中を独占していましたが、これは逆ではないかと思います。支援センターから2キロ位の距離というのは、本人たちが自由に来られる、気軽に寄れる距離ということです。実際的には、借家は町の中にしかありません。辺鄙なところに住宅を作っても、借りてくれる人がいないわけです。ですから、借家中心で住居を確保して行きますと、当然町のなかに集中するということになります。

 多様なホームの支援形態

資料の3ページは、地域住居を開設して行った経過です。平成10年度だけでも、16戸の住居を開設しています。たくさんの住居が開設されていることに驚く方もいるかも知れませんが、人生は待ってはくれません。知的障害をもつ人たちの支援にあたって、よく「のんき・こんき・げんき」、ということがいわれます。しかし私たちがのんきにしていると、最も人生の可能性のある時期を失ってしまいます。ですから私たちは制度があってもなくても、できる限りニーズに応えて住居を開設するようにしています。
 この表の住居形態の欄に、(同居)というのがありますが、これはグループホームにヘルパーさん、いわゆる世話人さんが一緒に暮らしているという意味です。(6H)というのは、ヘルパーさんが朝方2時間、夕方4時間合わせて6時間通って来るということです。(2H)、(3H)は、夕方2時間、あるいは3時間通ってきます。このように、障害をもつ人たちのニーズに合わせてグループホームの支援形態も多様です。29番目のホーム「いしずえ」は(24H)となっていますが、これは24時間ケアの必要なホームです。今伊達市では障害の重い人や高齢の人たちの社会参加を進めていますが、これらのホームは2人の世話人さんの交代勤務で24時間のケアを行っています。
 この10月新たに2カ所のホームを開設しましたが、一カ所は高齢のために、おしっこが極端に近かったり、少し痴呆のある人達を対象にしたホームです。ここは世話人さんが3人交替でお世話をします。もう一つのホームは、知的障害者と精神障害者が一緒に暮らすグループホームです。このように、グループホームは入居者に会わせて多様な支援形態を取っています。

 支援ネットワーク

 4ページを参照して下さい。私が勤務する「伊達市地域生活支援センター」は2つの役割を持っています。一つは「地域生活者支援機能」、いわゆる本人支援の役割です。もう一つは、「支援ネットワーク推進機能」、町づくりの役割です。
 一つ目の地域生活支援機能、つまり本人支援は、さらに2つの機能に分かれます。通勤寮としての「育て」の機能です。もう一つは、地域に暮らしている人達の支援機能で、この役割は地域援助センターらいむが担っています。「らいむ」は本人たちが付けた名前で、漢字にすると「来夢」となります。来る夢、つまり夢がかなえられるように、と言う意味です。地域に暮らしている人たちは、アパート等での単身生活、カップルでの結婚生活、4~5人の仲間との共同生活、家族との在宅生活、の4種類です。どこに暮らしていても、一生涯にわたって支援していくというのが、私たちのポリシーです。私たちの最も大きな仕事は、一人一人に合わせた支援の眼鏡づくりです。単身生活の人、結婚している人、共同生活している人、在宅の人、それぞれに合わせた「支援計画」をどう作っていくのかということが最大のテーマです。結婚している人は、なんでもできる人が対象と言うイメージがあるかと思いますが、そうではなくて、食事を作れない人もいます。このカップルは世話人さんに食事を作ってもらいます。これまで知的障害を持つ人達にとって、結婚はとてもハードルが高いものでした。しかし、支援の仕組みをつくっていくことによって、結婚が可能となる人は一杯いるような気がします。
 もう一つの支援ネットワーク推進機能は、まちづくりです。資料4ページの支援ネットワーク推進機能の体系図の中に、行政との連携、家族の会との連携、事業主との連携、学校との連携、施設との連携、支援者との連携、本人たちとの連携とあり、さらにその下に伊達市障害者団体連絡協議会(事務局)、伊達市地域生活推進会議(事務局)、西胆振心身障害者職親会(事務局)など、支援センターと密接な連携を持つ12の団体が紹介されています。これらの団体の括弧内に事務局とあるのは、支援センターが事務局を担っているということで、全部で9の団体の事務局を担っています。このように支援センターはたくさんの事務局を担っておりますので、これら事務局の仕事は、私たちの仕事の4割くらいを占めています。
 なぜこんなにもたくさんの事務局を担っているのかと言いますと、もう一度伊達市内住居図マップを参照して下さい。伊達の町にはたくさんのグループホームがあります。80の事業所で、200人くらいの人達が働いています。地域共同作業所も8か所あります。高等養護学校や入所、通所の施設もあります。いろいろな支援の場があるということは、ご理解頂けたかと思いますが、これがバラバラだと意味がありません。
 この住居図マップには、目に見えない細かい網の目がはりめぐらされています。この網の目を紡いで行くのが、私たちの支援の基本理念です。よく人生は綱渡りといいますが、障害をもつ人たちの人生は、まさに綱渡りの連続です。いまは不況で、今年の4月からこれまでで11人が失業しました。しかし、私たちの所では、失業した次の日から、地域共同作業所に通います。在宅の人で、家族の支援が困難になれば、施設やグループホームに入居します。施設から出て、もし失敗したら、またいつでも施設に戻れます。このように切れ目のない支援が可能です。サーカスでも綱渡りをする場合、いつおっこっても言いように、下に安全ネットを張り巡らします。
 施設や学校だけでは、それぞれは「点」にしか過ぎません。ですから、施設の機能を大きくしたり、建物を立派にしたとしても、それだけでは大きな点、立派な点にすぎず、そこに暮らす障害を持つ人達は、しょせん点の中で生きることになります。私たちの支援の基本は、たとえ障害をもっていたとしても「市民として暮らす」ことにあります。ですから地域の中のいろいろな社会資源をつないでいくことが重要です。ではどうしてつないでいくのか。そのためにはさまざな組織をつくって、人間関係をつないで行くことが必要です。このようにして人間関係をつくり、線をつないで行く。この線がたくさんできて、網の目になります。これを私たちは「地域を紡ぐ」といいます。この網の目によって本人たちは一生涯が保障され、自立的な人生を送ることになります。

 障害者が町に慣れる、町が障害者に慣れる

 いま伊達市にはたくさんの障害をもつ人たちが生活しています。このようにたくさんの人たちが暮らせるようになった背景には、まず本人たちのがんばりがあります。また支援者の努力もあります。しかし一番の理由は、市民の方々が、障害をもつ人たちとの付き合いが上手になったということです。
 これまで私たちは、知的障害を持つ人達のリハビリテーションを進めるにあたって、まず本人たちの障害を軽減することを努力してきました。しかしいくら努力しても、なかなか障害が軽くなるということはありませんでした。治らないのが、障害ということです。それに対して、障害をもたない市民の方は、障害を持つ人達に対する付き合い方がどんどん上手になっていきます。11ページのレジュメに、「人生を切り開く三つの目標」として、①本人の努力、②援助する人たちの支え、③地域の人たちの理解、を掲げています。ずっとこの順番を掲げてきましたが、今は逆だと分かりました。なによりも地域の人たちの理解が大切で、そのうえに援助する人達の支えがあり、さらに本人たちの努力も必要、と今は考えています。これまでは、障害を軽減する、いわば本人を変えるというところにリハビリテーションの重点がおかれすぎたあまり、障害をもつ人達を地域から切り離して更生施設等に入所させてきました。このために、地域の中に障害を持つ人たちはいなくなり、多くの市民のかたがたは障害を持つ人達と触れ合う機会がなくなって、理解することができなくなりました。このことによって助長された差別や偏見が、障害をもつ人たちの地域生活を阻害しているのだと思います。
 とても上玉の発表とはいきませんでしたが、少しでも参考になればと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

三ツ木/小林さん楽しいご報告ありがとうございました。さきほど、年間千人の視察者があるという話でしたが、そのなかには行政関係者がいます。小林先生にうかがったら、自分の持ち場に戻って報告する言葉は決まっているそうです。「あれは伊達市だからできたこと、うちでは無理」。伊達市も最初は一人から始めたことを、その人は気付かなかったのでしょう。小林さん、どうもありがとうございました。(拍手)


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