音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

ハンセン病訴訟、政府控訴断念

(財)日本障害者リハビリテーション協会

項目 内容
備考 Webマガジン ディスアビリティー・ワールド 2001年7月号掲載

バックグラウンド

 ハンセン病はライ菌による慢性の感染症で、以前は「ライ病」と呼ばれ、不治の病であるとか、遺伝病であると思われ、この病気にかかった人々やその方が、いわれなき偏見と差別に苦しめられた過去がある。
しかし、1873年ノルウェーのハンセン博士がライ病を発見し、単なる感染症であることが証明され、以来ハンセン病と呼ばれる。
1943年にサルファ剤を中心に特効薬が発見されてからは治る病気となったが、しかし日本では、ハンセン病患者は偏見差別で苦しんできた。患者らは1998年7月13人が熊本地裁に、99年3月12人が東京地裁に、同年9月11人が岡山地裁に提訴。長い苦しみを経てようやく今年の5月11日、熊本地裁第一判決で原告が全面勝訴し、5月21日には、これら3地裁に基患者ら計923人が塚提訴し、原告総数は1702人となり、当初控訴すると思われていた政府だったが、同月23日政府は控訴を断念した。

ハンセン病回復者から教わったもの-人権を尊重し差別のない共存できる社会を-
(小浜市社協 豊永真誠)

 人にはそれぞれの人生がある。数年前、福祉関係者の有志と瀬戸内の離れ小島にあるハンセン病の国立療養所邑久光明園と長島愛生園を訪問する機会を得た。療養所には福井からも何人が入っている。
 邑久光明園では、県人会の皆さんと懇談し、これまで半世紀にわたり、この病気のための差別と闘ってきたことを聞いた。
「収容されるとき歩いた駅のプラットフォームの足跡に係員がしるしをつけていた。ここを他のものは歩くな、というしるしだったようである。貨物同様の列車に乗せられ、人間扱いをされなかった」
「この病気に対する理解をもっと深めてほしい。現在療養している者は、無菌者で感染することはない。まだまだ病気に対する偏見があった生まれ故郷にも帰れない」
「私達の20年、30年後の行く末を見守ってほしい。この離島にも橋がかかったが郷里に骨を埋めることはできないだろう。島の中の納骨堂に収まるしかない」
「今後、エイズの問題も同じ過程をたどるのではないか」と語っていた。
私は、この訪問をきっかけにハンセン病に対する関心を持った。
ハンセン病は、感染力の極めて弱い病気で、プロミンという特効薬が戦後間もなく開発され、今では菌すら探すのが難しい。にもかかわらず日本は「らい予防法」により強制隔離・強制消毒など差別を生む政策を続けた。このため全国の患者が療養所に収容され、患者と家族は引き裂かれ。偏見と差別を受けてきたのである。その当時すでに、欧米では外来で治療できていたというのに…..。このような差別法を廃止しようという運動が実り、ようやく1994年4月1日国会で同法案は廃止となった。

 ところで、ハンセン病について本県で関心が高まったのは、1970年にさかのぼる。
故郷を一目みたいという回復者の願いを受け止め「里帰りをすすめる会」(代表北岑武夫氏)が里帰りを実現させた。感動的な親子の再会があった。宿舎の受け入れが難しく、福井西別院が快く受け入れたという陰での協力もあった。
このような民間活動が実を結び、その後県費による里帰りが実現。平成7年からは再び県健康増進課河原和夫氏の尽力によって里帰り事業が行なわれている。
今年度は最終年度の取り組みとなる。偏見や差別は「無知」から生じることが多い。この病気にかかわらず精神障害、エイズ、など病気を背負った人たちへの偏見と差別はまだまだみられる。
最近、HIV訴訟が全国で起き、国や製薬会社の責任が問われている。国の誤った対策は許されないし、繰り返してはならない。人権を尊重する対応が求められる。それぞれの背負った障害を認め合い差別のない共存できる社会をつくっていかなければならない。