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日本における障害学会の幕開け

石川准
静岡県立大学 国際関係学部教授

項目 内容
備考 Webマガジン ディスアビリティー・ワールド 2004年5月号掲載

 2003年10月11日、日本にも障害学会が誕生した。会長は静岡県立大学国際関係学部教授石川准氏(社会学博士・全盲)。

 日本における障害学は90年代後半に立ち上がった。幕開けとなったのは、『障害学への招待』石川准、長瀬修編という一冊の本である。この本は、日本の論壇から意外なほど大きな反響があった。以来、障害学への関心は急速に高まり、この分野の著作は次第に充実しつつある。

 日本の障害者運動のターニングポイントは、70年代の脳性マヒ者の運動である。障害者が権利意識に目覚め、ラディカルな思想を獲得したのはこの運動からであった。80年代には自立生活運動が、90年代にはろう者のろう文化運動が注目を浴びるようになった。また、交通障壁、建築障壁、情報障壁解消への取り組み、支援費制度、障害者差別禁止法制定の運動も活発に行われている。国連の障害者権利条約にも大きな関心が向けられている。

 一方、アカデミズムにおいても、この20年の間に大きな変化があった。とりわけ社会学がそうである。フェミニズム、レズビアン・ゲイスタディーズ、カルチュラルスタディーズ、ポストコロニアリズム、アイデンティティポリティクスなどの視点が提示され、レイシズム、セクシズム、ヘテロセクシズムなどの問題が可視化され、精神医療、障害者介助、老人介護などが社会学の重要テーマとして浮上してきた。また社会哲学においても、コミュニタリアニズム、分配的正義、他者論など、障害学にとって追い風となるような議論が目立つようになった。

 かくして障害学会はスタートした。来る6月12日と13日には第1回の障害学会大会が開催される。この大会では、障害の社会モデル、文化モデル、アイデンティティポリティクス、労働と承認、資源分配、配慮の平等などをめぐって、パネルディスカッション、対談、一般報告などが行われる予定である。

 この学会らしい取り組みとして、大会では、情報への平等なアクセスが重視される。ろう者には手話通訳が、手話ユーザでない聴覚障害者にはリモート要約筆記(電子会議システムとPC要約筆記を組み合わせた新しい方式)が提供される。

 統合失調症の参加者には、寝たまま報告を聞くことができるようにソファーベッドを会場に準備する。パーティションで視線を遮断できるようにもする。さらに休憩室にはベッドも用意し、そこからでもスピーカーを通して報告が聞けるようにする。

 視覚障害者の参加者にはあらかじめ学会ホームページに掲載された報告者の報告資料をダウンロードできるようにする。視覚障害者には、最寄りの駅からの誘導サービスも行う。
 小さい子供連れの参加者には託児サービスを行う。

 会長の石川氏は新著で以下のように書いている。

 「配慮の平等」という理念を説明する。「配慮を必要としない多くの人々と、特別な配慮を必要とする少数の人々がいる」という強固な固定観念がある。しかし、「すでに配慮されている人々と、いまだ配慮されていない人々がいる」というのが正しい見方である。多数者への配慮は当然のこととされ、配慮とはいわれない。対照的に、少数者への配慮は特別なこととして可視化される。
 たとえば、階段とスロープを比較してみよう。なぜ階段は配慮でなくスロープは配慮なのか。試しに階段を壊してみればよい。階段がなくても二階に上がれるのは、ロッククライマーと棒高跳びの選手ぐらいのものだ。だったら階段だって配慮ではないか。

 講演では、講演者はレジュメを用意するように求められる。分野によってはスライドを見せるのが常識となっている。かくいう私も情報系の講演ではつねにパソコンでスライドを見せる。これらもまた配慮なのだが、それをしないと受講者は手抜きと感じる。一方聴覚障害者のために要約筆記や手話通訳を用意するシンポジウムや講演会は、きわめて例外的である。点字のレジュメが配られることも同様にきわめて例外的だ。
 だが、それらが提供されれば、障害者に配慮しているセミナーだと、一般の受講者は感心したりする。これは論理的にはおかしなことだが、不思議だと思う人はほとんどいない。自分への配慮は当然のことであり配慮とは思わないが、他者への配慮は特別なことと感じてしまう。そして、その非対称性に気づかない。

 市場を通して提供される配慮は、ユーザビリティと呼ばれサービスと呼ばれ、けっして配慮とはいわれない。一方、市場に任せておいても提供されない配慮は、公的セクターにより部分的に提供され、残りは人々の善意や優しさに期待がかけられる。

 私は、誰もが、そこそこ元気に、自由に、つつがなく暮らせる社会がいちばん良い社会だと思う。ハイリスク・ハイリターンの人生が好きだという人もいるだろう。もちろん安心して暮らせる社会でもそのような生き方は可能だ。エベレスト登山でもヨットでの世界一周でも、できる人、やりたい人は自由にやってもらってかまわない。そしてお好みどおり、それはぜいたくな嗜好として配慮の平等の外に置かれることになるだろう。

 人生は一回しかないのだから、大方の人は私の主張に賛同してくれると思う。「誰もがそこそこつつがなく暮らせる社会」という社会のあり方は理にかなっているはずだ。もしそうなら、あとはそのための方法を、みなで知恵を出し合って考えればよいだけのことである。