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開発途上国に薬を届ける非営利製薬会社
Institute for OneWorld Health
インスティテュート・フォー・ワンワールド・ヘルス

リンククラブニュースレターVol.140より

書誌情報
項目 内容
備考 この記事はリンククラブニュースレターVol.140(2006年12月発行)より許可を得て転載させていただきました。
リンククラブのホームページ http://info.linkclub.or.jp/

先進国の私たちが成人病の予防治療に励む一方で、世界の8割以上の人が暮らす開発途上国では、適切な予防治療がなされないまま、感染症が猛威を振るい続けている。
顧みられないこうした地域のために、安全で、安価で、効果のある薬を開発して届けたい。
そう決意したひとりの女性が、斬新な社会事業を始めた。
ヴィクトリア・ヘイル博士率いる米国初の非営利製薬会社インスティテュート・フォー・ワンワールド・ヘルス(http://www.oneworldhealth.org/)の活動は、先進国が進むべきひとつの方向性を示している。

ヴィクトリア・ヘイル博士の写真
インスティテュート・フォー・ワンワールド・ヘルス創設者・CEO
ヴィクトリア・ヘイル博士。

グローバルヘルスの不公平という背景

持てる先進国と持たざる開発途上国。グローバライゼーションによる経済格差と不公平が指摘される中、頻繁に話題にのぼるのが「グローバルヘルス(国際保健)」の問題だ。

まず、国際保健団体などが提唱する「10/90gap」という格差がある。毎年世界の保健研究開発費の90%が先進国の生活習慣病に使われており、残りの10%で世界人口の約90%の 保健衛生問題が賄われていることを意味する。実際に1975~90年の間に認可された新薬1,393のうち、熱帯病のためのものは13、つまり1%しかなかったという(Global Forum for Health Research)。

開発途上国では、結核など先進国では解決済みの病気のために、今も多くの人々、特に子供が亡くなっている。またさまざまな感染症が、十分な予防も治療もなされないまま猛威を振るっている。小児下痢やはしか、マラリアなどに対し適切な治療を行なうことができれば、年間数百万人の子供の命が救えると見込まれている。

だが、そのために診察する医師が不足している。1,000人当たりの医師の数は、米国が2.56人、日本が1.98人。アフリカでは例えばケニヤが0.14人、エチオピアが0.03人と、ひとりの医師が14,000~30,000人を診なければならない計算だ(WHO『The World Health Report 2006』)。

また、世界人口の30%は薬が入手できる状態になく、最貧国ではこの数字が50%以上に及ぶ(WHO『Medicines Strategy Report 2002-2003』)。政府の保健予算が国民1人当たり年間1,000円ほどしかない国もある。
医薬品の多くは先進国の特許によって守られており、開発途上国がこの特許使用料を払って薬を作ることは困難だ。製薬会社では安価な薬も提供しているが、肝心の輸入国政府が高い関税や税金をかけるため、一般人には購入不可能な値段になってしまう。人々の手の届くところに、薬はない。

非営利製薬会社というオルタナティブ

「40歳を過ぎて鏡を見た時に、今まで精一杯のことをしてきたか、と自分に問いかけたんです」とヴィクトリア・ヘイル博士は言う。バイオ医薬品大手ジェネンテック社の役員として成功し、結婚して子供にも恵まれ、申し分のない人生を歩んできた。「でも、それだけでよいのか」と顧みたという。

「私は社会正義を信じています。地球の向こう側に生まれたために、幼くして死んでしまう子供が多数いるなんて不公平です」
やりたいことは明確だった。開発途上国の人々に、安全で、安価で、効果のある薬を届ける。それは、非営利の組織でなければできない。

2001年にジェネンテック社の役員を辞職すると、夫とともにワンワールド・ヘルスを設立した。夫妻は100,000ドルを出資し、自宅をオフィスにして2年間無償で働いた。
"利益よりも、世界の人々のニーズを追求する非営利製薬会社"というコンセプトは、当初関係者を仰天させた。
「製薬業界の先輩や仲間には、"うまくいきっこないし、せっかくの自分の評価を台無しにすることになる"と忠告されました。その度に私は"やってみないとわからないんだからやらせて"と答えたんです。ですから最初のプロジェクトを成功させないと、次はないと覚悟していました」とヘイル博士は語る。

大きなリターンを見込んで投資する従来の製薬会社とは性質を異にしながら、組織編成や効率性など企業のよい点を取り入れて、全く新しいビジネスモデルを作る。そのため、ワンワールド・ヘルスはこんなプランを構想した。

製薬業界や大学には、商業的な理由で棚上げになった新薬候補が尽きない。先進国では不採用となったこれらの化合物には、開発途上国で役立つ可能性の高いものも多い。その中から安全性と有効性が認められたものを寄付してもらうか、あるいは使用許可をもらって欧米の基準で試験を重ね、実用化までもっていく。特許料は課さずに最終的な製造を現地企業に委ねて、低価格を実現する。

つまり先進国で使われずにいるものを使える状態にリサイクルして、開発途上国に届けるようなものだ。そしてその全過程において、科学者、大学、NPO、公共機関、企業など、官・民・学や国を超えて、組織や人材とフレキシブルにパートナーシップを組む。

ゲイツ基金の支援により、インドで初の薬が認可

「他に誰も作ろうとしない薬を作る」ことを決意したヘイル博士が最初に着目したのは、インドでは「カラ・アザール」と呼ばれて恐れられている感染症、内臓リーシュマニア症を治療できる可能性の高い抗生物質だった。そんな有望な薬であるにも関わらず、特許は1960年代から放置されていた。

ワンワールド・ヘルスでは2004年、WHO の協力を得て第3相試験を完了し、米国とヨーロッパで認可を得た。2006年9月11日にはインドでも認可され、現地の製薬会社にライセンスを与えて製造することが可能となった。価格は1人当たり10ドルの予定。この治療が進めば、やがてはカラ・アザールを撲滅できる見込みだ。

まさに非営利製薬会社がグローバルヘルスを牽引する、画期的な出来事といっていい。しかしこのような影響力を持つことにより、営利製薬会社との間にはどんな利害関係が出てくるのだろう。現在のところ、ワンワールド・ヘルス最大の財源は、「グローバルヘルスを今後のライフワークにする」と宣言して来年引退を発表したビル・ゲイツの慈善団体、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金だ。

ヘイル博士は今回の薬について、例えば欧米の旅行者に向けて販売することはあっても、現地の人たちから利益を得るつもりはないと言う。
「営利の製薬会社と、活動そのものは似て見えるかもしれません。でも利益を上げなけ ればならない彼らには、埋めることのできない場所がある。私たちはそれを埋めている のです」

博士は常に製薬業界との対立を避け、いい関係を保つことを強調している。この先、営利と非営利がいかに棲み分けをしていくかは興味が持たれるところだ。
ワンワールド・ヘルスの課題は、薬を作っておしまいではない。国の保健システムが整っていないインドで、過疎地までどうやって薬を届けるかという大きな問題がある。ヘイル博士は、英国のNPO、ライダース・フォー・ヘルスと協力して、バイクで薬を配布することを考えている。

開発途上国の官僚と渡り合い、世界の団体や政府から支持や資金を得ていくことは、容易ではないだろう。しかし「人々のニーズと薬学の間の、市場が作る溝を埋める」というヘイル博士の決意は、着々と不可能を可能に近づけている。

Text by:スマキミカ

カラ・アザール・リサーチセンターの写真
ビハール地方の患者を無料で治療するカラ・アザール・リサーチセンター。
ワンワールド・ヘルスと共に第3相臨床試験を行なった。

インドの研究所の医師と技術者の写真
内臓リーシュマニア症の治療を受ける患者の血液サンプルを分析する、
インドの研究所の医師と技術者。

インド農村部家屋と人の写真
インドでは内臓リーシュマニア症は「カラ・アザール(黒い熱)」と呼ばれて恐れられている。
農村部では治療を受けるのが困難だ。

OneWorld Health 進行中のプロジェクト

■シャーガス病

寄生原虫によって感染する病気で、中米・南米にみられる。毎年5万人が死亡しており、現在1,000万~1,200万人が感染していると言われる。セレラ・ゲノミクス社より寄付されたライセンスを使って、前臨床研究を行なっている。

■マラリア

およそ100カ国にみられる伝染風土病で、世界人口の40%に感染のリスクがある。
新しい菌に対し、昔の薬が効かなくなってきている。2004年、ゲイツ基金から助成を受け、カリフォルニア大学バークレー校およびアミリス・バイオテクノロジー社とともに、合成が難しいとされる特効薬アルテミシニンの製造と世界供給をめざしている。

■内臓リーシュマニア症

マラリアに次いで2番目に致死率の高い感染症で、蚊よりも小さいハエによって媒介される。インド、バングラデシュ、ネパール、スーダン、ブラジルを中心に毎年50万人が感染し、20万人が死亡している。その症状の重さはエイズに比較される。
ワンワールド・ヘルスでは、特許の切れたアミノグリコシド系抗生物質を開発し、2004年、ゲイツ基金とWHOの協力を得て、第3相試験を完了。米国とヨーロッパで認可を得た。2006年9月11日、アミノグリコシド系抗菌薬パロモマイシンがインドで認可され、インドでの製造が可能となった。