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活動報告

久保田 崇 (岩手県陸前高田市副市長)

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(スライド1のテキスト)

【要約版】※原文は英語による発表。本稿は和訳のうえ、要約したものである。

みなさん、こんばんは。私は久保田崇と申します。日本財団と日本障害フォーラムが製作しましたビデオ上映の後で、プレゼンテーションができることを大変光栄に思います。最初に、2年半前に津波による甚大な被害を受けた町の一つである、私の町、陸前高田市についてご紹介したいと思います。

私たちの町は、たくさんの人を失いました。津波の前の人口は24,000人でした。津波で、人口の8パーセントに当たる1,800人の人を失いました。その中に124人の障害者を含みます。そして、私たちは、学校、病院、消防署、駅、警察署などを含む多くの施設や建物も失いました。

しかしながら、私たちは希望も持っています。私たちはまだ、復興の途中です。しかしながら、障害者を含む新しいインクル―シブな町、ノーマライゼーションという言葉のいらないまちを作るという希望を持っております。

ですから、私のプレゼンテーションでは、陸前高田市で起こったことや現在の生活、復興の過程、復興の状況、そして私たちのインクル―シブな町の未来についてお話したいと思います。

プレゼンテーションを始める前に、国連やさまざまな国の政府はもちろん、世界中の異なる国の市民の皆様のご支援に心よりお礼申し上げます。

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(スライド2のテキスト)

本日は3つの事柄についてお話したいと思います。
・2年半前の津波の前と後
・陸前高田市の復興過程と生活
・津波からの教訓とインクルーシブな町づくりへの展望
です。

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(スライド3のテキスト)

では、私の自己紹介を手短に致します。私は、陸前高田市副市長です。以前、津波がこの町を襲ったときは、私は東京で日本行政機関の一つ、内閣府参事官補佐として働いていました。津波が襲ったとき、私は、東京で地震を経験しました。それから、京都大学、英ケンブリッジ大学で勉強いたしました。

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(スライド4のテキスト)

陸前高田市は、東京の北500キロメートルにある東北地方の岩手県にある市町村です。津波の前の人口は24,000人でした。今は、だいたい20,000人くらいです。 主な産業は、漁業と農業です。特にホタテ貝、海苔、カキなどの養殖が盛んです。 2年半前に津波による被害を受けました。

すでに述べましたが、人口の7.5パーセントに当たる1,800人の人を失いました。そして、障害者の9パーセントに当たる124人の障害を失ないました。 私の町、陸前高田市では、多くの犠牲がありましたが、幸いなことに、先ほど藤井さんから発表のあったような、障害者の死亡率が全体の死亡率の2倍ということではありませんでした。なぜなら、基本的に障害者が暮らしていた施設が津波の届かなかった高い場所にあったからです。だから、陸前高田市では、障害者と障害がない人の死亡率に大きな差が見られませんでした。

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写真(地震の次の日)

津波の次の日に撮られた写真をご紹介いたしましょう。 津波の次の朝、このように町中が洪水でした。

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これは、市役所の写真です。

海岸からおよそ1.5キロメートルのところに位置しています。1.5キロメートル離れているのにも関らず、15メートルの高さの津波が直撃しました。ビルの屋上に行き、生き残った職員は100人以上います。しかしながら、屋上に行くことができなかった人は亡くなりました。だから、私たちは、多くの職員を失いました。

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写真(地震の前と後)

これは、津波前の写真です。この写真は、空から撮られました。海岸線に沿って松林が見えます。 次は、津波後の写真です。 違いがわかるでしょう。 私たちは、松、家、ビル、全てを失いました。 多くの物を失いました。

今から、同じ場所から撮られた津波前と津波後の写真をお見せいたします。その場所で何が起こったか理解することができると思います。

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これは陸前高田市の中心街の写真です。津波の前、そして後です。私たちは、そのままそっくり町を失いました。

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これは駅です。津波前と津波後です。

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これは、奇跡の一本松です。

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写真(避難所)

これは避難所と呼ばれているものです。 実際に、ここは中学校の体育館です。津波の後、体育館は避難所として使われておりました。ご覧のように、多くの人が数カ月間ここで暮らしておりました。

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写真(仮設住宅)

仮設住宅が建てられた後、避難所で生活していた人は、仮設住宅に移動しました。今は、避難所は一つもありません。 家を失った高齢者はこのような仮設住宅に移りました。基本的に、これらの仮設住宅は学校の校庭に建てられました。なぜなら、土地が平らで建てるのが簡単だからです。 これは、仮設住宅の写真です。 皆様も想像できるでしょうが、仮設住宅はとても狭いということにおそらく気づいていると思います。

いくつかの仮設住宅は、スロープなどが設置されています。しかしながら、例えば車いす使用者は、生活する上で困難なことは多いです。これは、問題だと思っております。私が先ほどお話ししましたが、他の問題もあります。 これらの仮設住宅は、学校の校庭に建てられました。そのため、学校の児童・生徒にとって、野外活動や運動をする空間が限られてしまっています。 これは問題です。高台に新しい家が建てられるまで、この仮設住宅の生活は数年続くと予測されます。

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写真(復興事業が進む街中)

では、現在の生活についてお話したいと思います。私たちは、 地元の人と、戸羽市長と共にタウンミーティングを数回開きました。復興プランを作り、水門やホテル、護岸を含む新しい建物のプロセスを進めております。

では、津波からの教訓についてお話したいと思います。

1つ目のポイントは、障害者のための避難所、福祉避難所を作るべきだということです。先ほどお話しましたように、いくつかの避難所は障害者のための特別な部屋が用意されましたが十分ではありませんでした。そのため、災害の前に、私たちは設備の整った施設、供給品、介護士の配置の準備もまたするべきだと思っています。

2つ目のポイントは、映画でも言及されていましたが、緊急目的のための個人情報の開示です。日本では、個人情報保護法が支援機関への個人情報の公開を妨げるということがおこりました。だから、障害者が救助されたのか、そして彼らがどこにいるのか支援組織は分かりませんでした。

3つ目のポイントは障害者のメンタリティです。特に日本の文化においてかもしれません。自分の存在を人から隠そうとする心理があり、他人に支援を頼むのをためらいます。しかし、2つ目のポイントと同じように、その意識は緊急時において支援を妨げます。これらが私の町で津波から得た3つの教訓です。

私たちの将来ですが、映画にも登場しましたが、戸羽市長は"老若男女、性別、障害に関らず・・・ノーマライゼーションという言葉のいらないまち"というビジョンを確立しました。実際、このビジョンに準じて、私は個人的に市役所のメンバーと特別プロジェクトチームを作りました。そして、障害者の経験を研究することから始めました。

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これは、戸羽市長と話すために市役所を訪問した車いす使用者の写真です。

これでプレゼンテーションを終わりにしようと思います。完全に復興するまであと数年かかると思います。しかし、少なくとも2020年の東京オリンピックの前までに完全に復興できればいいなと思っております。

私たちは、近いうちにインクル―シブな町、ノーマライゼーションという言葉のいらないまちをお見せしたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。