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第2章:知的障害のある人々と家族及び地域社会;それぞれの役割と関係の理解

知的障害のある人々

第2章

国連障害者の権利条約(CRPD)の交渉中、障害者組織(DPO)の一部が、自らのニーズに関する具体的な配慮を主張した。多くの障害者組織にとっては、手話通訳や車いす、スロープなどの特定の機器やサービスの提供は、インクルージョンと参加を可能にするものである。しかし、知的障害のある人々については、特定の配慮が多少は必要であり、それによって地域社会へのアクセスが改善される場合もあるが、完全なインクルージョンを可能にするサービスや支援はない。知的障害のある子どもに教室への物理的なアクセスを提供したり、教師のアシスタントを配置したりしても、十分ではない。真のインクルージョンには、教室、カリキュラム及び指導戦略の再編が必要なのである。同様に、地域社会における真のインクルージョンには、教育制度、労働市場、政治システム、交通システムなどの地域社会の改革が必要である。

男性二人の写真 感覚障害または身体障害のある人々については、「自立」を強力に推し進める動きがあった。自立生活運動では、自立生活をし、自分が望む生活を自己決定する個人の権利が強調されてきた。第19条は、地域社会における「自立」した生活とインクルージョンの権利に言及している。しかし、自立という言葉はしばしば誤用され、一人でいることや、支援を受けないことという意味で使われ、知的障害のある人々とその家族に、インクルージョンを阻む障壁をもたらす可能性がある。「自立」した生活ができなければ、地域社会で生活し、これに参加することはできないと見なされてしまう。「自立」した生活を送るためには、知的障害のある人々は支援を必要とし、地域社会における生活とインクルージョンを可能にする家族や他の人々とのかかわりを持たなければならない。

インクルージョン・インターナショナルの名称や方針(ミッションステートメント)及び障害者の権利条約はすべて、インクルージョンに言及しているが、それは多くの点で十分な理解が得られていない概念である。方針(ミッションステートメント)には、インクルージョンは支援やサービスとは異なると明記されている。支援やサービスは、個人や家族に対して与えられるものであるが、インクルージョンは、環境、障壁の有無、個人の所属意識にかかわるものである。支援やサービスは利用されるべきツールであり、達成されるべき成果ではない。個人に対する支援により、参加が可能となるかもしれないが、受容的な環境でない限り、その個人は受け入れられることも、また受け入れられていると感じることもないであろう。

知的障害のある人々の家族の役割と責任

この報告書では、「家族」とは、親や兄弟姉妹だけでなく、親戚や人生のパートナーとして選んだ相手も指す。しかし、有償の介助者やサービス提供者、また、生活を共にしていても、人間関係を築くことを選択しなかった相手(「入所させられた」グループホームのルームメートなど)は含まれない。

子供たちの写真世界人権宣言(1948年)における、世界初の人権へのコミットメント以来、家庭は「社会の自然かつ基礎的な集団単位であって、社会及び国の保護を受ける権利を有する」と認識されてきた。子どもの権利条約では、「家族が、社会においてその責任を十分に引き受けることができるよう必要な保護及び援助を与えられるべきである」と認められた。そして、障害者の権利条約(CRPD)では、障害のある人々が自らの権利を行使できるようにするために、果たすべき役割が家族にあることが認められ、「障害のある人及びその家族の構成員が、障害のある人の権利の完全かつ平等な享有に家族が貢献することを可能とするために必要な保護及び援助を受けるべきである」と明記されている。

世界人権宣言は、家庭を「社会の自然かつ基礎的な集団単位」と認めているが、知的障害のある人々の生活においては、その役割はさらに重要である。知的障害のある人々は一般に、学習、記憶、問題解決の困難や、たびたび認められる意思伝達の困難など、知的障害の特性のために、生涯にわたる支援をある程度必要としている。会員からの報告によれば、この支援のほとんどは家族から得ているとのことである。ボリビアのある母親は次のように語った。「私の時間の大部分は、娘が必要としているすべてのことを手伝うために費やされています。」また、ロシアのある母親は、「このような子どもが生まれると、母親の人生は終わってしまうのが残念です」と述べた。だが、それは残念なことや、過度の負担になるべきではないと、私たちは考える。

障害のない子どもの大多数は、成長するにつれて徐々に家族からの支援を必要としなくなっていき、身体障害や感覚障害のある人々も、どんどん自立し、家族への依存が少なくなっていく一方で、調査研究の結果、知的障害のある子どもは10歳を過ぎると、多くの支援を必要とする割合が不釣合いに高くなることが明らかになった。それは、以下の理由による。

  • 学校や仕事に行かないため、自宅で介護してくれる人が必要になる。
  • 親や他の家族が仕事や付き合いで出かける時、一人で置いていくことができない。
  • 親は支援やサービスを見つけること、医師の診察に付き添うことなどに時間を割かなければならない。
  • 日常生活活動(食事、入浴、トイレなど)に支援が必要である。
  • 仕事を見つけ、働き続けるために支援が必要である。

知的障害の特性から、知的障害のある人々は一般に、生涯にわたり何らかの支援を必要とし、そのような支援を提供する責任は、通常、家族が担っている。障害者の権利条約は家族に対し、「障害のある人の権利の完全かつ平等な享有に家族が貢献すること」を求めている。多くの知的障害のある人々とその家族の状況を考慮すれば、これは気が遠くなるような困難な課題である。地域社会による受け入れがなければ、また、サービスや支援が利用できなければ、親は、障害のある家族の最も基本的な人権の行使(学校へ通うことや公共の公園で遊ぶこと)への貢献を、大きな課題と考えることが多い。フォーカスグループで繰り返し取り上げられたテーマは、「自分が死んだ後、子どもはどうなるのか?」であった。ミャンマー(ビルマ)の国別調査の結果には、「家族は、知的障害のある者も家族の一員だと感じています。しかし、それを負担と感じることもありました。そして、自分達が死ぬとき、彼らをどこに連れて行ったらいいのか、わからないのです」と書かれていた。これに対し、地域社会へのインクルージョンが進めば進むほど、家族への負担は少なくなることを証明する体験談も寄せられた。

どの国においても、インクルージョン・インターナショナルの会員は、(どのような定義であれ)家庭こそ、地域社会におけるインクルーシブな生活の基礎であることを認めた。子どもにとって家庭という構造は重要だということについては、完全な合意が得られた。簡単に言えば、子どもには、成長し、学び、元気に育ち、育まれる家庭が必要だと、会員は信じている。核家族や拡大家族での生活が可能でない場合は、児童養護施設やグループホーム、福祉施設などを選択するよりも、別の家庭で暮らす方が望ましい。

成人の写真知的障害のある成人にとっては、家庭の役割はもう少し複雑である。インクルージョン・インターナショナルによる面談と参考資料からは、知的障害のある成人の大多数が家族と生活していることが確認された。しかし、このような家族との生活が、どの程度、特定の社会の文化的基準の範囲内であるのか、また、家族との生活は、本人及び/または家族の選択なのか、それとも、単にほかの適切な選択肢がないという理由からにすぎないのかは、不確かである。

家族の役割に関するコメントを複雑にしている別の要因として、我が子の第一の介護者としての役割を果たしている家族に対する支援が不十分であるとの報告が、家族と本人の両方から常に寄せられていることがあげられる。

自宅での生活を続けることが、望ましい、典型的な選択であることが多いが、適切な支援が提供される場合に限り現実の選択肢の一つとなる。多くの国では、子どもは成人したら実家を離れることが一般に期待されている。だが、在宅以外の選択肢が存在しない場合には、これは障害のある人々には可能ではない。この場合、たとえ適切な在宅支援があっても、選択はできていないのである。

成人と子供世界各地の家族が、障害のある家族が子どもでも成人でも、その家族に対する自分達の責任を否定することはないと語った。そしてこの責任を、社会や政府に転嫁することは望んでいないとはっきりと告げた。彼らが望んでいるのは、そして必要としているのは、その責任を果たすための支援である。障害のある家族と自分達に健康と幸福をもたらす支援を必要としているのだ。

地域社会が受容的ではないため、あるいは、支援とサービスが不足しているために、家族の「障害のある人の権利の完全かつ平等な享有に貢献する」責任が限定されることはない。知的障害のある人々の本人活動(セルフアドボカシー)運動の高まりは、知的障害のある人々が自らの希望を表現することに非常に長けていること、そして家族が考えているよりもはるかに自立していることを実証した。知的障害のある人々やその家族のフォーカスグループでは、自律の権利と支援のニーズとが表裏一体であることが示された。

人々が地域社会に受け入れられ、極めて自然な形で支援が提供される場合、そのような支援は目立たないことが多いが、それらはインクルージョンを実現するために大いに必要である。インドの調査回答には、次のように記されていた。「インド社会の長所の一つは、ほとんどの場合、障害のある人々は一般に家族と暮らしているということです。しかし、実の親がいなくなり、親戚の支援も利用できない場合、重大な問題に直面することがあります。この問題は、核家族や都市部において、非常に深刻です。」

このような親の懸念の多くは非常に現実的だ。たとえば、我が子が搾取され、虐待される可能性があり、また、財政面あるいはその他の制約から、障害のある人の希望が非現実的だと思われることもある。そのため、親が我が子を保護するためのセーフガードを確保したいと考えるのは当然であろう。知的障害のある家族に対する責任を果たすという家族の義務は、当事者が自分自身で決断を下すという権利と、慎重にバランスを取る必要がある。

しかし、知的障害のある人々には、家族について直面している課題がある。最も一般的なのは過保護だ。ニカラグアのフォーカスグループは、家族による過保護が、知的障害のある人々の参加と、自由な意思表現を制限し、不安感をもたらしていると報告した。ヨーロッパにおける本人のグループは、このことを次のように説明した。「私達にはあなたの支援が必要ですが、選ぶのは私達です!」香港の本人は、家族に対し、こんなメッセージを送った。

「私たちに必要なのは、あなたの支援

私たちに必要なのは、あなたに尊重してもらうこと

私たちに必要なのは、あなたの理解

私たちに必要なのは、あなたに信じてもらうこと

私たちに必要なのは、共に変わることを、あなたに学んでもらうこと

私たちに必要なのは、家族の一員として受け入れてもらうこと

私たちに必要なのは、夢と願いをかなえるために、兄弟姉妹に協力してもらうこと

私たちの願いは、お互いに学び合えること」

男性の写真 別の問題は、家族が、知的障害のある人々の権利は他の家族が持つ権利とは異なるとし、時として認めないことだ。この結果、親は娘が妊娠する可能性を断つために、あるいは衛生面のケアをしやすくするために、不妊手術を施すことを決定する場合がある。極端なケースでは、親がケアしやすいように、子どもの成長や身体成熟を妨げる手術やホルモン治療が行われた。

さらに、子どもが家族の一員として成長する権利は、障害者だけの制度のために、しばしば無視される。施設がある国では、家族は、里親や養子縁組などの代替家族による養育の選択肢を追求する代わりに、入所施設に子どもを入れるという選択肢を与えられる。

シアヤ(ケニア)では、フィデル(Fidel)が将来に向けて大きな野心を抱いている

「ナイロビのアパートで暮らして、病院で医者として働きたいです。そうでなければ、たぶんサッカー選手ですね。自分の家族と冷蔵庫と車を手に入れます。」

一方、フィデルの母親は、息子に対してもっとシンプルな望みを抱いており、こう語っている。

「息子には、身の回りのことができるようになって、ほかの人のように、地域で差別を受けずに暮らしてほしいです。息子を受け入れてほしいのです。」

本人は語る
バルセロナ(スペイン)では…

  • 自分が何を望んでいるのか、どのような生活がしたいのかは、わかっている。それを伝える機会と、それを達成するための支援が必要だ。
  • 生活の場として施設を選ぶ人はほとんどいない。支援のニーズが、自分自身の人生を送りたいという希望と欲求を覆すことはできない。
  • 私たちには、適切な支援を受けて自立生活を送る責任を果たす能力がある。
  • 周囲の人々は、自立生活を送るという私達の希望や能力をほとんど信用しておらず、それが大きな障壁となっている。

スペイン

「家族は、実家から離れた所にあるホームに私が住むことは望んでいなかったのですが、自立生活を試してみようと皆で決心しました。すべてがうまくいけば完璧ですが、うまくいかなくてもどうということはなく、実家に帰ればいいのです。いつでも家族がいてくれるとわかっています。誰もいなくなって、助けが得られないときに、問題が起こるのです。」

両親は、本人が自立するには、また、地域社会からの嫌がらせを避けるにはどうしたらいいのかを心配していた。
―レソト

イスラエル
「私の家族はキブツ(『ベイト・アルファ』)で暮らしています。3年前、私はキブツ・ヘフチバへ移り、今はそこでダウン症の友人と暮らしています。この近所で暮らしたかったのですが、友人と暮らすことを選びました。人生の選択に関しては、私は自立しています。自分用のシャワーがある部屋で、一人で寝起きしています。仕事でも自立しています。私は『イズラエル』というキブツの食堂で働いています。このキブツ・ヘフチバでの暮らしが気に入っています。」
―イリット・レゲヴ

親と兄弟姉妹は語った…

ケニア
「心配しているのは、将来のことと、この貧しい暮らしのことです。私たちは年をとりつつありますが、これはとても悪い展開です。」

ウガンダ
「障害のある我が子を誰が訓練するのでしょうか。父親にはやる気がありません。母親には技術がありません。地域社会には時間がありません。政府にはリソースがありません。」

コロンビア
「ローラの父親として、あちこち一人で出かけることは絶対に許可しません。一人では決して行かせません。それはあの子のことが信じられないからではなく、私たちが暮らしている環境を信じていないからです。」-フォーカスグループの父親

ベニン
「この条文は、私達の状況では難しいでしょう。知的障害のある人と、常に誰かが一緒に生活するのが理想的です。一人ではいられなくて、支援が必要なのですから。だから自立生活はできません。私達は、希望を言わなければならないのですか? それとも、現実的な提案をしなければならないのですか?」 「どこが悪いのか、彼女が私達に伝えられないのがとても気の毒です。私達は疲れているし、泣くこともありますが、8時には仕事に行かなければなりません。毎晩、眠れるのか、眠れないのか、不安です。私達はとても苦しんでいますが、彼女は家で、家族に受け入れられています。皆彼女が大好きですし、愛情も注いでいます。専門の治療家と施設が必要だとは思いますが、ベニンにはありません。私達は全然幸せではなく、将来のことを心配しています。知的障害のある人達はのけ者にされますからね。」

コロンビア
「悲しいことに母が亡くなり、マルガリータが私の所に引っ越してきてから、多くの扉を開くことができました」と、ビアトリスは語る。ビアトリスは、姉(妹)のマルガリータはもっと自立しなければならないと固く信じている。他の姉妹が皆ビアトリスと同じ考えでいるわけではないが、マルガリータが成人女性向けの絵の講座を開いているインクルーシブな美術学校に参加し、本人も、また、そこで学んでいる女性達も、とてもうまくいっている経験から、ビアトリスはこのことを訴えてきた。

日本
家族からの助けが主なので、家族からの支援はとても大切です。親と同じように、私たちも、親亡き後が心配です。でも一緒に話し合うことはめったにありません。これからの人生設計を考えてみることだけでも、家族にとっては安心できるし、自分たちが生きている間に子どもたちの大事なニーズや望みがかなうようにする機会を作ろうという気持ちになるみたいです。

ザンジバル
「自由がありすぎると、子どもたちは重大な危機にさらされます。彼らは、悪い人達から暴力や性的虐待を受けやすく、親への過度の依存、疎外、自信喪失に陥りやすく、また、周りの人から軽蔑されたり、罵られたりしやすいのです。」

表2.それは自立生活ではない

それは自立生活ではない

第19条と相互依存宣言

ヒューマンサービス政策及びリーダーシップ学 H・ロドニー・シャープ(H. Rodney Sharp)記念教授職
スティーヴン・M・エイデルマン(Steven M. Eidelman)‐2012年6月1日

障害者の権利条約第19条の見出しである「自立した生活及び地域社会へのインクルージョン」は、多くの家族を当惑させるものであり、これは誤った表現だと私は思う。

第19条には、次のように記載されている。

「この条約の締約国は、障害のあるすべての人に対し、他の者と平等の選択の自由をもって地域社会で生活する平等の権利を認める。締約国は、障害のある人によるこの権利の完全な享有並びに地域社会への障害のある人の完全なインクルージョン及び参加を容易にするための効果的かつ適切な措置をとるものとし、特に次のことを確保する。

(a) 障害のある人が、他の者との平等を基礎として、居住地及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること、並びに特定の生活様式で生活するよう義務づけられないこと。

(b) 障害のある人が、地域社会における生活及びインクルージョンを支援するために並びに地域社会からの孤立及び隔離を防止するために必要な在宅サービス、居住サービスその他の地域社会支援サービス(パーソナル・アシスタンスを含む。)にアクセスすること。

(c) 一般住民向けの地域社会サービス及び施設が、障害のある人にとって他の者との平等を基礎として利用可能であり、かつ、障害のある人の必要に応ずること」

第19条の文言は、強く、明確であるが、特に施設閉鎖を求めるものではない。しかし、その規定は、入所施設では実施できない。第19条(a)、(b)及び(c)は、施設収容とは単純に相いれないものなのである。

第19条はまた、輸送機関から個人の尊重、移動性、教育などに至るまで、障害者の権利条約の他のすべての部分とも相互に依存している。あらゆる人々にとってそうであるように、相互依存の概念は、障害者の権利条約固有の重要な原則である。たとえば、障害者の権利条約第3条及び第26条も、相互依存の概念を支持するものである。

「自立」という考えはそもそも文化特有的である。一人で生活するという考え方(「一人でやっていくこと」)が重視される社会もある。しかし、世界の多くの地域では、拡大家族が、同じ文化を持つすべての人々にとって、支援ネットワークや地域社会へのリンクであると考えられている。拡大家族には、血縁や婚姻関係のない人々も含まれる場合があり、あらゆる人々にとってそうであるように、知的障害のある人々も、多種多様な人々との相互交流や関係づくりなど、さまざまな方法を通じて、地域社会というものを経験している。

第19条を効果的に実施するには、知的障害のある人々は自立生活を送るべきである、とファミリーに言うことをやめなければならない。多くのファミリーにとって、それはあたかも一人で生活するべきであると言っているように聞こえる。しかし、第19条は、一人で生活することを求めているのではなく、必要な支援なしに生きるよう求めているわけでもない。第19条は、自立を一人で生きることとは定義しておらず、自分の人生における選択の機会と自己管理にかかわることとしている。一人で生活することを好む人もいるが、それは目標ではない。しかし、一人で生活したいと望む人々でさえ、孤独になりたいとは考えていない。人間は他者に依存し、相互に依存しあっている。相互依存は良いことであり、望ましい。複数の研究結果から、障害のある人々は皆、あまりにも孤独であることがわかっている。また、家族以外の大勢の人々と生活するとき、少数の人々と暮らす時よりも孤独に陥りやすいこともわかっている。相次ぐ研究の結果、あらゆるレベルの障害のある人々が、自らの生活に多少なりとも影響を与える決定について計画し、自己管理するのを、私達が支援できることも明らかになった。時にこれは「人中心の計画と支援」と呼ばれる。障害者の権利条約と第19条の目標は、相互依存、自己統治及び自己決定であり、他の人間からの自立ではない。第19条は、知的障害のある人々が完全な市民となり、有意義で現実的な選択の機会を有する人となり、そして、地域社会と国家における権利と責任の両方を有する人となることについて記している。またそれは、生活するためにどの程度支援が必要であるかではなく、適切な支援があれば享受できる生活の質について記している。一部の人々にとって、この相互依存は、自らの権利と責任の両方を行使するために支援が必要であることを意味する。第12条では、意思決定の一部あるいは大部分に支援が必要な人々のための枠組みを示している。

着替え、食事、有償のスタッフやその他の人々の支援なしでの地域での外出など、さまざまな課題を自力でこなすことは、当然可能である。障害にかかわる自立の概念は、一人で着替えができるか、補助なしに食事が作れるかなどの機能性を測定するために使用される検査と尺度に由来している。しかし、能力が、地域社会で互いに依存しながら自立生活を送るためのレディネスを意味するわけではない。私達は、障害のレベルにかかわらず、生活のおもな側面における相互依存と自己管理を支援する方法を知っている。障害の有無にかかわらず、大多数の人々にとって人生における重要な目標は、有意義な人間関係、友人関係そして地域社会とのつながりを築くことである。つまり、相互依存である。

人間の相互依存は社会資本となり、社会資本は人と地域社会とを強化する。村や都市、あるいは町で自然に発生した、障害とは直接関係のない人々が一員となっているネットワークに参加することは、知的障害のある人々とその家族にとって価値のあることとなる。それは、有償・無償を問わず、人間関係を構築する。地域社会に参加し、他の人々とネットワークで結ばれることで、障害者の権利条約の内容の大半は実現される。

それゆえ、自立した生活をするべきだ、と言うことはやめよう。それはファミリーを不安に陥れる。私を不安にさせる。