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国際障害者年第2次京都市行動計画

ノーマライゼーションを進めるための総合的福祉施策のあり方

完全参加と平等
-No.3-

平成4年10月

京都市

皆で考えよう

~ 平成3年度「心の輪を広げる体験作文」より抜粋 ~

〈最優秀賞〉

小学生の部

スナッピーくんとぼく

栃木県宇都宮大学教育学部附属小学校 二年
松澤 遼馬

 夏休みの一日,ぼくはスナッピーくんとあそびました。スナッピーくんはぼくの友だちです。スナッピーくんとはじめて会ったのは,ようちえんの時でした。
 ぼくはようちえんの時,おかあさんとバスで通っていました。そのころ,毎朝と中からバスにのってくる男の子とおかあさんがいました。その子は,としがぼくと同じくらいでした。そして,耳にきかいをつけていました。おかあさんに聞くと,ほちょうきだということがわかりました。その子はバスの中で,おかあさんと手をつかったりしていっしょうけんめい話をしていました。おかあさんに,べんきょうも教えてもらっていました。すごいなあと思いました。ぼくは,その子がのってくるのがたのしみになりました。そういうことがつづき,ぼくはその子と友だちになりたいなあと思いはじめました。 そこで,その子に名前をつけようと思いました。かわいい名前がいいと思って,マンガのスヌーピーをかいぞうして,スナッピーくんにしました。ぼくは,ある日おかあさんに,
「きょうは,スナッピーくんのってくるかな。」と,いいました。そしたらおかあさんが,
「スナッピーくんて,だあれ?。」
とびっくりしていいました。ぼくは,わけを話しました。そして,おかあさんとそうだんして,手紙を書くことにしました。
 冬休みになる前の日,ぼくはうちを早く出て,スナッピーくんがいつものってくるバスていでまっていました。そして,手紙をわたすことができました。
 冬休みになって,ようちえんの先生から電話がきました。スナッピーくんがおかあさんといっしょに,ぼくのじゅうしょを聞くために,ようちえんをたずねてくれたというのです。ぼくはびっくりしました。クリスマスには,スナッピーくんから手紙とプレゼントがとどきました。とてもうれしかったです。手紙を読んで,スナッピーくんのほんとうの名前がわかりました。ろうあ学校のようちえんに通っていることもわかりました。
 冬やすみがおわってから,毎朝,スナッピーくんと会うのがたのしみになりました。バスの中でスナッピーくんが,ゆび文字で話していたのがすごいと思いました。ぼくがおりる時はいつも手をふってくれました。
 しかし,ぼくがそつえんすると,スナッピーくんと会えなくなってしまいました。でも,春休みになってからは,スナッピーくんがぼくのうちに,あそびにきてくれました。そつえんのおいわいに,クリーム色のバラの花たばをもらいました。ぼくたちは,ファミコンをしたり,いろいろなことをしたりしてあそびました。とてもたのしい一日でした。そして,スナッピーくんと,もっともっとなかよくなるためにおかあさんといっしょに,手話をならおうとけっしんしました。
 一年生に入学するのといっしょに,中おう公みんかんのやじろべえで,手話を教えてもらうことにしました。やじろべえのおにいさんやおねえさんはねっしんに教えてくれます。夜なので,ねむくなるけれどがんばって行ってます。夏休みには,やじろべえでキャンプに行きました。すごくたのしかったです。手話も,少しずつおぼえています。学校のおたのしみ会で,手話で海のうたをやった時は,みんなにほめてもらってうれしかったです。
 スナッピーくんと友だちになれなかったら,手話もならわなかったでしょう。友だちになって,ほんとうによかったなあと思います。これからも,スナッピーくんといつまでもなかよくしたいなと思っています。

〈最優秀賞〉

中学生の部

春の心

新潟県立新潟聾学校 中学部二年
木林絵里子

 ある日、道徳の授業で学級担任の先生は、「あなた方は、体の不自由な人を助けたことがありますか?」と質問されました。
 あまりにも突然で、私は「なぜ、そんなことを聞くのだろう?」と思いました。なぜなら、私達生徒は耳が不自由なのですから、助けてもらいたい方なのです。例えば、「電話」。母や友達に連絡しようにも、私は耳が不自由なので声もろくに聞き取れません。
 だから、私の方こそ助けてもらいたいのに、他の障害者を、助ける?一体どうやって、と考えました。
 すると、先生は、つくしのおひたしを少しずつ配り、「食べてごらん。」とおっしゃいました。そのつくしはなにか春の味がしました。とてもおいしいつくしでした。そのあとで、このつくしを摘んでくれた人がK君という男子で、しかも全盲と聞かされた時、私はとても驚きました。全盲だというのに、つくしを摘んだり、料理こそできないものの、担当の先生にその料理法を教えたりできるなんてすばらしいと思いました。そして、私には、とてもできないと思いました。その時、先生がおっしゃいました。
「K君は、つくしを摘むことで、あなた方においしい料理を食べさせてくれたね。助けたことになるかな?」私は、ハッとしました。そして、私の考えは、間違っていたと思いました。たとえば誰かがとてもつらい時、手紙をその人に送るだけでその人の励ましになることがあります。それは、とても簡単なことかもしれません。
 それを、K君は、私達に、つくしを摘んだことで証明してくれました。K君のつくしは、私達への「春の心」という手紙です。
 さぞかし、大変だったでしょう。ありがとうございました。
 K君は、風が吹く音は、聞こえますか?ハチが、花粉集めに花々を飛びまわる羽の音は、聞こえますか?今、いいにおいのする場所に、こん虫達は飛んでいます。私には、はっきりと見えます。ここは、春まっさかりの花壇です。
 私は、耳が聞こえないので、吹く風の音もハチの羽音も分かりません。もし、聞こえるのなら、教えて下さい。どんな音なのか、どんな感じがするのかを。
 私は、好きで、この障害を持ったわけではありません。あなたもそうであるように、生まれながらにして、あるいは生後の病気で、障害を持って生活することになっただけです。
 障害名は違うけれど、どちらも身体に障害を負った同士です。それでも、心は普通の人と同じ、もしくはそれ以上に敏感なのですから、お互いくじけずに頑張って行きましょう。
 K君を通し、障害をもっていても「人」を助け、幸せにできることが分かりました。  私は、以前から考えていることがあります。それは、
「地球」を助けるということなのです。
「資源を大切にしていこう。」と、訴える友人を増していきたいと思っています。
 現代は、飽っぽい時代で、何でも捨ててしまいます。そんな時代を私達の力で、  「品物を大切にし、まだ使える物は使おう!」
と声をかけ合い「資源再生時代」に変えたい。そして、世界の各地で苦しんでいる人々が、たくさんいることも、同時に訴えたい。
 私がこのようなことを思うようになったのは、あるテレビ番組で女優の黒柳徹子さんがアジア各地に住む貧しい人々のことを語っていたのを見たからです。  その人々は、ほとんど裸同然でゴミにうずもれて生活をしていました。私は、それを見て、「かわいそうだな。今、なにか一つでもやってあげられることはないのかなあ。」と思いました。
 彼女は、アジア各地を回って、苦しんでいる人々を実際になぐさめたり、貧しさ、苦しみをテレビや本を通してありありと語り、私達に関心を向けさせてくれます。
 私は、彼女と同じことは、できないけれど自分のできる範囲で何か必ずできると思います。
 私は、聴覚障害を持つことにより、助けられる幸せは、今まで十分に味わってきました。そして、K君の「春の心」という手紙を受けとることで、私にも何かできることがわかりました。
 私達は、自分のことばかり考えずに他の人々を助けることも考えるべきではないでしょうか。その方が、助けた幸福感を胸いっぱいに味わえると思います。
 私は、これから助ける喜びを感じていきたい。なぜなら、助けられた「地球」もまた、嬉しいと思うにちがいないから……。

〈最優秀賞〉

一般市民の部

真心

京都府船井郡和知町
樋口 啓子

 母が頭のてっぺんから声を出して「本が来たよ、本が来たよ。」と、私の部屋に飛び込んで来た。
 私は生まれて間もなく不治の病である脳性小児マヒにかかった。以来、歩くことも話すことも出来なくなり、現在に至っている。
 おそらく結婚することも子供を残すことも出来ないだろう。そんな中で私も何か生きた証(あかし)を残したいと、強く思うようになった。そこで、かろうじて動く左手の中指でワープロを打ち、自分の書いた文章を本にしたいと思った。それは私にとって実現するはずのない大それた夢であった。
 原稿を書き終えて、まとめる段階になってから色々と協力してもらわなければならない母にそのことを話すと「そんなこと出来るはずがないやろ」と、母は鼻で笑っていた。
 でも両親はじめ多くの方々の協力があって私の夢は1990年12月に実現したのだ。
 10年近くかかって書いた文章を、2年間でまとめて出来上がった。本が届いて著者名が自分の名前の本を手にしても自分の本だとは思えず、「私と同姓同名の人が書かれた本ではないかしら」そんな気がして、本を手にしたまま時間の経つのも忘れ、ボーとしていた。本は宅配便で一度に百冊が届いた。宅配便の箱を開けてくれた母も、私の本を見た瞬間に涙が出てしまい言葉にならなかった。
 私は夜も百冊の本をベットのそばに置いて眠って、朝になって目が覚めると「夢ではないか」と思い、真っ先に本を見た。夢ではなく、本はあった。きのうとは全く違う本物の喜びが心にじわじわとわいて、夢が実現したことを改めて実感したのだった。
 出版社に買ってもらえる原稿ではないと、自分で判断して自費出版をすることにした。そして五十冊か百冊ほどだけ作ってもらい、今までお世話になった方にもらっていただけたらと思っていた。ところが自費出版するには費用がたくさんかかって、自分の本を作りたいと思い始めてからコツコツお金を貯め、費用がギリギリ貯められたので、印刷会社に「私の予算で出来る範囲で」とお願いすると「貴女がさしあげたい方にはあげたらいいですけど、自費出版するには費用もかかりますし、もし増刷が必要になっても、その費用も出ませんから、値段をつけて知らない方には少し買ってもらわれたほうがいいと思いますよ」と言われた。
 そこで印刷会社で値段をつけてもらって、私は自分の文章を他人(人)様にお金を払って買っていただくことになってしまった。とんでもないことであった。が、私の書いた文章など「一冊も買ってもらえるはずがないので、まぁ、いいか」と思っていた。
 本が出来上がると私は急に忙しくなって、子供の頃からお世話になった施設や養護学校などの恩師に手紙を添えて送ったり、「一人でも多くの人に読んでもらえたら」と思い、私が住んでいる町の町役場や、区役所に持参したところ、町議会議員と町長選挙の前でもあって新聞記者の方が町役場に来ておられ、私は運よく取材をしてもらった。
 いきなりカメラのフラッシュを浴び、私は最高に緊張をして震える体を押さえるのに必死だったけれども、何かスターにでもなったような気分だった。
 その日は12月20日だったので、新聞に私の記事を載せてもらったのは新しい年が明けて1月12日だった。その時はすでに民生児童委員さんや町内の人々が口コミで伝えて下さり、初版四百部も半分くらい出ていた。
 私は小さい時から施設や養護学校に行っていたので、地元では私のことを知らない人が多かったのに、私のことを知らない人までも私の本を買って読んで下さり、田舎町の人情の厚さが心にしみた。
 そして新聞に記事が載ると、地元だけではなく、京都の全域や滋賀県からまでも注文の電話が殺到し、あっ、と言う間もなく初版は品切れとなった。
 信じられないことであった。
 本が出てから半年もしない間に三刷までも増刷をしてもらって、千部に達した。二刷の一部だけは近くの本屋さんにおいてもらったものの、何がどうなったか自分でも分からないまま母と私は本の発送に追われ、眠る時間もない毎日がつづいた。その時も町内の教育委員会、社会福祉協議会、民生児童委員さん、ボランティアの方など、多くの方々に助けていただいて乗り切ることが出来た。
 また読者の方からは多くのお手紙が届き、中には贈り物までも届けて下さる方もあり、見ず知らずの私のために、精魂込めて作って下さった手作りのクッション、お手玉、押し絵、バラの花束、本、カセットテープ、お菓子、読者の方のお写真などなど。多くの方々から何にも勝る真心をいただき、うれし涙を流さない日はなかった。
 本には「四角い空」と題名を付けた。
 全身が不自由で、あまり外にも出られず、いつも部屋の窓から空を見ている私は、外に出て大空が見られると言いようのない感動を覚える。限りなく広い空も部屋の窓から見ると小さくて四角い。けれども、小さな空しか見れない毎日が悲しいのではなくて、大空を見れた時、その広さに感動出来ることが素晴らしいのだと思う。それも体に障害があるから味わえる感動で、悲しくて辛いことが多くてもマイナスばかりではない気がする私は、そんな思いを文章に表したかった。
 そして幼い頃に学校へ行けなかったことや七回も受けた手術のこと、片思いで終わってしまった心恋、数少ない旅行のこと、好きな猫のことなど三十一の作文で綴った本にした。
 そんな自分のことばかりを書いた本だったのに、小学生の子供さんから八十歳代のお年寄りまで多くの方に読んでいただいた。障害者の書いた本など読んで下さる人は誰もないと思っていたのに、いただいたお手紙は体に障害を持たない方がほとんどであった。その内容は本の感想や「今まで障害者は住む世界のちがう人だと思っていたけれど、私たちと同じだということを知った」と書いて下さった高校生の女の子。「健康で何不自由なく生きていたのに、突然に病気をして、そのお蔭で健康の有り難さや色々なことが分かったから、病気をしたことも辛いばかりではなかった」と書いておられた人もあった。
 それらのお手紙一通一通に私は感謝を込めてお返事を書いた。すると、お友達になって下さった方も多くあり、何人かの方は文通をして下さっている。
 この世の中で、そんな心優しい人々がいて下さるお蔭で私のような者でも生きることが出来るのである。
 そして障害を持たない方々が私の本を読んで下さり、一時でも「体に重い障害があっても私たちと同じ思いでいるんだなぁ」と思っていただけたら、こんな嬉しいことはない。
 私は現在、施設には入らずに両親と自宅で生活している。人口が4,500人あまりの小さな田舎町で、私の本が出来た頃、町内では最も身近な町議会議員の選挙が行われ、世界では湾岸戦争が勃発していた。だというのに町内の人々はもちろんのこと、全く見ず知らずの多くの人々が私のような者が書いた本に目を向けて下さり、買って下さったことに感謝してもしても、しきれない。
 私は今までに「死にたい」と思ったことも何度かあった。でも何があっても生きるしかないと思って生きてきた。けれども、この時ほど「生きていてよかった」と思ったことはなかった。
 これからも私は多くの人々に助けてもらい真心に支えられ、生きていかなければならないのだから、頑張って生きなければと思う。

〈優秀賞〉

小学生の部

僕の足は魔法の手

岩手県立盛岡養護学校都南校小学部 六年
高橋 博幸

 僕が、都南の園に来てから長い年月が過ぎ去りました。
 幼児の時に入園し、現在は小学六年生として、小学校生活最後の年を送っています。僕が生活している都南の園は、体の不自由な人達の施設で、訓練や勉強を頑張りながら、互いに励まし合って生活している所です。僕の障害は、両腕が無いのと、背骨が曲がっている事です。入園当時は、母親と離れるのがつらくて、二、三日は大泣きした事を覚えています。また、何をするにも人より時間がかかり、おまけに泣き虫で先生や看護婦さん達を困らせてばかりいた事が思い出されます。
 施設の中で両腕が無い子供は僕だけなので、何をするにも人のまねをするという事は出来ず、自分の力で工夫して取り組む事が多かったです。何度も何度も練習して、着替えが出来るようになった時や洗面タオルを自分でしぼれるようになった時などはとてもうれしかったものです。
 くじけそうになった時にはいつも「僕の足は手のかわりなんだ。」と胸の中でつぶやき、自分をはげましました。字を書く事、箸を使って食事をする事など、出来る事が一つまた一つと増えてくるにつれ、「僕の足は魔法の手なんだ。」と思えるようになってきました。
 最近では、おしり拭きも一人で出来るようになってきました。台の上でひざ立ちになり、左足で拭くというやり方です。出来た時は「ああ、やっぱり自分で出来た事はいいなあ。」と実感しました。帰省日に家に帰るといつもお母さんにこう言われます。「お前は、何でも足でしなければいけないんだよ。あきらめずに頑張るんだよ。」と、僕もそのとおりだと思います。
 確かに片方でも手があれば、どんなに楽に生活出来るだろうと思うこともありますが、今の僕には、「他の人にまねが出来ないことをしてるんだ。」「僕の足は魔法の手なんだ」と言い聞かせながら努力することが一番大切なんだと思えるようになってきたのです。
 しかし、施設を一歩出て外出する時など、他の人から「いやな目」でじろじろ見られる時があります。僕にとってこれが一番つらいです。自分では、「足を使って何でも出来るんだよ。他の人と何一つ変わらなく出来るんだよ。」と語りかけ、自分を少しでも分かってほしいのですが出来ません。去年行われた手代森小学校との交流会では、「いやな目」で見られる事がなく楽しい交流をする事が出来ました。そして、何人かの友達もできました。最初のうちは、「自分のことをどう見てるのかなあ。」と不安の方がいっぱいで、自分から話しかけることができず重苦しい感じでした。ドキドキしながらも勇気をふるい起こし、一言あいさつしたら気持ちが楽になり、楽しい時間を過ごすことができたのです。今まで出来そうで出来なかったことが実現できた喜びみたいなものを感じました。そこで学んだことは、自分から勇気をもって話しかけ、少しでも自分を理解してもらうことの大切さです。
 自分をよりよくわかってもらうためには、心の中だけであれこれ考え込んでいるより、自分から積極的に働きかけなければいけないのです。これからも、もっともっと自分でできることを増やし、勇気をもって誰とでも語り合えるようにしていきたいです。「僕の足は『魔法』の手」なんだから、友達もたくさんできるはずだ!。

〈優秀賞〉

中学生の部

障害という言葉

宮崎県田野町立田野中学校 三年
紺家 正太郎

 ひじから先のない「左手」と付き合い始めて15年がたちました。その間いろいろなことがあったけど、お互いに認め合って、今日までうまくやってきたつもりです。自分だけの大事な左手のことを、僕は「さまたげになるもの」という言葉で呼びたくはないのです。
 人間は目が見えるものだ、手があるものだという固定観念で人を見るのは、間違ったことだと思います。目が見えなくても、手がなくてもその人個人としては、何の変わりもないのです。その人のありのままの姿を、認めることが大切なのではないでしょうか。目の見えない人だって、手のない人だって、世の中にはたくさんいます。目の見えない人には、目で見ることのできない別のすばらしい世界が見え、また手のない人には別のすばらしい手があるのだと思います。それを無視して障害だと一言でかたづけるのは、おかしいと思います。なぜ、誰がどうして「障害」なのでしょうか。空を飛ぶよりも走りの得意な鳥がいるように、それは、そのものが生きている世界の自然な姿なのです。歩けなかったら障害だ、音が聞こえなかったら障害だと、何を基準に「さまたげになるもの」と決めつけるのでしょうか。
 僕は、左手を障害だと思ったことは一度もないし、ましてハンディとは思ったこともありません。僕は、自分が育った環境に、とても感謝しています。
15年前の8月24日、男の子が欲しかった家族にとって、僕は待望の赤ちゃんでした。しかし、左手のひじから先がない赤ちゃんに、家族はただただおろおろするばかりだったそうです。
「トイレに行けるか、体育の時間はどうするか。正太郎の左手についていろいろ心配したのよ。」
と母が思い出を楽しそうに話しするのを聞いて、僕はいつの間にかやさしくなれるような気持ちになったことを覚えています。
 僕の左手は、家族の中で「いいもの」として育てられました。特に兄は、食事の前に手を洗う時、
「正太郎はええな。片手しか洗わんでいいから楽ちんや。」
と言い、父は、
「苦しみや、悲しみは今のうちから貯金になる。貯金は、困った時引き出せるんや。正太郎の左手は貯金や。だから、人を傷つけたりして、貯金をへらしたらあかん。」
と口癖のように話してくれました。両親は両親なりに、兄は兄なりに、真剣に左手の持つ大切さについて、僕に少しずつしっかりと教えてくれました。だから僕は、左手のことにあきらめがついたし、左手は僕だけの大事な手だと思えるようになりました。
 「世の中に障害者はいない。」これが僕の15年間の答です。目の見えない人も、手のない人も、足で歩けない人も、それぞれの世界にすばらしい何かを持っています。人の悪口を言ったり、人を差別したり、人をいじめたりする人も、すばらしい世界を持つ人達との交わりの中で、何か貯金をしてもらいたいと思います。世の中には、本当の意味での障害者はいません。障害という言葉さえも本当はないはずなのです。
 今の僕がいて、今の考え方があるのも、きっと家族や友達、親せきの人達とのすばらしい出会いがあったからです。その人達に対する感謝の気持ちをかみしめながら、自分の世界に広がりをもたせたいと思います。

〈優秀賞〉

高校生の部

初対面の記録

京都府京都市立日吉ケ丘高等学校 二年
宮永愛子

「……。」
お互いの目をじっと見つめあう。
その子は最初、疑い深く見つめる
そのあと真剣に、慎重に見つめる
私という人物を、自分の中で、
いい人?
か、どうか判断しているのだろうか。
手で確かめたいらしい。
まず、私の顔をさわってみる。
つぎに頬っぺたをさわり、
顔を近づけてみる。
何を感じとっているのだろう。
少したって私がニコッと笑うと、
その子も初めてニコッと笑った。
なぜかうれしかった。
あの子はどう思っているのだろうか。

 私の体には障害がありません。しかし、私は、障害という言葉にすぐに反応し、関心をもっています。病名や障害の程度と症状の関係など、人並みの知識は、本からでも学ぶことはできましたが、今まで普段の生活の中で、障害をもった人と接触する機会がありませんでした。
 そんな私が朝日新聞の「障害児キャンプ」の高校生ボランティア活動に参加したのは、自分の見識の狭さをなんとか広げたいと思ったからです。
 キャンプが始まった瞬間、ひとりひとりの思い思いの行動にすごく驚かされました。母親でも家族でもない見知らぬ者どうしが、共に生活し、感動をわかちあうことができるのか?という不安が頭の中をいっぱいにし、私達を窮地に追い込みました。
 私は普段、相手の目を見て話すことが好きだったので、私流のコミュニケーションのとり方として、子供達に話しかける時必ず目を見て話すことにしました。
 そこで大発見をしました。
 それは、みんながきれいな目をしているのです。会話のできる子も、できない子も、純粋な優しい目です。
 “目は心の窓”ということわざがありますが、これほどに、それを感じたことは今までありませんでした。
 不自由な分だけその目で、沢山感じとるのでしょうか。
 私が一番印象に残っているのは、A君との出会いのものです。
 A君は小学校五年生で、一般にいう言葉は話しません。アー。だとかギー。だとか声を出します。
 専門医は、A君のような子を「自閉症」と呼んでいます。
 私は「自閉症」がどんな病気なのかを沢山話す必要はないと思います。A君は「自閉症」である前に、みんなと同じ子供なのですから。そのことの方がずっと重要なことだとは思いませんか?
 顔を触ったり、近づけたり、そんな子がいたかと思うと、抱き合ってみたり、ちょっと腕をかんでみたり……。 という私達の生活の中での「常識」を越えた出会い―ちょっぴり不思議な―を体験しました。
 最初のうちは、さも救世主のように、ああしてあげよう。教えよう。進歩しよう。といった高い所から見おろすような、また子供達を操作するような姿勢をとってしまい、自分の決めたワクにはめこめがちになり、A君たちを窮屈な世界へおいてやってしまいました。
 これは大きな反省点です。
 もっと自由に子供のペースで。
 視線も気持ちも同じ高さで、時にはそれより低い姿勢で接することが大切なのです。
 A君は、一人でふらふら歩いていってしまう癖があります。
 どこへ行きたいのか?どうしたいのか?
 残念ながら私にはわからないのですが、言葉がなくても、様々な心の辞書という表現があることに気づきました。
 「言葉のない子供の意志表現は単純だ。」と聞いたことがありましたが、私は、とんでもない―と思いました。人は子供でも老人でも誰でもが色々な形で自分を表わしていると思うからです。例えば、黙っていることさえも一つの表現じゃないでしょうか。
 心のうちにあるものをよみとるのはとてもむづかしいけれど、表現されたものの後ろには、必ず重要な意味が含まれているのだと思います。
 自分のなかの「常識」を捨てて行動を共にしていると、A君の“ぶらぶら歩き”には二種類あることがはっきりわかりました。
 捜してほしい時には、後ろを振り返りながらドタドタ走って行きます。
 捜してほしくない時は、足音もない位、スッとどこかへ行ってしまうのに。
 私は、A君と少し心を共有できたような気がして嬉しくなりました。
 でも、私の持っている心の辞書では解明できない動きが一つありました。
 口の前に人指し指を立てて、「静かに」の「シーッ」とすることです。笑顔で示してくれるので、どうも悪い表現ではなさそうなのですが……。
 あまりに不思議な動作だったので、A君のお母さんに尋ねてみると、「電車に乗ると、いつも大声を出して、回りの人を驚かせるから、小さい頃に『静かにしなさい。シーッ』と教えたのをどうも覚えていて、言っているのだと思うのよ。」と教えて頂きました。
 静かにの「シーッ」と笑顔での「シーッ」
わからぬままでの最終日。
 雨の中のキャンプでも、相変わらず、A君の得意の「シーッ」は続いていました。
 A君はきれい好きで、汚れる事が嫌いでした。雨が降り続いていたので当然のごとく、靴はどろどろ、カッパはびしょびしょ。その上、A君は脱いだ拍子にカッパを落としてしまい、泥が着いてしまいました。回りがどんな状況でも、「我が道をゆく。」というA君は川へカッパを持ってかけて行きました。雨の中なので、もちろん私は追いかけて行き、「危ないよ。滑って川にはまるから、洗ってあげるわ。」と言いました。すると、また「シーッ」です。足元を見ると靴もドボドボ。「靴もかえよっか。」って誘うと、またまた、「シーッ」。あっと思いました。
 「シーッ」とすること。
 これはA君流の『YES』なのです。
 確かめのつもりでもう一度、「お菓子食べたい?」って聞くと、やっぱり答は「シーッ」。難問はやっと解決できたというわけです。
 私はこのキャンプに参加して、自分自身に少し変化があったように思います。
 日頃、時間に追われて、生き方のすみずみまで能率本位になっていた自分が、少しずつ遠ざかっていって、子供達と心から接するゆとりができるようになりました。
 私は今の世の中は、暗闇に向かっているように思います。
 ものがふえ、豊かで、ぜい沢にみんなが過ごしています。生産、能力、お金、地位と。  能力のある人は地位も高く、人間としての価値も高い。という人間観があるのが、今のこの世の中です。
 健常者でも、心が不自由ではどうにもなりません。人の心はこれでいいのでしょうか。
 障害を持った子供達は本当に、純粋で真心があります。
 私達は障害を持った子供たちから、お金や地位では得られないものをもっと学ぶべきです。
 そして、助け合い、楽しみながら、生きがいをもって生きていける世の中を願うべきだと思います。
 サヨウナラノキロク
  お互いに目をじっと見つめあい
  そして
  ちょっと笑って―
  「シーッ」

私たちの意見

~「京都市心身障害者実態調査 自由意見」より抜粋~


「身体障害者実態調査(18歳以上)」より


男性 左京 65歳 呼吸器障害 1級

 私の病気は,完治しないと医者からいわれており,現在より悪くならないように,日々努力しているような状態です。病院へ行くようになって,私のような病状の方が多くおられることを初めて知りました。患者同士で,励まし合うようにしておりますが,皆,口に出さないまでも先行きの不安が十分伝わります。
 私たち患者は,その都度少しでも,病状の進展について話してほしいのです。専門病棟での同病患者の指導ができるような病院をつくっていただきたい。

女性 左京 60歳 片上下肢障害 1級

 現在の病院に落ち着くまで,大変苦労しました。現在の病院には,感謝しております。このような苦労がないように,身体障害者専門の病院の充実(眼科,耳鼻科なども)をお願いいたします。

女性 左京 41歳 四肢障害 4級

 私たちのような障害者が持っている病気というのは,一生付き合っていかなくてはならない病気です。日頃の身体への気づかいをしながら,だましだまし,無理をせず過ごしています。障害者医療をはじめとした医療制度の拡充を図ってほしいと思います。

男性 山科 38歳 両下肢障害 4級

 学校教育で障害・高齢者・同和問題についての時間を設けたり,健常者(普通学校)と障害児(養護学校)間の交流を密にしたり,障害児の障害の程度に応じて普通校への受け入れを促進するなど,子どものうちから障害者に対する理解と関心を醸成するような教育が必要であると思います。
 こういったことが行われない限り,障害者を社会の差別・無関心・特別視から解放されることはないだろうと思います。社会に理解と関心を。

女性 西京 28歳 片下肢障害 5級

 職業安定所での障害者の職業相談室には,障害者の職業に対して専門的な知識を持ち,熱心に取り組む者を配置し,1人の人を長い間見ていかねばならないと思うので,人事異動は退職者が出たときのみにしてほしい。ただ職業を紹介したらいいという考え方ではすまないと思う。

女性 西京 33歳 聴覚・言語障害 2級

 耳に障害を持っていると,どうしても情報不足のためか考えが偏りがちになります。自分自身の意識を変えることも必要ですが,地域社会に溶け込むのも容易ではありません。福祉事務所へ行っても手話のできる人が常にいるとは限らないし,健聴者なら電話1本ですむことさえも,面倒でも福祉事務所まで行って手話のできる人に交渉してもらわなくてはいけません。聴覚障害者向けにファックス番号を掲載した小冊子(電話帳)をつくってほしいです。

女性 伏見 50歳 じん臓障害 1級

 私たち内部疾患者(じん臓障害・人工透析患者)は,年間約100~150回の通院が必要です。この通院には,介助者のいる場合のみ交通費の減額が許されますが,ほとんどの人が1人での通院です。これでは何も機能していないことになります。1人でも利用できるように希望します。
 旅客運賃減額に対しての高速道路の減額も同じことです。

女性 伏見 22歳 四肢障害 3級

 障害者が地域の中で,家族から独立して生活していく場を保障してあげたいが,親以外の介助者・指導者は見つけにくく,その原因として,待遇の悪さが影響していると思う。 {メニューが選べるほど障害者の生き方があれば,また,選べるように親も頑張らねばと思い,期待と不安の毎日を送っています(親の意見)。}

男性 西京 25歳 片下肢障害 4級

 私は,人の何倍も仕事をしても,人並みの給与はなかなかもらえません。そこで,社会保険・税金など給与から引かれるものが,少なくなればと思います。
 障害者も人並みに仕事をして,人並みに生活したいのです。給与が少なくても,引かれるものが少なかったら,少しは違うのではと思います。

男性 伏見 55歳 心臓障害 1級

 障害を理由とする年金と同時に老齢年金も受給できるようにお願いします。

男性 53歳 片下肢障害 4級

 普通の人に負けないように一生懸命働いているが,給料より引かれるあらゆる税金などが高すぎるので,なんとかしてほしい。

女性 上京 44歳 両下肢障害 2級

 障害者が,安心して老後の生活を送れるように,個人の生活(が守られるよう一人一室)や入所者にもっと行き届いたケアができるような(職員の確保・育成)養護老人ホームを増設してほしい。そのためには,施設に対する助成金の増額を強く望みます。

男性 上京 72歳 片下肢障害 4級

 地下鉄・私鉄などの駅の改札出入り口,エレベーター乗降口が不便な場所にあるのが困ります。エスカレーターも上りか下りかの片方運転だけでは困ります。各施設ごとに,階段数の表記があればと願っています。

男性 53歳 片下肢障害 4級

 駅に自転車置き場がないので,通勤に使うための自転車が駅でよく撤去されます。片足が不自由な私には,大変困ります。身体障害者用ステッカーなどで自転車置き場を自由にしてほしい。

女性 西京 48歳 片上下肢障害 2級

 私は事故に遭い,それにより障害者になりました。歩道には,歩くことができないほど,商店の品物が雑然と並んでおり,仕方なく車道に下りたその一瞬に後ろからの単車にはね飛ばされました。歩道の商品・路上駐車がなかったら,あんなことにはならなかったのにと思います。
 歩道の商品・路上駐車はもっとなんとか考えてください。お願いします。

女性 山科 44歳 両下肢障害 3級

 私は両足変形股関節症のため,ゆっくりであれば歩けても,足が上がらないので,歩道の段差が気になり,階段やバスのステップの利用も困難です。また,遠出する時に和式トイレが利用できず,なかなか外出できません。気楽に出かけられるような街づくりを希望します。

男女無記入 上京 無記入 無記入 1級

 人手を借りずに,移動や生活ができることを一番望みます。
 (1)リフト付きバス,(2)エレベーター,(3)車いすトイレ,(4)段差にはスロープ,(5)日常生活用具,の開発に力を入れてください。そして,どうしても人手の必要なことに対する介助の充実を図ってください。

女性 左京 24歳 片下肢障害 4級

 物心がついた頃から,人並みに誰にも迷惑をかけずに生きていけるという自信がありました。しかし,最近適齢期になって,結婚という障害ができました。無理に結婚しようとも思いませんが,結婚せず老いていくのかと思うと,住宅・年金問題などが不安になります。私のような中途半端な障害の者には,どのような保障があるのでしょうか。障害が目に見える人だけの福祉というのはおかしいと思います。


「身体障害児実態調査(18歳未満)」より

 (※保護者が記入)


女性 醍醐 3歳 ぼうこう・直腸障害 2級

 障害が重複しているため3つの診療科目に通っていますが,それぞれ病院が違うため大変です。総合的で障害者にも理解のある“小児医療センター”をぜひ京都にも建設してください。

女性 中京 10歳 ぼうこう・直腸障害 4級

 私の子どもの場合二分脊椎です。この病気は大きくなるにつれていろいろなことが出てきます。現在,整形(足の変形)と脳外(水頭症)で泌尿器科に診てもらっていますが,あちこち回らなければなりませんし,病気にあった専門の医療を受けたいので,医療費を軽減させ受診しやすいようにしてほしいです。

女性 左京 15歳 心臓障害 1級

 子どもは先天性心疾患のため,通院や入院・検査で大変苦しい生活でしたが,3歳半の時にした手術後はみちがえるように元気になり,今は年1回の検診以外,健常児と変わらない生活を送っています。父親が医師をしている関係もあり,当時としては最高の治療・医療を受けられたので,今の健康をいただくことができたことに感謝しています。でも,この状態がこれから先も,約束されているわけではないので,検査だけは続けていくつもりです。今後もますます医学が発展し,福祉医療のレベルが向上して,多くの子どもたちや家族が明るく生きていけるようになることを願っています。

女性 深草 6歳 四肢障害 1級

 高校卒業後のことが心配です。学校へ通っている時はいいのですが,高校卒業と同時に毎日通える場所がなくなってしまうのです。通える場所があっても,週に2回程度のデイケアサービスくらいなので,学校のかわりに毎日通える場所がほしいです。親亡き後のことも考えてほしいです。

女性 4歳 片上下肢障害 4級

 就学前に一番悩むのは,学校生活のことです。今の学校のやり方は,ほとんど管理教育の学歴優遇社会であるから,考え直してほしいと思う。特に障害を持っていると「いじめ」の問題が出てくると思うので,その時学校側がどのように対処してくれるのか,今から不安で仕方がない。子どもが小さいうちは,純粋な心をもっているのだから,小さい頃から,ハンディのある子もない子も,同じように,保育・教育を受けて育てば,もっと心優しい人間が増えると思う。特に必要のない限り,みんな同じように教育を受ける権利を与えるべきだと思う。今後は,児童数が減少してくるのだから,小人数制のクラスにし,よりキメの細かい教育を望みます。

男性 上京 4歳 心臓障害 4級

 障害のある子どもが健常の子どもとふれあうことは,とても大切ですが,健常の子どもにとっても,小さい時から障害を持つ人を見ていることは,大人になってからの理解を深めていくことにつながって,自然と障害を持つ人も社会の一員であることを認めてくれると思います。特に,障害のある子どもたちは,小学校に行くようになると障害児学級や養護学校に入り,生活の範囲が狭まるように思います(健常児とのふれあいによって,成長することが多いと思うんですが)。なぜ,地域の学校ではなく,遠い所に通学しなければならないんでしょうか。障害があるならば,負担の少ない地域の学校で,兄弟や近所の顔なじみの子どもたちと一緒に行けるとどんなにいいでしょう。地域の学校に養護や障害児学級(本当はこんなのなくって,みんな同じ組で必要によって,そのときだけ分けて勉強するみたいな)があればいいと思います。でも,保育園にしても,入れてもらえて感じることは,その中の先生の方が熱心であって,福祉行政の力が大きいと思われることは少なく,というより足を引っ張っていることもあると思います。

女性 山科 10歳 四肢障害 3級

 子どもに仕事や就労する場があるか不安です。企業に十分理解してもらい,雇用を拡大し,安心して生活できるだけの給料を出してもらえるように,企業側にもっと働きかけてほしいです。

女性 右京 14歳 聴覚・平衡障害 2級

 難聴の子どもが情報を得るためには目で楽しむ方法しかないので,テレビの字幕放送番組をもっと増やしてほしいです。また,ファックス電話を購入したいので,補助金を申請したいです。
 それから,補装具などの申請手続きのために,福祉事務所へ何度も通わなくてはならないので,もっと手続きを簡単にできないでしょうか。

男性 下京 9歳 四肢障害 1級

 訓練・通院・療育・家庭での介護が,どうしても母親にすべてのしかかってくる。他の兄弟のこともあり,常に心身ともに重い責任がかかってくる。その助けとなるヘルパー派遣や,家族の病気・外出時のデイケアサービスが地域にあればいいと思う。

女性 山科 16歳 四肢障害 1級

 誰もが一番心配していることは,親亡き後の子どもたちの生活だと思います。そのためには,介護してくださる方々の人数増加や教育に力を入れていただきたいと思います。

女性 下京 10歳 両下肢障害 2級

 スポーツ施設などにもっと指導員を配置して,充実させてほしい。また,スポーツ教室の数も少ないし,普段に行っても介助者との使用のみで指導員の指導を受けられないので希望すれば,すぐにも指導が受けられるようにしてほしい。
 民間のスイミングスクールにも,子どもの状態をみた上で受け入れてくれるような制度をすすめてほしい。

女性 西京 14歳 心臓障害 3級

 障害児も当然,やがて障害者となるのであるから,保護者がいなくなっても自活できるように,障害の程度に応じた職業訓練を行い,企業にも現状よりさらに厳しい規制を行って,雇用の促進をはかってもらいたいし,その際,ただ雇用機会のみを促進するのではなく,寮など施設の充実も図り健常者と同じように生活できるよう工夫し,努力していただきたい。

男性 11歳 体幹・脳原性運動障害 1級

 子どもが大きくなるにつれて,親の悩みは大きくなるばかりで,介助の人がほしいのは一番大きな問題です。どこかに出かけるとき,一時的に子どもの面倒を見てほしいです。また,親の負担が大きいので,いろんな人と話す機会がほしいし,体の不自由な人とが親と一緒にレジャーにたくさん行ければいいなあと思います。

女性 右京 2歳 じん臓障害 3級

 私の娘は,先天的に3つの障害を持って生まれてきました。そのための医療費が多くかかり,私は付き添いのため仕事をやめました。身体障害者手帳のことについて知ったのは,娘が1歳をすぎてからで,手当や相談が受けられることをもっと早く知っていたらと悔やまれてなりません。先天的に障害を持った人に対しては,産院・病院・福祉事務所と,一貫した紹介が必要だと思います。

男性 4歳 四肢障害 1級

 障害者はいくら労働意欲があっても,健常者と同じ,または同じ以上所得を得ることは難しいと思う。また,障害者の親が高齢になった場合,障害者の生活を営むための十分な所得を得ることも難しいと思うので,今の給付金,免税などを含めて,経済的な保障の充実を望みます。

男性 西京 17歳 片上下肢障害 3級

 養護学校のようには,と申しませんが,普通の中学・高校の校舎内にスロープをつけていただきたいと思います。

女性 16歳 両下肢障害 2級

 京都市の真ん中の京都駅周辺に,高野の障害者スポーツセンターや中書島の府立体育館のようなスポーツセンターが一つあればとても嬉しいのですが……。

男性 10歳 四肢障害 2級

 重度障害者が働く所を,他の県にまかせないで京都につくってほしいです。また,次のような施設をつくってほしいです。

  1.  障害を少しでも克服できるような,リハビリセンターなどのある施設。
  2.  家庭の事情で,一人暮らしをしなければならない人が安心できる居住空間を備え,自立可能な障害者が共同で生活できるホームを近くに併設する施設。
  3.  外からも,通所可能な労働施設,重度の人も軽度の人も楽しく働ける所。
  4.  障害者が地域の人々と交流できるような施設。
  5.  親亡き後も安心できて遠い所まで会いに行かなくても,子どもが生まれた土地で生活ができたらいいと思います。

 また,高野に障害者スポーツセンターがあります。私たちも,とても助かっています。プールでもプレイルームでも,外では,目が離せなくても,室内にいてくれたら安心して自由に遊ばせておくことができます。

女性 深草 6歳 四肢障害 1級

 デパートなどに赤ちゃんのおむつ交換の場所をもっと広く取って,重度障害の子もおむつ交換できるようにしてもらいたいです。

女性 右京 12歳 四肢障害 1級

 自家用車がなくてもいつでも気軽に出かけられる設備を早急に整えていただきたく思います。外出させようと思っても「あの階段があるし難しい。人に頼むのが大変な時もあるし……」なんて思ってしまうことが多すぎます。まして,駐車する場所を探すのが難しくなってきているので,なおさらバス・電車での利用しか外出できなくなってくると思います。

男性 右京 15歳 心臓障害 1級

 障害者の状況は固定的ではなく変化するものであることを,特に行政の皆さんに理解してほしい。また,障害者の経済的自立は,現在の社会構造では大変難しいと思いますが,1人ひとりの状況に応じたきめ細かい対応と配慮があって初めて実現できると思います。そのための施策が必要と考えます。
 両親が健在のうちに障害者本人(息子)に,障害者として正しい自覚と,障害者をとり巻く社会状況から甘えと卑屈を克服することの重要さを強調していきたいと思っています。

女性 右京 7歳 四肢障害 2級

福祉事務所と保健所のつながりが弱いと思う。

女性 4歳 片上下肢障害 4級

 今の社会は,健康な人にとっては暮らしやすいが,障害のある人にとっては非常に暮らしにくい構造となっているので,もっと障害のある人の立場に立って考えてほしい。

女性 中京 8歳 心臓障害 1級

 子どもには,学校や社会の中でごく普通の人として生きていてほしいです。同情はいりません。ありのままを受け入れてもらいたいです。ハンディを持った子どもや人が普通に溶け込み,まわりの人たちに気兼ねなく生きられる社会を望みます。人として安心して生きていける第一歩は,その人のハンディを補う福祉行政だと思います。障害という響きは大嫌いです。


「精神薄弱者(児童を含む)実態調査」より

 (※保護者及び一部本人が記入)


女性 左京 48歳 A判定 無記入 手帳なし

 精神薄弱者が気兼ねなく診療を受けられる病院,その他施設の充実を図ってほしい。

男性 左京 2歳 B判定 聴覚・ろうあ、両下肢障害 手帳なし

 染色体異常について,治療,または療育できる機関の整備を進めてほしいです。子どもが障害をもって生まれてくることをまったく予期していなかったので,出生前のチェックの重要性を痛感しています。専門的な産婦人科でできるようにしてほしいです。

男性 8歳 A判定 無記入 手帳なし

 医療面では,児童相談所の診療所で気兼ねなく診察を受けられて助かっていますが,内臓疾患で入院するようなことになると,たちまち困ってしまいます。病院側で受け入れはしてもらえますが,精神障害の場合は,やはり一般病棟での入院生活は難しい面があります。今,うちの子は高度肥満で困っているのですが,肥満児入院指導も“精神障害児はお断り”というのが現状です。健常児と一緒に生活指導ができないのはわかりますが,健常児より障害児の方が肥満の割合は多いので,広く受け入れてほしいです。何かにつけて本人に自覚がない精神障害者を受け入れてもらえる専門の医療施設がほしいです。

女性 上京 3歳 B判定 無記入 手帳なし

 小学校→中学校→高校と続く教育機関の充実を。現在の障害児学級をもっときめ細かく,1人ひとりに合った,障害児のための学級編成になるよう努めてほしい。

男性 中京 18歳 B判定 無記入 手帳なし

 ぼくは,白河養護学校に通学し始め,今年で早くも卒業の年を迎えてしまいました。来年の3月,ぼくたちは白河を巣立ち,それぞれの社会(道)に向かって進んでいくのです。しかし,就職するにあたり,その会社が障害者に対して,どれだけの理解があるかなどが心配です。
 “障害者だから……”と外観だけで見ないで,もっとその人たちのできる部分を見てあげることが大切なことだと思います。一日も早く障害者に対する就職差別をなくしたいものです。

女性 西京 38歳 A判定 ろうあ障害 手帳なし

 障害者が働いている企業を時おり監査して,時間給やその他の扱いにおいて大きな差別をしていないか調査をしてほしいと思います。
 現在,[1時間420円]という状況で,慰安旅行や新年会の招待も除外されています。先日,電話で抗議をすると,いつやめてくれてもいいと言われました。しかし,仕事をやめたくないので,仕方なくまだ勤めています……。 現在勤続19年目です。

男性 左京 18歳 B判定 情緒障害 無記入

 週末など時間があっても,どこにも出かける所がなく,また,出かけても障害者同士の集まりとなってしまう。もっと普通の社会の中に入って楽しめる所がほしい。

男性 中京 6歳 A判定 無記入 手帳あり 1級

 家族と力を合わせ,近所の方たちにもよく助けていただいている私たちですが,長男が重度障害者で,主人が海外出張だった時,手伝いにきてくれていた母が病で倒れ,次男が高熱を出した3年前のことです。保健所に相談したところ,家政婦さんしかいないということでした。そんな時,ちょっと世話をしてくださるボランティアの方たちがいてくださればと思ったのです。まったく障害児のことを理解していない方が来てくださっても,何にもなりません。その後,麦の穂学園が緊急一時預かりをしてくださると知って,少しは安心したのですが。
 食事がチューブでしかできない我が子にとって,医療行為ができる看護婦さんのボランティアの方(国か京都府・市が負担)がいてくださったら,どれだけ助かるだろうとよく思います。

女性 左京 35歳 A判定 情緒障害 無記入

 老人・身体障害者ばかりでなく,生まれながらの精神薄弱者本人・その家族も,かなり心身ともに疲れています。家族が入院したり,母親が寝込んだりすれば,一番に困るのは本人です。お願いしたい日時に,ホームヘルパーにきていただけるようなことはできないものでしょうか。母親自身,身動きの取れない時があります。私ども,今年2月に(本人の)父を亡くしまして,ショックも大きく情緒不安定が続いています。

男性 伏見 22歳 A判定 無記入 手帳なし

 現在において,恵まれていると思いますが,年が老いていくにつれて,体力的に続けて行けるかなあという不安があります。休日は,乗り物に乗ってどこかへ出かけるとか,友だちと一緒に行動することができないので,親が連れて出かけなければなりません。伏見の方に,親子ともにサークル・文化活動ができる場所があれば良いのにと思います。

男性 西京 15歳 A判定 自閉症、てんかん 手帳なし

 学校から帰ってからの遊ぶ所,行ける所に介助者がいると助かります。移動の子どもで親が高齢のため困っています。小学校の開いている教室など使用できるようにしてほしい。

女性 上京 3歳 B判定 無記入 手帳なし

 障害者が,自由にいきいきと生活していく上で,必ず介助者や指導者を必要とします。ヘルパーやボランティア・指導員は資質を高くし,障害者を支える為の豊富な人的環境を整備してほしい。

男性 伏見 26歳 A判定 脳性マヒ、両下肢障害 手帳あり 1級

 1か月の障害年金が73,000円,作業所手当が5,000円,計78,000円では生活できない。

男性 伏見 10歳 A判定 自閉症 手帳あり 無記入

 両親が病気になった時など,すぐ預かってくれる施設がほしいと思います。入院とかいろいろな行事(法事・結婚式など)の時,同じ伏見区内で子どもを見ていただけたらと思っています。障害を持つ子どもの親は,子どもが寝てから自分の時間がもてるのです。子どもが寝るまでは気持ちが休まりません。夏休みなどは40日もあり毎日が大変です。それが,両親が,病気になった時などのことを考えると,とても不安です。

男性 左京 25歳 A判定 てんかん、左半身マヒ障害 手帳あり 2級

 知能の低い子どもはなかなか施設に入所できない。もし親が死亡し,その後の子どものことを思うと,心配でたまらない。最重度の子どもが入所できる施設を増設してほしい。

男性 中京 9歳 A判定 自閉症、情緒障害 手帳なし

 学童保育所に入れたいと願っても,親が勤めていないとダメとか,重度障害者はダメなどと言われ,放課後の問題をこれからもっと考えてほしいです。運動も行われているようですが,今現在,必要な子どものことも忘れてはならない問題です。

女性 西京 25歳 A判定 無記入 手帳なし

 本人,保護者が気軽にいつでも使用できる拠点を,最低各行政区に一か所はつくってほしい。
 また,グループホームに対する施策についてですが,もっと小規模なものにしてほしい。

男性 右京 11歳 A判定 脳性マヒ・てんかん 手帳あり 1級

 もっと自然を残していってほしい。家から外出していける場所で,ゆっくりお散歩できるところがないような街はいやです。障害者にも住みよい街にしてください。

男性 西京 24歳 A判定 無記入 無記入

 ノーマライゼーションとか統合教育が叫ばれて久しいが,実際,難しい問題が散在していると思う。が,親が老齢化してくると,社会の受入れ方が気になる。人間の本当の価値について真剣に考えて,障害の比較的軽い人には特に,社会にもっと受け入れられる道を,当人も親も世の中全体も考えてもらいたいものです。

男性 16歳 A判定 手帳あり 5級 音声・言語・そしゃく・片上下肢障害

 福祉がずいぶんと向上してありがたいと思っていますし,感謝もしています。しかし,普通にさりげなく生活しようと思うと悲しかったり,困ったりもします。たとえば,子どもが道を歩いている時,就学前くらいの子や小学生の子に「アホや」とか言って後をついてまわられて帰ってきたりします。息子は『お母さん,何と言うたらいいの?』と言いますが,『知らん顔しておき』と言うしかありません。このままでは地域で生きていくのはしんどいです。他の人の意識の向上がはかられることを望みます。

女性 左京 18歳 A判定 無記入 手帳なし

 障害者年を境に,町で多くの障害者をみかけるようになりました。それ自体とても良いことですが,精神薄弱者に対して,今一つ理解が乏しいように思えてなりません。人間だれしも,欠点・利点はあるもので,その利点を伸ばせる場が多くあれば,社会の見方も変わるように思います。また,小さいときから,障害者と関わる機会(ボランティアなど)が義務づけられていれば,もっと理解も深まるように思います。私どもでさえ,自分の子どもとよく似た子どもにはうまく接することができても,身体障害の方たちには,すぐに介助の手を差しのべることができません。まして,接する機会のない人であれば,なおさら無理だと思います。慣れることが一番ではないでしょうか。


主題:
「国際障害者年第2次京都市行動計画」
ノーマライゼーションを進めるための総合的福祉施策のあり方 40頁~56頁

発行者:
京都市

発行年月:
平成4年10月

文献に関する問い合わせ先:
京都市役所
京都市中京区寺町通御池上ル
電話:075-222-3111