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1000字提言

「障害」をもって生まれるということ

玉井真理子

 これまで、乳幼児健診や障害をもった子どものための親子教室、障害児保育の巡回相談などにかかわってきたが、現在は、もともとの専門である心理学の分野をやや離れ、生命倫理学というやっかいな、しかも心理学以上にメシの食えない分野に首を突っ込んでいる。臨床心理士のはしくれとして「教育」や「保育」や「療育」や「リハビリテーション」といわれる世界で仕事をしているとき、いわゆる障害をもった命がそこに存在しているということは「自明」のことであり、その事実を疑うということは日常的にそう多くはなかった。しかし、障害をもった命は、決して「自明」のこととしてそこに存在しているわけではない。医療という世界をのぞいてみて、そのことに気づいた。

 はじめて新生児集中治療室というところを訪れたとき、そこには600グラム、700グラム、800グラム…といった、てのひらの上にでも乗ってしまうのではないかと思われるような、小さな小さな子どもたちがいた。ここには、「むきだしの命」がある…。そんなふうに思った。一方には「救命」という至上命令があるなかで、「延命」が苦痛を、苦痛だけを与えているのではないかというジレンマが渦巻いていた。必要な「救命」、無駄な「延命」。無駄な「救命」、必要な「延命」…。どれもが真実だった。

 胎児の障害を理由にした選択的妊娠中絶が行われている。子どもが障害をもって生まれたことで、親が治療を拒否することがある。これ以上治療を続けるべきか否かで迷うとき、重い障害を残すことを理由に治療が打ち切られることがある。障害をもった命は「自明」のこととして存在しているのではなく、ある価値観をくぐりぬけて、選ばれて存在しているのだということに気づいたとき、障害をもった命を選別する医療という世界から目をそらすことはできなくなった(詳細は拙著『てのひらのなかの命』(ゆみる出版))。

 わが息子拓野(「たくや」と読む。ちなみに「野を拓く」という意味である)は、ダウン症である。彼は、何をくぐりぬけ今ここにこうしているのだろう。「生命倫理」というコトバを知らないであろう寡黙な彼は、淡々とした日々をとおして存在を語ろうとしている。雄弁ですらある。

(たまいまりこ 日本体育大学女子短期大学保育科非常勤講師)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1995年10月号(第15巻 通巻171号) 36頁