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フォーラム’95

成年後見制度のゆくえ

長谷川 泰造

福祉サービスとしての後見制度を

 去る6月20日、法制審議会・財産法小委員会は、民法の禁治産制度の見直しを前提とした「成年後見制度」の検討を開始することを決定した。

 我が国における成年後見制度の検討は、オーストリア(1983年)、ドイツ(1990年)における新法制定に関しこれに関心を持った民法学者らによって開始された。

 しかしながら、成年後見制度の新設は、単なる民法の後見法を一部手直しすることでは足りない。なぜなら、それは、人間の能力についての新しい検討を意味するからである。およそ生きている人間には、何らかの能力があるはずだ。にもかかわらず、現行の禁治産制度は、自分で寝起きし、食事をし、外出もすることのできる人の法的能力を剥奪し、参政権まで奪っている。これは、明らかに人権侵害といわざるを得ないのに、裁判官は本人との面接もなしに医師の鑑定書と審査官の報告書だけで、いわば書面による宣告をしているのが実情である。このような現状は当然改革されるべきだから、民法は改正される必要がある。同時に知的障害者、精神障害者、痴呆性高齢者といった、いわばもっとも弱い立場の人々を処遇する福祉サービスを規定した社会福祉諸法の見直しが、はかられなければならない。

 そのためには、新たな社会福祉の概念が再確認される必要がある。個人の能力は千差万別であり、それぞれの能力は、それぞれの個性であって、優劣の差はない。すべて国民は、法の下に平等であり、等しく共存する存在でなければならない。世の中には法や、複雑な社会のしくみを理解できず、その結果、ひとりでは生きていけない人達がたくさん存在する。こうした人達に、その権利として援護者をサービスする制度、それが新たな成年後見制度でなければならない。こうした観点から、現在の法律制度を見ると、民法だけではなく、たくさんの不備が目に付く。

市民法と社会法

 我が民法がその模範としたフランス民法やドイツ民法は自由な商品交換を前提とした資本主義社会を前提に、その発展の為に整備された法律である。絶対的な専制君主制にたいして一般有産市民の革命により、自由放任経済原則が打ち立てられ、自由な取引を前提とした市民法の仕組みを法制化したものであり、そこには人間は経済社会において自由で平等な法的人格が認められ、さらに私的自治の原則、つまり契約の自由が尊重され、その結果私有財産が保障されることになった。

 こうした市民法の仕組みからすると人間は法の下に平等で自由な経済人としての人格が認められることになるから、経済取引の理解できる能力のある人が前提となって取引社会が構成されねばならない。そこで、安全な取引を保障する必要から契約内容を理解できないような知的能力に問題がある人にはその保護という名の下に、実は取引会社から締め出す目的をもって無能力者の制度が考え出された。

 市民法の原理に基づく自由放任経済は資本主義社会が発展するにつれて極端な貧富の差を生み、自由平等の原則が事実上そこなわれ、実質的な平等を願って市民法原理を修正するいわゆる社会法の思想が発展してきた。そのもっとも典型的な法領域が労働法分野であるが、労働関係以外の分野でも自由放任経済のもとでは、実質的に不平等な取扱を受ける市民がおり、こうした人達も従前の市民法原理を修正した社会法を制定し、その生存が確保する必要が認識されてきた。いわばこうした社会的弱者に対する国家による後見的な考え方から、社会保障法、社会福祉諸法が生まれてきた。

ところで、これらの社会福祉諸法の中には、日常生活で介助器具ではなく、介助人を必要とする人々をケアするために作られた法律がある。我が国では、精神薄弱者福祉法、精神保健法、老人福祉法がそれで、それぞれ法の中に、保護者や養護者という概念が入っている。しかし、その選任手続も、また権限も規定されていない。これは全て民法に無能力者の制度と後見人の制度が定められているため、触れることのできなかった領域なのである。

 こうした点をふまえ、民法の改正に当たっては社会福祉関連法の人的介護サービスとの関連性を意識した成年後見制度を作らなければならない。

新たな統合的援護法を

 社会福祉諸法を再検討すると、成年後見制度以外にも色々な不備が目につく。現行の諸法は、人間をそれぞれ保護を必要とする内容によって分類し、また年齢により区分し、一見きめの細かいサービスを規定しているように見えるが、実は対象者本人の立場からすれば、不十分なものといわなければならない。

 例えば、重度心身障害者といわれる人達の処遇を見てみよう。現在、重度心身障害者福祉法というものは存在しない。多くの重度心身障害児(者)施設は児童福祉法に基づくものであるから、対象者は多くの施設でまるで子供扱いのような処遇を受けているようである。40歳を過ぎた大人が幼稚園の生徒のように名札を胸につけ、保育の時間と称して乳幼児の歌を聴かされ、プライバシーのないような生活をさせられていることもあるようだ。児童福祉法が制定された昭和20年代にはこのような重度の障害をもった子供達は成年に達するまでは、生きていられないとでも考えられた結果なのであろう。

 いくら重度の心身障害といわれようと、いくら重度の知的な障害があろうと、彼らが自分で自分の意思をうまく表現ができようと、できまいと、本人たちはその年齢に従った生活環境のなかで、その年代の人として、相応しい尊厳をもった処遇を受ける権利があるのではないだろうか。

 同じことは、知的障害者にも、精神障害者にも、当然痴呆性高齢者にもいえることである。

 我が国は、憲法25条を受け、それぞれの必要に応じて個別的な福祉法を制定し、国民に福祉サービスを提供してきた。しかし、年齢や障害種別にばらばらの法をつくった為、基本が何処にあるのかわかりづらくなってしまった。この辺でばらばらの福祉法を1つにまとめる工夫がなされてもよいのではないだろうか。つまり、全ての福祉法を、介護を受ける当の本人たちを主体とした福祉法にするために新たな援護法が提唱されるべきである。

 新しい援護法は援護を要するあらゆる人を対象とするべきだ。知的障害であろうが、視覚障害であろうが、脊椎損傷であろうが、あるいは高齢者であろうが、また精神、神経の障害をもっていようと、さらには生活困窮者であろうと、また幼児を抱えた夫のいない女性であろうと、とにかく保護を要するあらゆる人を対象としてよいと思う。つまり、従来の個別の福祉法を集大成して、一本化した援護法が制定されるべき時がきているのではないだろうか。これは従来の行政の枠組みに馴れ切った人々には大変乱暴な議論とおもわれるかもしれない。しかしながら、我が国は戦後、何十年も福祉行政を積み重ね、現場のケースワーカー達はそれぞれ十分な専門的知識をもっている。彼らは全て人間の身体の一部分のケアの専門家でもなく、また一定の年齢の人間だけのケアの専門家でもない。

 木を見て、森を見ないような福祉施策は、意味がない。本人が一体どのような福祉サービスを要求しているかをきちんと捉え、これに対して必要な援助ができるようにしなければならない。自ら意思表示して、自分に必要な介護を訴えることの出来る人に対しては、これに答えることは簡単である。しかし、そうした能力を持ち合わせない人に対しては援護をする側が、援護を受ける側の立場に、限りなく近づいて行かねばならない。こうした観点から、人間の人間による人間のための社会福祉を確立するために新たな統合的援護法を考えていくべきだと考える。

権利としての社会福祉を

 法の制定は予算を伴い具体的に国民が利益を受けられるものでなければ意味がない。いくら障害者基本法が美しい言葉を並べていても具体的な援護法が不備では絵に描いた餅である。

 我が国の社会福祉諸法を見直し、統合的援護法を考えるにあたって再確認しなければならないこと、それは社会福祉を要求することが国民の基本的人確の行使なのだということである。この点を明確にする為に敢えて言いたい。現行憲法第25条の抽象的な規定を次のように改めるべきであると、そして「万民共生」を憲法の第4の基本的原則として打ち立てるべきであると。

何人も法律の定めるところにより、

健康で文化的な生活を

営むためその必要に応じて、

社会福祉、社会保障を

国または公共団体に

求めることができる。

(はせがわたいぞう 弁護士)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1995年11月号(第15巻 通巻172号) 45頁~48頁