音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

1000字提言

「生きにくさ」と「ことば」

玉井真理子

 「新生児医療と生命倫理」をテーマにした研究会を開くことになった。命を救うことができないかもしれないし、一命をとりとめたとしても、重い「障害」が必ず残るだろうと予測される新生児の事例をとり上げることにした。どこまで治療すべきか、いつどのような形で治療を打ち切るか、親も医療スタッフも迷っている…そんな「厳しい」事例だ。

 親の負担、本人の負担という形で、いわゆる「障害」をもった存在の「生きにくさ」が問題になるのは目にみえていた。そういう場面に「障害」当事者がいないのはおかしい。そんな想いから、福祉・教育関係者に参加を呼びかけてみた。

 反応は比較的よく、知的障害者の本人活動をされている方も参加してくださることになった。自分で誘っておきながら、私はおおいに戸惑った。プログラムにふりがなをふろうかどうしようかと、まず迷った。ないよりはましかと思い、ふりがな付きのプログラムを作りはじめて、ふりがなをふっただけでは何も解決しないことに気づいた。当然と言えば当然のことだった。次に、研究会の趣旨をなるべくわかりやすい言葉で説明したものを作ろうと、文章を書きはじめた。ちっとも筆が進まなかった。いやになるくらい時間がかかった。ようやくできた文章は、残念ながら、たいしてわかりやすくも読みやすくもなかった。

 知的障害(ダウン症)の息子と私はいったい何を話してきたのだろう。私は息子に何を語ってきたのだろう。息子に語るべき言葉を持たない、実に情けない親だったのかもしれない。

 彼がもっているある種の「生きにくさ」は、少々濃縮された形で私たちの目に飛び込んできてはいるものの、それは所詮人と人とが共にあるときの必然のようなものである。彼のその「生きにくさ」に寄り添っているつもりだった私は、彼へのメッセージとしての言葉を探すこともなく安穏としていたのだ。

 先端医療のなかで起こる様々な倫理的問題。そもそも私たちは、それらの問題性を語るべき言葉をまだ持っていないのかもしれない。言葉は、まだ成熟していないのかもしれない。そう言って逃げることはできる。だれも語れないのだと…。

 ただ、いつまでも逃げてはいられないだろうという実感はある。

(たまいまりこ 日本体育大学女子短期大学保育科非常勤講師)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年2月号(第16巻 通巻175号) 23頁