音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

特集/時代が求める新しい創造活動

座談会

芸術活動が開くノーマライゼーションの扉

●プロフィール●

<今井 勉 いまい つとむ>

昭和61年国風音楽会より勾当(こうとう)の官を受ける。平成4年国風音楽会より検校(けんぎょう)の官を受ける。地元の名古屋白鳥(しろとり)庭園「十五夜コンサート」、東京国立劇場「琵琶の会」などのほか、全国各地で演奏活動、テレビ・ラジオ出演、CDの録音にも参加している。

<岩井 菜穂美 いわい なおみ>

「わたぼうし語り部座」座長。各地のイベント等で語り部座としての公演の傍ら、北九州でもさまざまな要請で個人での公演を行う。「第2回わたぼうし語り部コンクール」グランプリ受賞。自立生活センターの職員でもある。

<佐藤 淳 さとう あつし>

洋画家。光風会会員。筑波大学付属ろう学校専攻科美術科卒業。山形県展最高賞受賞。主に日展・光風会展に出展、第80回光風会会員記念賞受賞。上野の森美術館大賞展・浅井忠記念賞展にも出展。渡伊4回。個展多数。現在(株)オリエンタルランド勤務。

<播磨 靖夫 はりま やすお>

日本障害者芸術文化協会常務理事。(財)たんぽぽの家理事長。障害をもつ人たちの心を歌う「わたぼうしコンサート」、障害を個性にした語り芸を競う「わたぼうし語り部コンクール」などの生みの親。また、新しい芸術運動「エイブルアート(可能性の芸術)ムーブメント」、アジア太平洋地域の障害者の芸術文化ネットワークづくり、芸術とヘルスケアの調査研究を手がけるなど、この分野における日本のリーダー的存在。

芸術活動へのきっかけ

○播磨 今日は、「芸術活動が開くノーマライゼーションの扉」というテーマでの座談会をお願いすることになりました。皆さんは、それぞれの世界で芸術活動をされて、成果を上げておられる方だと伺っております。その世界の中で得たことなど、たくさんおありだと思いますが、今日はそういう話を自由闊達にやっていただきたいと思います。その中から、障害をもつ人たちの芸術の可能性とか、あるいはそういう枠を超えた、普遍的な芸術論まで高まる話が聞けたらなと思っております。

それでは、岩井さんから、芸術活動に関わるきっかけをお話していただけますか。

○岩井 私が「語り」を始めて、8年ちょっとになるのですが、きっかけは、奈良にある「たんぽぽの家」で、二人の女性の「語り」を聞かせていただいて、すごく感動したことです。これだったらできるかもしれないと思ったりしました。8年前に「わたぼうし語り部学校」という通信教育の講座が始まりまして、そこでいろいろなことを教わり現在に至っております。

○播磨 岩井さんは「わたぼうし語り部座」の座長をなさっていますが、そのお話を聞かせていただけますか。

○岩井 そこを卒業しまして、あちこちの「わたぼうしコンサート」の中の一部として、「語り」を依頼されることが多かったのですが、「語り」を芸の域まで高める一座を作って、仕事にしてはどうかというお話があり、ご指名を受けましていま座長をしています。

 年に何回か「わたぼうし語り部座」として各地を回っています。いつもはトークを入れたりしてラフな雰囲気でやることが多いのですが、昨年は大阪の「近鉄小劇場」という所で、本格的な舞台を作ることができました。またこういう機会があればいいなと思うのですが、いまは「語り」の普及に努めている段階だと思います。

○播磨 実は「語り芸」というのは大変歴史の古いものです。古い伝統芸から、いまは音楽が入ったりして、岩井さんたちが新しい「語り芸」を模索しているところではないかなと思います。次は、まさに日本の伝統の中で活動しておられる今井さんに伺いたいと思います。

○今井 私は生まれつきの視力障害者ですが、1歳位のときから何か音が出るものがあると、興味を示していたらしいのです。よく風邪をひいてかかりつけの医者にかかっていましたが、その奥様がお琴をやっておられましたので、お琴などはどうかということで、先生を紹介していただいて、4歳の10月1日からお琴を習い始めました。

 その1年後に三絃を習い始めまして、12歳のときに平曲を習い始めました。なぜ12歳かと言いますと、変声期を利用しまして、“平家声”、平曲を語るのにふさわしい声を作るという平家琵琶の伝統的な理由がありました。

 現在は平家琵琶はもちろんですが、いわゆる重多筝曲と呼ばれるお琴、三絃、胡弓を教えております。演奏活動もいたしております。

○播磨 現在はおいくつですか。

○今井 38歳です。お琴は34年ですが、平曲は、26年になります。琵琶の伴奏で、しかも平家琵琶という楽器の伴奏で「平家物語」を語っていくものを、近世の呼び名で「平曲」と呼んでおります。平氏滅亡800年が10年ほど前だったのですが、盲人の方から盲人の方へ、いわゆる口伝えで800年間伝わってきたものでありまして、名古屋には8曲残っておりますが、本当は200曲あるのだそうです。

○播磨 佐藤さんは、素晴らしい大作の絵をたくさん描かれていますね。

○佐藤 私は5歳のときに原因不明で難聴になりました。聴力は、そのときからもう老化したと思って、そんなに苦にはしていません。補聴器をかければ、何とか音も聞き取れるし、テレビや人の話は、一生懸命唇を見れば少しは読み取れます。しかし、会議とか大勢の中の会話はちょっと難しいので、手話通訳などいろいろ頼っています。

 私が洋画を描いているのは、やはり聞こえなくなったからです。宿命的、運命みたいなものです。今井さんと同じような感じです。小学2年生のときに山形県の酒田ろう学校に入り、担任の先生に芸術の楽しさを教わったことで、絵描きになる方向性が定まりました。しかし中学までは、文学に非常に引かれて、できれば小説家になりたいなとも思っていました。酒田ろう学校の図書館の本は、全部私の名前があるくらい読みました。武者小路実篤、三島由紀夫の文学を随分読みました。

 中学2年生のときに、筑波大学附属ろう学校に編入しましたが、その学校に美術科があったのです。展覧会で初めて印象派の絵を見て、すごく感動し、自分も内的世界を訴えることができるのではないかと思い始めました。高校1年のときに『絵というのは、食うための絵ではない。自分の世界を訴えるための芸術活動だ』という先輩の話、あるいは美術科の先生の話を聞いて、卒業後も絵を続けていこうと思いました。親は『絵で食えるものではない』、『高校を出たら勘当する』と言っていましたが、意志は固かったのです。高校時代と専攻科時代、貧欲に、デッサンの勉強をしたり、いろいろな展覧会を見たりしました。美術科の2人の先生はろうの先生でした。先生は特に技術面より、精神面で可能性をどんどん引っ張ってくれました。

 私はそのときから、細密な感じの絵を描いてみようと思いました。ただ、写真的というのではなくて、自分の内的世界、あるいは理想世界を、画面で訴えたいと思って描いています。いまは、主に東京都美術館で開催される光風会展や、日展に発表し、デパートでも定期的に個展をやっています。

 油絵を描くほかに、生活をするための仕事もあります。家内もいますし、2人の子供もいますから、やはりお尻を叩かれて働いていますが、職はこれまでに五つ変えました。油絵は一生のライフワークだと思っていますが、職はハンディによってなじまなかったり、生活の変化などで、変わりました。少し前までは大手の会社でコンピューターの検査をしながら、絵を描き続けました。ところが、仕事に追われて、ライフワークの絵がちょっと崩れそうな気がして、会社を辞めました。そのときたまたま東京ディズニーランドを経営している「株式会社オリエンタルランド」で、美術関係の募集があったので、油絵の写真持参ですぐ面接に行きました。そして現在に至っています。

 いまのオリエンタルランドでは、皆さんが東京ディズニーランドの中でいろいろ目にするもの(建物の色など)すべてを担当していると思ってください。会社の仕事も生活のためというだけではつまらなくなるから、そこに来るいろいろな人のためにと思って、もっともっといい仕事をやっていきたいと思っています。私はお客さんとは直接会えませんが、障害のある方にも、あるいは日本中、あるいは世界のいろいろな人にも楽しめるようなものを手掛けてみたいと思っています。

○播磨 いろいろやるうちに、自分のライフワークと仕事が非常に近い世界になってきたような感じがしますね。

○佐藤 自分の特技を職業に活かしたり、仕事で覚えた技術を絵に取り入れたり両方が影響しあっています。

いまに至るまでの苦労

○播磨 それぞれの分野で、何か自分たちのやりたいと思っていることと興味が一致してきているようですが、こういうところで苦労したとか、こういうところを厳しく教えられたとか、そういう話を少しお聞きしたいのです。伝統という枠があるものですから、この中でいちばん苦労されているのは、今井さんではないかと思うのですが、いかがですか。

○今井 お話を聞いていますと、私がいちばん楽をしているのではないかと思います。ただ、楽譜が読めませんので、それだけ全部覚えなければいけない。平曲は8曲ですが、お琴から三絃、胡弓まで入れたら、何千曲にもなります。それを全部覚えなければいけないというのは苦労だと思うのですが、私の師匠も盲人でございます。だから、お琴でも三絃でも、二小節か三小節ずつ、初めに師匠が演奏して、あとは覚えるまで同じところを何回も何回も演奏するというやり方でした。私のときも厳しかったですが、師匠の修行時代は昨日習ったところを忘れていると、先へ進んでもらえないとか、それ以上に厳しかったようです。

 ところが、これはいいのか悪いのかわかりませんが、私の修行のときは録音というものがありました。だから、お稽古の場面を全部録音してしまうことができまして、忘れたところはそれを聞けばいい。録音に頼ってはいけないと何回も言われましたが、私の師匠の修行時代よりも、あまり苦労はしていないのかなと思います。

○播磨 いま、録音という話が出ましたが、カナタイプからワープロになったということで、障害をもった人は飛躍的に、文字でいろいろ表現できるようになりました。録音というのも、テープレコーダが非常にプラスになったのではないかと思いますが。

○今井 私が平曲を習い始めた昭和45年ごろから、ちょうどカセットテープが出できたのです。良かったのか悪かったのか。

○播磨 ここは難しいところですね。機械の発達は良い面もあるけれども、悪い面もある。特に伝統などというものは厳しい枠がいっぱいあって、師匠から盗み取るような感じで学んでいくのですね。そして、その中に自分の世界をまた切り拓くという繰り返しではなかったかと思いますが。

○今井 いまの方は、楽譜を渡せば何か月かで終わってしまうけれども、私みたいに1曲を2年とか3年かかって覚えた場合には、もう身体にしみついていますから、忘れないという自信はあるのです。

○播磨 佐藤さんは、先生には技術的なことを教えてもらうよりも、むしろ精神的なことを教えてもらったということを言われましたが、技術は独学に近いのでしょうか。

○佐藤 技術面、洋画の技法については本などを見て、忠実にやれば、努力次第で大体は理解できます。油の混ぜ方などは、作家それぞれの個性と同じですから、個性を大事にしてくれたのです。

 精神面では、『うわべだけのメッキの金になるな。本物の金になれ。画家を志した以上は、ただの絵描きではなくて超一流の絵描きになれ』と。これを自分に言いきかせてやってきました。自分が表現したいというものを、100%満足に描けたらそれでいいと思っています。それはなかなか簡単にできることではありませんが。

 また、これまでは、キャンバスに向かっているばかりが制作活動だと思っていましたが、最近は何でも、たとえば旅をするのも制作活動の一部だと思い始めました。見るものは全部生きざまにつながっていく、その生きざまを絵にしようと思い始めています。

 毎年「日展」に応募して、落ちることもある。3~4か月もかけて自信をもって応募したものを認めてくれないとなると、すごくガッカリしますが、くじけず描いていきたいと思います。

○播磨 最初のころは、ひたすらキャンバスに向かって描いてきたということですが、しかし、家族をもち、いろいろな世界を知ることによって、広がりと深まりが、少し出てこられたときでしょうか。表現も、だんだん変わってきますね。

○佐藤 変わってきました。無機質なものから、だんだん人間的な表現に変わりました。いまはやさしさとか愛というものを、テーマにして描いています。あるいは小説や映画にはできない「情感」、口でも説明できない「情感」を伝えて、目で音楽を感じ取るような絵を描きたいと思っています。

○播磨 岩井さんは車いすに乗っていても、口は自由で、かなりいろいろなものを自由に表現できるわけですが、いかがですか。

○岩井 首から下は全然駄目なのですが、上は達者すぎるぐらい達者といわれています。でも、普通のおしゃべりと違って「語り」は、腹式呼吸からまず始めなければいけなかったのですが、私は脳性マヒという障害でどうしても身体の緊張があり、それができるようになるまでが大変難しかったですね。

 また、さっき録音の話がありましたが、私たちの「語り部学校」の場合は、こちらが録音して先生に送るという作業の繰り返しだったのですが、二つのタイプの語り部がいるのです。録音ではすごくよいのに他人の前では緊張してしまう人と、録音は駄目だけれども他人の前になると俄然よくなるタイプの人といて、私は後者のほうでした。録音テープを送って、先生から返ってくる批評が、いつもすごく厳しくて落ち込んだのを覚えています。

 あと、発声として、大きな声を出すということが大事なのですが、その場所がないということにも苦労しています。それから、やはり感情表現です。語りというのはお芝居と違って動かないので、どれだけ声とか語り方によってその気持ちを出すかということが、いまでも苦労ですし、大変な課題だと思います。

○播磨 でも、「語り」というのは、佐藤さんの話にもありましたが、年とともにいろいろな人生体験とか世界が広がるにつれて、若いころよりは味がでてくるということはないですか。

○岩井 そうですね。最初は無我夢中でしたが、慣れてくるに従って、そのお話が自分のものになってきて、たとえ少々とちっても、そこを何かで埋め合わせるなど、空白の時間というものはなくなってきました。しかし、ちょっと慣れたころに、いつも受けていたお話が受けなくなったのです。そのときすごく悩んだのです。やはり慣れてくると上手に語ろうとする思いが強くなってくるのですが、『上手に語ろうと思ってはいけない、とにかく伝えようということが大事なのだよ』という語り部学校の校長先生の沼田曜一さんの言葉を思い出して、いまは、上手に語ろうというのはなるべく考えないようにやっています。

芸術・文化活動のもつ素晴らしい可能性

○播磨 それなりに皆さん苦労もあるし、自分自身大変な努力もされているように思います。やっているうちに、どんどん自分自身も成長し、周りの見る目も変わっていったのではないかと思うのです。たとえば、その芸術活動の評価を通して、障害をもつ人の可能性の素晴らしさを発見してくれる、ということがあったのではないかと思うのです。周りがどのように変わっていったのか、ということを少し伺いたいと思います。

○佐藤 筑波大美術科の卒業生30人で研究会をつくっていますが、みんな聞こえないという意識はなく、人間としての感覚で自分の世界を描いています。毎年、展覧会に作品を出品していますが、審査をする方には、この絵は聞こえない人が描いたものだとか、そういうことは分からない。聞こえる人と対等に絵を見てくれるわけです。対等の評価ということです。だから、周りの人が変わったという感じは別にありませんが、一時、光風会展での入賞者十五人のうち、聞こえない人が5人ということがありました。光風会の理事長は、『その絵が素晴らしいから賞をあげた。それがたまたま5人とも聞こえない人だった』と言われたそうです。そのように認めてくれたのがうれしいですし、これが絵のいいところかなと思います。いまは、むしろ周りの人が手話を覚えて、私たちに近づいてくれるようになっています。

○播磨 いま言われたように、ある意味では対等に競争できる場として、芸術、文化というのは、すごくいいところだと思うのです。佐藤さんの絵の世界の中で、何らかの形で自分の障害というものが何か影響しているものがありますか。

○佐藤 それはあります。もちろんプラスのほうです。たとえば皆さん聞こえる人は、一日中、いろいろな雑音が入ります。ところが、私は補聴器を外せば全然、もう音のない世界です。だから、純粋に雑念も入らず没頭でき、集中力もでます。それは、私の大きなメリットです。デメリットは、画壇の情報とか、いろいろな情報が入ってこないということです。

○播磨 今井さんはどうでしょうか。

○今井 いまは、現役で活躍しているのは私1人で、『この平曲はもうあなた1人しかいない、他に誰もやる人がいないのだから』ということで、八曲を守っていかなければいけないというプレッシャーと期待と不安と、いろいろ入り乱れているという感じですね。

○播磨 伝統芸能の継承者として、周りから期待されているのですね。

 岩井さんはどうでしょうか。周りは随分変わりましたか。

○岩井 私が語りを始めたころは、障害をもっている仲間から理解されなかったというのが、やはりいちばん大変でした。

○播磨 どうして仲間から理解されなかったのですか。

○岩井 私もやっているのですが、仲間は障害者運動をずっとやっていて、「語り」などを始めると言うと、そんなことをやって何になるのという感じで受けとられました。でも、だんだん評価も受けるようになったことによって、仲間から『菜穂美ちゃんは語りをやっていったほうがいいよ』と言われるようになり、理解の輪が広がってきました。それが、いちばん変わったことだと思います。

○播磨 いまの3人のお話を伺うと、芸術、あるいは表現活動が、ものすごく人生の張りをもたらすし、またその人の人間としての尊厳というか、そういうものが認められる大きなものになっていく。

 我々日本人は、表現活動というと、それで食えるのかというところで、実利的な話になるのですが、芸術とか文化は、そういった次元を超える素晴らしい可能性をもっていることを見落としています。そのような芸術観、あるいは文化観というものを日本人全体が変えないと社会の質は変わらないわけです。それと全く残念なことには、障害をもった人自身がそういうものにとらわれているというところでしょうかね。

○岩井 でも、いまは少し変わってきて、『障害者も人生を楽しもう』とか、『何か表現するというのは大事だね』という声も聞かれるようになったので、最初はつらかった面もあったのですが、本当にやっていてよかったなと思っています。

人生を豊かに彩りのあるものに

○播磨 日本は障害をもった人たちの表現活動や創造活動に対して、育つ環境がない。皆さんは、いい環境にいるラッキーな人だと思うのです。そのためには、いい人に出会うきっかけがあった、チャンスがあったと思うのです。

 ところで、いま抱えている課題なり、あるいは目標をお伺いしたいと思うのですが。

○今井 平曲の後継者がいちばんの課題です。いままで数人、晴眼の方で興味程度でやっておられた方はいたのですが、残念ながら続かないのです。それはそうです。語りだけで1曲を完全に語れるまでに3年か4年かかり、その伴奏の琵琶を覚えるということになりますと、これはもっと大変ですから……。

○播磨 これはまた難しい問題ですね。今井さん一人ではとても解決できない問題ですが、佐藤さんの場合はどうでしょうか。

○佐藤 絵描きも、やはり若い人がいま随分減っています。芸術というのは、ちょっと贅沢なものかもしれません。お金も時間もかけてやっていくのですから。

 明治のころから、ろう学校に職業科として日本画はありましたが、実績があるのはまだ70年前後です。今井さんのほう、盲の文化は800年の歴史がありますね。自分の後輩たちにも絵を続けて欲しいと思っています。自分がもっと頑張って、私なりの夢を若い人に見せたいと思っています。私が率先してやるしかないと思っています。課題というのはそれくらいです。それといちばんの夢は、国立近代美術館に自分の絵が収蔵されることです。目標にしています。

○播磨 「人生は短し芸術は長し」で、極めるというのはなかなか大変なことです。しかし、そういう目標が自分の人生を奮い立たせるし、また彩りのあるものにしていく。そういうことを、もっと若い人に知ってほしいと思いますね。人生を豊かに彩りのあるものに、深いものにしていくということは、これは障害あるなしにかかわらず、大切だということですね。多くの人たちに伝えたい話です。岩井さんの課題というのはどうでしょうか。

○岩井 私自身のことに限って言えば、岩井菜穂美の世界、語りの世界というものをより広げていくために、いろいろなものに挑戦したいです。

 私たちの「語り」は、20年にもならない発展途上のものですので、これから広めていく責任があると思います。ですから、「語り」の魅力をいろいろな障害のある人に知ってもらいたいし、自分自身もインストラクター的なことができるようになればとも考えております。

 「語り部座」としては、もっともっといろいろなところで公演ができるようになることと、演出などもスタッフ任せにせず自分たちでも考えていきたいと思います。また、自分の夢としては、将来、一人芝居ができるようになりたいなと思っています。いつになるか、実現するかどうかも分かりませんけれども。

○播磨 世界が広がってきているわけですね。今井さん、どうですか。コラボレーションというかフュージョンというか、伝統芸能と新しいものが一緒になった音楽がありますが、そういう試みはされたことがありますか。

○今井 名古屋の作曲家の方が、新しいお琴の曲を作るということで、平曲ではなくて、全然違う文章を平家琵琶の節でやってほしいという話があったのです。どういうものかというと、初めに平家琵琶の節が入って、お琴、尺八、三絃、十七絃の合奏が入って、また平家琵琶の節が入ってというのを完成しまして、来年の2月に名古屋市民会館で初公演という予定です。平曲始まって以来というか、全く考えもしなかったことを考えていただいています。

○播磨 伝統というのは、伝統を守りながら伝統にあぐらをかかずで、やはり新しいものを少しずつ入れていかないと、未来に生きていくのはなかなか大変なようですね。佐藤さんはどうですか。

○佐藤 私はもっともっと勉強して自分の絵のスタイルを確立したい。それが聞こえない人とかいろいろな障害者にも励みになるし、夢になるのではないかと思います。

 ボッティチェリという絵描きが一番の目標です。「ビーナスの誕生」の絵は、見ただけで音楽が響く。ビバルディの『四季』みたいなバロック音楽が響いてくる。聞こえないけれども、ビバルディの『四季』だけは分かります。何か音の強弱とか激しさ、絵もあんなふうに描けたらと思っています。

○岩井 いつか今井さんのお琴とか三絃をバックにして佐藤さんの絵を飾って、そこで「語り」ができたらいいなと思います。

○播磨 いいですね。それぞれ世界がちがう3人がコラボレーションして。それもぜひ国立劇場でやっていただきたいですね。

 夢はいろいろあるのですが、これからは自分の人生を深めたり、あるいは何よりも楽しくさせる芸術活動、表現活動が、もっと大切になってくるのではないかと思います。そういう中で、障害をもった人というよりも、人間として自分の生き方を表現していくということが、非常に大事になってくるのではないか。ただ、障害をもった人はいままでは、どちらかというと、こういう場面では受け身の側でしかなかったのですが、やはり作り手として、こういう表現の場で活躍されていくということが、障害をもった人自身のノーマライゼーション、そういう横文字を言わなくても、障害をもった人に対する価値の変換という、大きな手段になっていくのではないかと思っています。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年12月号(第16巻 通巻185号) 10頁~19頁