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特集/時代が求める新しい創造活動

表現することの意味

-作品による社会参加-

角田大龍

 弘願寺(静岡県富士宮市)は、知的に障害があると世の中から言われている人々を清い僧、清僧として迎え、坐禅、托鉢、五体投地などの修行と日常の生活を共にする寺院として15年前に日韓の人々の浄財によって建立されました。

 現在は3人の清僧さんと私の家族、それにお寺を手伝ってくださる人々が共同生活をしています。そういった中で強く感じることは、知的障害だと言われている人々は、何かを伝えるためにこの世に生まれてきたのだということです。

 その何かを、言葉や文字ではないもので清僧さん自身が表現し伝えていくことができないだろうかという思いと、創作する楽しみを一緒に味わいたいという気持ちから絵を描いたり、バンドで音を出すことを始めました。

 絵に関しては、当初はただやみくもに絵を描いているだけでしたが、みんなの絵を壁に貼り、お寺の機関紙の表紙に使うようになり、やがて市内のギャラリーで作品展を行うようになると、それぞれの絵に対する姿勢が変わり、絵を描くという行為に対して自覚が生まれてきました。

 絵は作者自身そのものです。自分の作品が多くの人々の目にふれるということは、評価がどうのこうのというよりも、自分自身が世の中と直接かかわりをもつということであり、その体験は清僧さんが生きるうえで大きな励みと自信につながっていきました。

 清僧さんは日常の作努や修行の合間の好きな時間に、好きな場所でそれぞれ好きなモチーフを選んで自由に絵を描いています。

 彼らの絵を見た多くの人から、どのように指導をしているのですかと聞かれます。しかし、結論的に言えば指導など何もしていないのです。そもそも指導するという考え方自体がおこがましく、描いているそばにいて、ここは何色だ、形が違う、こういうふうに描きなさいというおせっかいは、本人および創作という行為に対する侮辱であり、自分のイメージや固定観念を押しつけているにすぎません。

 芸術にはこうでなければならないというルールは何もありません。もし誰かが清僧さんの絵に対して何らかの指導をしていればあれほど迷いのない線を描くことは不可能だと感じます。とにかく大切なことは、まずは作者に合った方法と自由に絵を描ける環境をセッティングしてあげることだと思います。

 次に、できた作品に対して必ず感想を言う。そして作品を発表できる場を設けてあげるということだと思います。たとえば、それぞれの画風や作風にあった画材は何か、クレヨンや絵の具や日本画の顔彩もしくは墨など、紙も和紙や洋紙など、筆もいろいろなものを試して、どの方法が一番良いかを探したり、できた作品をどんな額にいれようか、それともパネルを作って貼ろうか、そしてそれをどこに飾ろうかなどと思いをめぐらしたりして、どんな作品ができるのかわくわくしながら待つことが大切なのです。

 また、絵の他にも清僧さんはギャーテーズというバンドでヴォーカルとパーカッションを担当して各地で演奏を行っています。このバンドも全く試行錯誤の連続でした。初めは、あらかじめ簡単な歌詞と曲を何曲か作りそれを演奏していたのですが、曲の種類や歌詞を覚えられなかったり、始めと終わりがわからなかったりで、練習はもっぱら曲を覚える訓練や勉強のようになってしまい、だんだん楽しくなくなってきました。

 また、たとえ曲を覚えて上手く演奏できても、それは覚えたことをそのままやっているだけで、何の意味もないのではないかと感じるようになり、もう滅茶苦茶になってもいいから、曲も歌詞も何も決めずに即興で自由にやってみようということになりました。そして、新たに知人である何人かのミュージシャンも参加して実験的に新たな方法で演奏を始めたところ、最初は何をやっていいのか戸惑いがあったようでしたが、やがて声も踊りもでるようになり自分たちの音楽らしくなってきました。

 なにぶん決めごとがほとんどない即興演奏なので、失敗や間違う恐れがないぶんのびのびできると同時に、自分が何とかしなければという程良い緊張感もあって、それが観客にも伝わり、何とも形容しがたい音楽になっているのだと思います。歌詞もないので、ギャーとかワーなどの叫び声や意味不明の言葉がほとんどですが、この声と演奏が私たちの叫びであり祈りなのだと思っています。

 音楽は瞬間瞬間の共同芸術であり、ステージの上では一人ひとりが表現者として重要な役割を持っています。みんなの音がひとつになっていく過程は、何か別の力が作用しているような気さえします。それは障害があるとかないなどということを超越した時間と空間でもあります。

 ものを創る行為や、音や声をだしてそれを音楽にしていくということは、自己の中からわき出てくる力によってのみなされる行為です。それは自分自身を見つめるということであり、言いかえれば作品を通じて自分に責任を取るということです。

 だからこそ、作者本人が絵を描こう、演奏しようという意欲と意志があるかどうかということが、できあがった作品が上手いか下手かなどよりも重要なことなのです。そして、自己表現をしようとする行為そのものが尊いということを周囲の人間が認識しなければ、創作は創作ではなくただのコピーにおわってしまうでしょう。

 芸術において何らかの障害があるということは全く問題ではありません。というよりも、心の内面の問題をも含んで考えれば、すべての人間が障害者であり、障害があるからこそ芸術が生まれると言っても過言ではないのです。

 しかしなぜ、清僧さんの絵や音楽が感動を与えるのかというと、表現において限りなく自由だからなのです。故に誤解を恐れずに言えば、知的障害だからこそ到達できる悟りの境地があるのではないかとさえ感じます。それは言語や文字ではとうてい表現できない世界だろうと思います。

 今まで世の中において、障害がある人々とか福祉施設などは社会に面倒を見てもらっている、お世話になっていると考える風潮があったと思いますが、これからは障害があると言われている人々、もしくは福祉施設などが、逆に世の中をリードし啓蒙する時代に突入したと強く感じています。その手段として、社会から知的障害というレッテルを貼られた人々が、自らの意志で自己を表現し創作をするということは、大きな意味があると思います。それは経済優先のこの社会から、人間本来のおおらかさと優しさを取り戻すプロセスの一端であるからです。

 今後、従来の価値判断や評価を超えた作品が数多く生まれ、人々の心が癒されていくことを強く確信しています。

(かくたたいりゅう 弘願寺僧侶・ミュージシャン)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年12月号(第16巻 通巻185号) 20頁~22頁