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検証ADA新時代

JDAの成立に向けて

関川芳孝

●グロリアとのトラブル

 アメリカ研修の1年はあっという間にすぎてしまった。4月から始まった連載も、今回で終了する。アメリカでの出来事をあれこれ思い起こしながら、最終回の原稿を帰国の飛行機のなかで書いているところである。

 アメリカを去るにあたって忘れられないのは、引っ越しにあたっての大家グロリアとのトラブル。以前から研究会などを通じて交流がある大阪府立大学の定藤教授から、9月の末からバークレーを訪れることになっているので、私が退居した後グロリアの家を借りられないか打診してほしいと頼まれた。定藤教授のことをグロリアに話すと、グロリアは「いい人を紹介してくれてありがとう」と大変喜んでいた。彼が家を借りる話はトントン拍子に進み、後は双方が契約書にサインするだけになっていたのだが……。

 定藤教授は、交通事故の後遺症のため車いすを使う。グロリアの家は築40年の家で車いすのアクセスを考慮して設計されていない。歩道から玄関の入り口まで段差にして3メートルほどの階段がある。バスルームには、手すりなどもついていない。しかし、バックヤードにある裏口に回れば、段差は30センチほど。簡単な仮設スロープを設置すればアクセスは確保できる。バスルームのつくりも、奥さんなどの介助があるので、問題がないものと思われた。

 ところが、敷金および保証金の支払いに先だって、「定藤教授は車いすを使うので、仮設スロープの設置を認めてほしい。スロープ設置の費用は、彼が負担するので迷惑はかけない。家の中の改造はしないと約束するから」と告げたとたん、グロリアは態度を豹変させた。しばらく沈黙が続き、「少し考えさせてほしい。あらためて電話するから」といって電話が切られた。結局、1週間後にグロリアは、彼との契約を断ってきた。

 「バスルームには手すりもないので、事故が心配だわ。しかも、うっかりすべって怪我でもしたら、裁判に訴えられて損害賠償ものじゃない。私としては、彼を入居させることで、そんなリスクを負いたくないの。申し訳ないんだけど……。バークレーには、障害者の人がアクセスできるアパートがたくさんあるじゃない。不動産屋さんにいって紹介してもらったら……。ソラノ・アベニューの角にある……」いつもはゆっくりと丁寧に話してくれるグロリアであったが、今回の彼女の弁解はあまりに早すぎて完全にフォローできないほど。しかし、「障害をもつ人が、何も私の家を借りなくても……。トラブルはごめんだわ」という彼女の本音だけは、電話越しにはっきりと伝わってきた。

 こみ上げてくる怒りを抑えながら、「彼はバスルームに手すりがないことを承知しているんだ。万が一事故が起きても、グロリアには過失はないよ。だいだい日本人は、めったに訴訟を起こさないし……考え直してもらえないだろうか」と頼んでみた、グロリアは「わかっているわ」とはいったが、結局イエスといわなかった。約10か月続いてきたグロリアとの信頼関係はいとも簡単に崩れてしまった。

 日本に帰国する友人が住むアパートの大家などにもいくつか聞いてもらったが、いずれも色好い返事は返ってこなかった。だんだんと、私自身が差別されているような打ちのめされた気分となったものだ。友人からは、「自分の不注意で転んで怪我をしても、責任をとらせる相手を捜し訴えるというのがアメリカだよ。損害賠償の訴訟リスクを回避したいというのは、本心かもしれないよ」となぐさめられたが、信頼していたグロリアに裏切られた思いもあって、憂うつな気分はグロリアの家を出ても晴れなかった。

 グロリアは、確信犯に違いない。こちらとしては、少なくとも「あなたの契約拒否は違法な差別に当たる。こちらは、裁判所に訴えるつもりだから覚悟しておけ」ぐらいの脅し文句をいってやりたかった。しかし、グロリアのように自分の住んでいた家を縁故や口コミで紹介された人に貸す場合には、障害を理由とする住宅差別を禁止する公正住宅法は適用されないことがわかると、ますます悔しい思いは募るばかりであった。

●市民としての復権

 こうしたアメリカにおける体験は、わが国の問題状況に対する思いと交錯し、最終回の原稿のモチーフは次第に明確な問題意識となっていった。すなわち、わが国でも、障害者に対する差別を禁止する法律(JDA)を制定させて、いわれのない差別と対峙できる法的な手段を保障することが必要ではないか。障害者が差別された相手に脅し文句一ついえない社会では、障害者が障害をもたない者と対等な関係に立ちえないのは明らかである。障害者の「市民としての復権」とは、彼らに対して差別からの救済を正面から権利として認めることにあるものと考える。

 アメリカにおいても、ADAに代表される差別禁止立法に対して、現在なお否定的な意見も少なくない。共和党のギングリッチ下院議員なども、「ADAに代表される差別禁止立法は廃止すべきであるとは考えないが、ワシントン官僚組織から離れて、もっと地方自治体のコモンセンスに委ねられる部分があってよいと思う」と述べて、ADAの規制緩和を求めている。しかしながら、かかる意見は、理想主義にすぎるADAの規制内容に対して向けられているのであって、法律のもとで差別を禁止する社会的な必要性を否定するものではない。

 これに対して、わが国では、道路や建物など生活環境面でのバリアフリーが進められているが、差別の問題を取り上げるのはタブーとされているようにみえる。そのため、何をもって差別とするのかについて具体的なコンセンサスが形成されず、法的な責任を追求するのが著しく困難である。しかも、「完全参加と平等」を政策理念に掲げている政府においてすら、かかるコンセンサスの形成については、あえて極力ふれないでおきたいとの本音が見え隠れする。

 かかる社会のもとでは、障害者が差別を受けたと主張しても、当事者が差別をしている意識すら乏しいことが少なくない。しかし、差別的な行為が自覚されないことほどやっかいなものはない。たとえば、差別を受けたと抗議する障害者は、厄介な「トラブル・メーカー」として遠ざけられる。さらには、障害者に対する善意や配慮の結果である場合には、「恩を仇で返された」と逆に謗りすら受けかねない。

 これらは、「健常者=障害をもたない者がノーマルである」という基準に照らして、ア・プリオリに「障害があるんだから違った取り扱いを受けても仕方がない」と肯定し、障害者を「劣った者」ないし「か弱い者」とみる思想が社会構造のなかに深く組み込まれていることを物語る。したがって、よほどタフな精神をもちあわせていない限り、自信や気力を失い自らの障害に負い目を感じることになるだろう。

 このような社会構造のリ・エンジニアリングなくしては、障害者が地域社会の一員として誇りをもって発言しうること、すなわち「市民としての復権」は著しく困難であろう。バークレーで重度の障害者が誇りをもってはつらつと地域社会のなかで生活している姿をみてきただけに、わが国の状況を考えれば考えるほど、社会の暗い内面をえぐりだされるような気もちになる。

●呪縛をとかれて

-エンパワーメント

 大学の講義や会議などから完全に解放され、バークレーでロースクールの図書館に通う毎日は、あたかも大学院時代に立ち戻ったかのような気分にしてくれたものだ。バークレーでレポートを書きながら、当時の指導教官による論文指導を懐かしく思いだされた。論文指導では、繰り返し「アメリカと日本の社会のあり方、伝統や風土を背景にして形成された法律環境、紛争解決に対するアプローチの違いなどを考慮すると、アメリカでの実験が日本の社会でも有効であるとは限らない。アメリカの法政策をコピーしたもので、わが国の問題が解決できるという保証はない。安易な政策提言は控えるように」と諭されたことを覚えている。

 この助言のため、あたかも呪縛をかけられたかのように、これまで政策提言をひかえてきた。正直なところ、やっかいな呪縛に対して正面から対峙することを避けてきた。今回の在外研究においては、これに対する負い目もあって自分自身のスタンスは明解にして帰りたいと考えていたのだが、グロリアは最後になって本当に素晴らしいプレゼントをしてくれたものだ。これによって、大学院時代からの呪縛は完全に解けてしまったからである。

 すなわち、障害者に対する差別の禁止は、アメリカだけに限らず、イギリスやスウェーデンなど既にいくつかの先進諸国でも立法化されており、世界的にみても普遍性のある法政策であることが証明されている。わが国の社会文化、伝統・風土を考慮しつつ、わが国に最も適したJDAを構想するためには、ADAを参考としながらも必要な修正が加えられる必要もあろう。しかし、アメリカと社会・文化的背景が異なるということだけで、わが国において「地域社会の一員として差別を受けない権利」を保障しないでよいという理由にはならない。

 さらには、法政策上差別の問題をタブーとすることは、日本的な伝統・風土を考慮した結果であるとしても、好ましい政策選択であるとも考えられない。なるほど、これは、差別の存在が自覚されない社会構造をつくりだし、少なくとも表面上は障害者と障害をもたない者との摩擦・対立を回避するのに成功しているようにみえる。しかしながら、差別を受けたと訴えてもどうにもならないために、障害者が被害者でありながらトラブルを起こすだけばからしいと考えたり、あるいは「社会の試練にめげずに、障害を克服しようとがんばる障害者」を自らの役割として演じ続けるしかないという問題状況をつくりだしている。

 わが国は、「障害者に優しい社会」をめざすといわれるが、本当の優しさはこのように障害者の尊厳を傷つけたりはしないだろう。彼らをかかる呪縛から解き放ち、自立に向かってエンパワーメント(尊厳をもって、主体的に生きる力をつけること)できる法環境の整備こそ、わが国の課題であると考える。

(せきかわよしたか 北九州大学)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年12月号(第16巻 通巻185号) 35頁~37頁