文学にみる障害者像
ライナー・マリア・リルケ著 大山定一=訳 『マルテの手記』
塚田高行
不可思議な、ときとして含蓄に富んだ示唆と驚きを与えてくれるもの、それが記憶なのでしょうか。そして、甦る記憶はまた、過去に起きた出来事の錯誤をも、わたくしたちにもたらします。しばしば、過去のある時に起こった事実、書かれていたことがらは、それとは全く違った形として記憶に残ることを、わたくしたちは経験しています。わたくしたちの、過去に見たり読んだりした物とか事が、その見たり読んだりした時とは異なった形で記憶され、こころのどこかに刻まれてしまうことも、ままあるのです。
ライナー・マリア・リルケ(オーストリアの詩人・1875~1928年)によって、1910年に書かれた『マルテの手記』の主人公マルテを、わたしは障害者として記憶していました。しかし、この小文を書くために小説を読み返してみて、その記憶はあやまりだったと気がつきました。『マルテの手記』の中に、主人公マルテを、障害者として記述している個所はみつかりませんでした。
なぜわたしは、そのような記憶違いをしてしまったのでしょう。その理由は、おそらく、主人公マルテが、その周囲に障害者を多く見、かつその情況を克明に意志的に書き込もうとしていたからだと思われます。だが、理由は、それ1つだけだったでしょうか。障害者を意志的に克明に書き込もうとしていたという理由だけで、わたしはマルテを障害者と記憶してしまったのでしょうか。
『マルテの手記』は、パリに来たデンマーク人の青年作家マルテが、憂うつ、不安、孤独感にさいなまれながらも、多くの事物を見、それらの事物や、事物を見ることによって生起したマルテ自身の感情を、克明にしかし筋立てをせずランダムに記述し、ランダムに記述することによって、読者に精神のひろがりを与えようとした、当時としては型やぶりな小説です。その小説中から、障害者の登場する個所をいくつか採り出し、わたしがマルテを障害者であると記憶違いした理由を、もう少し深く考えてみたいと思います。
例えば、マルテ(つまりリルケ)は、陽のあたる公園を歩いてくる松葉杖を手に持った歩行障害者の様子を、つぎのように写しています。
「彼は松葉杖を持っていたが、脇の下へは当てず、それを軽々と前へ突き出し突き出し、ちようど式部官の御杖のように、ときどきかちかちと上げ降ろし…」
杖が鳴らす音も伝わってくるような、イメージも鮮やかな動的な描写です。
また、視覚障害者の男性をつぎのように記述します。
「僕は野菜の車を押してくる男をみた。〔花野菜〕と声をはり上げていたが、語尾の音が変に悲しかった。(中略)女が突くと男が声を出すのだ。ふと、男が自分から唸り声を出すこともあるが、それはいつも無駄な骨折りだった」
この男女はたぶん夫婦でしょう。もの哀しさと同時に、二人のあいだのある種の人間関係もかいまみられます。
そして、ハンセン氏病と思われる少女とその周りの人間を、自分もかるい病気をもって訪れた病院の、廊下のような待合室の長椅子に見出します。
「それは人間というよりか、顔と手のある、無意味な、動かぬ塊だった。大きな、重たそうな、動かぬ手。僕から見た横顔はまるで空虚だった。生きた表情がないのはもちろん、過去の思い出すらその顔には残されていないのだ。人間の着物が、まるで棺の中の死体にかぶせた着物としか見えぬのが、不気味だった。(中略)頭の髪をみると、あたかも湯燗婆の手でなでつけでもしたように、剥製の動物の毛並みか何かのように、ぎこちなく梳きつけてあった。僕は注意深く観察した。すると、かえって僕は、急にここが僕のすわる場所だという気がした。ついに僕は、僕の人生の中で、腰をおろすべき場所へ来てしまったのだと思った」
これらの記述個所で、マルテは、あなたは障害を克服しろ、とか、わたしが癒してやろう、とか、というようには書いていません。ただその障害と、それを取り巻く情況を誠実に、強い意志力をもって写そうとしているだけです。
ここで聖書と『マルテの手記』とを比較してみましょう。聖書にも障害者は多く出てきます。キリストは彼らと遇った時、彼らの訴えを聴き、障害を癒します。足萎えを立たせ、盲いた者の目を開かせます。そして、癒した後、あるいは癒されると予告した後、ただちにキリストはその場から立ち去ります。
しかしマルテは障害者とおぼしき人間たちの隣に座ります。ただ座るだけです。慰めのことば一つすらかけません。もちろん治療行為もしません。
ここにも書かれているように、マルテは、なぜ自分が彼らの隣に座ったのか、自分でもはっきりとした理由は分かりません。ただ、不安と孤独と憂うつによる危機的内面情況に立たされたとき、その障害者とおぼしき人間たちの隣に座ることによって、精神の静謐と純粋性を得ようとする彼の魂のうごきを、わたくしたち読者は感じます。
マルテ(リルケ)は、障害者とその情況を克明に書き写し、または障害者と寄り添うことによって、生と死のあいだに在る自分を見出し、悲痛さに裏打ちされた精神の純一を得ようとしました。
おそらくは、マルテのそのような世界ないし障害者に対する姿勢、自己の身の置き方が、わたしをマルテが障害者だと記憶違いさせた理由だったのでしょう。
(つかだたかゆき 詩人)
<引用文献 略>
(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年2月号(第17巻 通巻187号) 30頁~31頁