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1000字提言

子どもたちに学ぶ

青木 優

 「障碍は個性」ということについて最近論議が盛んである。「障碍を個性と受け止めて積極的にそれを活かすべきである」という意見に対して「障碍者が日常的にさまざまなバリアにとり囲まれ孤立せざるをえない差別の現実を無視した綺麗事だ」と反論する声も強い。

 確かに障碍児を生んだその時から「夫の家系には障碍者はいない」などといわれて、母親が冷たい目で見られるという現実もまだ少なくない。1988年、日本のいくつかの大病院で胎児検診が行われた。その中で障碍児が生まれる可能性が高いといわれた母親たちは、全員出産を拒否し中絶したとのことである。近代日本では確かに明治以来富国強兵の国是のもと、強兵にもなれず国を富ませることにも寄与できない障碍者は「かたわもの」と蔑まれ世間の片隅に追いやられた歴史がある。戦後、日本憲法のもとでも、企業を成功させ国を富ませるために「障碍者」はやはり「あしてまとい」と見られた。昨年11月号の本欄で記したように私自身も中途失明した時「自分はダメな人間になった」と思い込み、絶望に陥ったのもそのような価値観に捉えられていたからである。

 しかし最近は親たちの中に、わが子の障碍を個性として捉え、地域の他の子どもたちと共に遊び共に学ぶことを願って、普通学校に入学させるケースが増えてきた。1994年に批准された「子どもの権利条約」(特に第2章)もそのような親たちを支えている。

 私は教会の幼児教育施設「すみれ園」を設立し、障碍をもつ子どもたちを全面的に受入れ「健常」といわれる子どもたちとの遊びの中で双方が共に育ち合う姿を22年間、見続けてきた。そこで「共に生きる」すべを見事に獲得していく子どもたちの姿にしばしば目をみはる思いをさせられたのである。

 例えば二分脊椎症のK君が仲間と一緒に野球をしたいと初めて出ていった時のことである。彼の打った球がヒットになった。しかし1塁まで這って行く間には球は捕られてしまう。本人も不満であるし仲間たちも困ってしまった。それを同じ仲間の「かんとく」がキャッチャーに代走を命ずることによって克服した。以後K君と共に野球をする時のルールはそのように変更して彼らは共に楽しんだのである。まさにK君の「障碍」は「個性」として子どもたちの遊びの中に活かされ彼らの集団の「質」を変えた。困難な時代ではあるが、幼な子たちの姿に学びつつ「障碍を個性とする」努力を私たちも続けようではないか。

(あおきまさる 障碍を負う人々・子ども達と共に歩むネットワーク代表・日本基督教団調布柴崎伝道所牧師)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年3月号(第17巻 通巻188号)30頁