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文学にみる障害者像

堀 辰雄著『風立ちぬ』

篠原暁子

 堀辰雄の結核発病は、19歳の時であった。時に1923年(大正12年)、関東大震災の年である。災害や戦争があるたびに、日本人の結核死亡率はいっそう高くなったという。特効薬もない時代、彼は病巣を抱えたまま学業をつづけ、文筆活動に入っていく。

 『風立ちぬ』は、自ら病みつつ、より病状の重い婚約者に付添って信州のサナトリウムに入った数か月の経験をふまえて、書かれたものである。

 婚約者が実際にサナトリウムに入ったのは、1935年(昭和10年)夏のことで、その年の暮れに彼女は亡くなった。翌年から少しずつレクイエムともいうべき『風立ちぬ』が書き継がれたのである。

 その1936年は、二・二六事件の起きた年で、これ以後軍部の政治支配力が強化されていく。西欧の詩や小説を耽読し、その上病弱な堀辰雄にとって、けっして生きやすい時代ではなかった。しかし、『風立ちぬ』全章を貫くものは、あくまでも清澄なロマンである。抒情の世界である。感傷的な通俗の甘さとは異質の、日常生活に根ざした抒情なのである。

 『風立ちぬ』は「序曲」から始まる。病気の予兆ははあるが、まだすこやかな様子の若い女性が、熱心に絵を描く姿が映し出される。そして、まだ少女らしさの残った無心な美しさに、心ひかれる青年(私)がいた。

 何もかも始まったばかりで、「何物かが生まれて来つつあるかのよう」な希望のひとときに、不意にどこからともなく、風が立ったのである。

  風たちぬ、いざ生きめやも

 不思議な美しさをもった詩句である。どこか不安な風のざわめきに、心をふるい立たせている繊細な魂、「さあ、何とか生きてみよう」と自分に言いきかせるような、また呼びかけるようなフレーズである。

 「生きめやも」という文語的な表現は、元来は反語の意味をもつ。しかし、作者がフランス語の副題、ポール・ヴァレリイの原詩をつけているところから、「生きることを試みなければならない」という直訳の通り、意志的にとるのがよいだろう。生きようとする意志と、その後に襲ってくる不安な状況を予覚した「いざ生きめやも」なのである。

 さて、堀辰雄の描いた病者の世界が、社会とのかかわりの中でどうとらえられているか。

 婚約者・節子の周囲には父親だけが登場し、「私」の家族はいっさい描かれていない。この大胆な省略は、あくまでもこの物語が、若い男女の「いざ生きめやも」に収斂されていることを示している。隔絶された世界ともいえる設定である。

 2章の「春」になると、節子の発病が決定的となり、「花咲き匂うような人生をそのまま少しでも引き留め」たい二人の切々とした様子が描かれる。そして、本篇ともいうべき「風立ちぬ」の章では、信州のサナトリウムが舞台になる。「普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような特殊な人間性をおのずから帯びてくる」サナトリウムの侘しい生活である。

 周囲の誰かれが、具体的に二人を疎外する描写はない。だが、「何度となく山を攀じのぼってやっとたどりついた」山深い所で、たった二人身を寄せ合う姿は、読者に深い孤独感を呼び覚ます。

 当時の結核患者には、治療薬というものがないため、「大気、安静、栄養」療法が、回復への手引として示されていた。自分のもっている治癒力にすがるだけの、いつも死が間近にある病い―それだけに二人だけでともかくも生きようとする一筋の光の世界を、作者は描きたかったのである。

 しかし、節子の病状は確実に悪化し、青年は自分の書く物語の中でも、女主人公の死を想定するようになる。それを一方でふり払いつつ、実際に凍てつく冬のサナトリウムでは、死の予覚がついに「死に行かんとする」婚約者を看取る日々へと移ってしまう。

 あらがうことのできない死に向かって、一歩一歩時が進んでいくように、「冬」の章は日付入りの文章になっていく。

 小説の中の「私」は、節子の死を認めることができず、直接には描かれていない。終章「死のかげの谷」で、一人きりになった「私」が、死者を悼む寂しい山小屋暮らしをするが、そこで、だんだんに現実をとり戻すところで物語はしめくくられるのである。

 『風立ちぬ』は、自らの経験をふまえつつ、普遍的なロマンとして結実しているが、堀辰雄自身の精神的な再生は、どういうかたちでなされたのであろうか。生涯、病気から解放されることのないまま、小康状態の時は小説を書いて生活を立ててきたその力は、どこから得られたのであろう。

 作家の中村真一郎が、敬愛する堀辰雄について、「若い日の『驢馬』(注)の同人たちとの交友が、繊弱なモダニスト作家たちとは違った強さを育てたのだ」、と書いている。『風立ちぬ』のいかにもモダンな文体を支える一つに、昭和の初期に世の中の変革を願って、実践活動家になっていく中野重治らとの交友があったというのは、見逃せない。

 生きつづけようとするエネルギーは、自分の感性とはいくぶん違っても、刺激し合える仲間の存在から得られることを、私たちもまた明るい情報として受けとる。

 私自身の発病は1955年のことで、ストレプトマイシンなど化学療法が普及し始めていた。死にすぐ結びつく病気ではなくなっていたが、まだ回復には長期療養が必要で、私は高校を卒業するとすぐ入院をしなければならなかった。

 大学にも行かれず、手に職もないものが、これからどうやって生活を立てて行くのか。当時、父親もまた同じ病気で家庭療養中であった。生きていくことは、やはり容易ではない環境であったといえよう。

  片虹や病みても生きよと父言いし

 療養中にはじめた俳句の一つである。やや無責任とも思える父の便りに「病気というのは、人の一生の中で特別なことではない。病みつつ生きていきましょう」とあったのに応えて、詠んだものである。

 結核は克服される病気になった。しかし、化学療法の開発が進むと同時に、より強い耐性菌が現れる。肺切除や胸部成形手術の際の輸血によって、肝炎を引き起こすといった後遺症は、結核回復者が現在抱えている大きな問題なのである。人間を襲う病気は、克服されたかと思うと、次の思いがけないおとし穴を用意する。病みつつも 「さあ、生きてみよう」という呼びかけは、今もなお切実なものなのである。

(しのはらあきこ 俳人)

〈注〉
 『驢馬』=詩に重点を置いた文芸雑誌。詩の尊重と人間の尊重を一致させたいとした。1926年創刊。当時の同人は、堀辰雄、中野重治、平木二六、窪川鶴次郎、西澤隆二ら。のちに佐多稲子が加わる。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年3月号(第17巻 通巻188号) 62頁~64頁