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文学にみる障害者像

正岡子規著『病牀六尺』などより

村田信男

はじめに―子規との出会い

 伊予は松山の、かの有名な道後温泉の湯にひたり、湯上がりに「坊ちゃんの間」で茶を飲み団子を食べ、坊ちゃん的なくつろいだ気分になり外に出てふらりと道後公園に足を運ぶと、そこに四階建ての白亜の大きな建物が見えてきた。「子規記念博物館」と記されたこの建物は、松山市が建て運営しているものであった。
 筆者は、それまでは「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」の俳句や「眞砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」(注4)の短歌など、断片的な知識によって彼の優れた才能を高く評価してはいたが、その僅か36年に凝縮された生涯の全容を知る機会はなかった。
 ゆっくり館内を見て廻る時間がなく心残りだったが、それでも彼の残した業績は、「なる程、36歳で没した子規のために市が記念博物館をつくったのも納得がいく」ものだった。
 松山の人たちが、漱石の『坊ちゃん』と併せて子規へ愛着を抱いている気持ちが伝わってきた。そして、「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」(注1)という子規の生き様のなかに、障害者としての視点からの思いや提言などを学ぶことができるのではないか、と館の外に出たときには考えていた。
 子規との出会いはこうして始まった。

子規の病気と障害について

 彼は23歳のとき、結核により喀血した。子規と号したのも、血を吐いて死ぬ時鳥に我が身をなぞらえてのことであるという。
 結核は脊椎を侵し、つのる症状のため31歳のとき腰部の手術をうけたが好転せず、34歳の頃人力車で外出したのを最後に臥床生活に入る。それは死に至るまでの2年余りに及び、徐々に進行していく疾病とそれによる患部の苦痛を併せもちながら、『病牀六尺』に象徴される狭い生活空間のみの重度障害者としての生活を送ることになる。
 「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある」(注1)。
 このような病気による苦痛とそれによる障害を受容しながら、死に至るまで自己価値の創造を意欲的に行い、『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』などの随筆を口述筆記などにより新聞に発表し、また歌を詠み(『子規歌集』)、さらに仰臥した状態で『草花帖』などの写生画もしている(図1)。
 「強健な精神が病弱な身体に囚われたるとき、どういう反応をおこすか、『病牀六尺』はその反応のもっとも壮絶な、あるいは光彩陸離たる、稀有なるありようの自証である」(注1)と、『病牀六尺』の「解説」は障害受容と自己価値創造の過程を簡潔に記している。
 この壮絶なありようの自証過程について簡潔に記すことにする。

障害者としての生き方と周囲の人たちの対応の仕方 ―障害相互受容―について

 障害の程度は『病牀六尺』に象徴されるが、その程度は次第に悪化していく。
 「足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫(後略)」(注1)。
 死の3日前の記述であるが、単に仰臥を余儀なくされた障害のみならず症状に伴う苦痛が障害の程度と併せ増悪し、「たまらんたまらんどうしようどうしよう」と連呼し、「自殺熱はむらむらと起こってきた」(注2)りするのである。
 「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」(注1)と絶叫する彼を家族(母と妹)や漱石ら友人、高浜虚子、伊藤左千夫ら弟子たちが支え、「障害の相互受容」が徐々に行われていく。
 母や妹は食事やトイレなど日常的な介助に献身し、虚子らは口述筆記して『墨汁一滴』や『病牀六尺』を新聞「日本」に連載し、また、多くの友人や弟子たちが珍しい土産物などを持参してたびたび見舞いに訪れている。
 当時、結核が感染症であり死に至る病であることは樋口一葉や石川啄木やその家族などの経過などからも知れ渡っている社会的通念であり、たとえば、農村では納屋に隔離したり、都会でもその家の前をハンカチを鼻と口にあて、息をせず急いで通り抜けるというような風潮が一般的であったと思われるだけに、このような度重なる見舞いや献身的な介助は、そのような社会的偏見や障害をも克服する彼の人柄と才能のしからしむるところであったと考える。社会的偏見というものが絶対的なものではなく相対的なものであることを具体的に示している。
 さらに、障害者の環境整備にも周囲の人たちがいろいろと配慮していることも生活障害を軽減し、障害受容の過程において大きな役割を果たしていることを強調しておきたい。
 伊藤左千夫により石炭ストーブがとりつけられ、高浜虚子の配慮により病室の障子をガラス戸にした。
 特にガラス戸にしたことにより、庭とそこに咲く草花の世界が開けたのであり、自殺をも考えた苦痛から庭から見える草花の生命力や四季によるうつろいを凝視し、障害受容へと昇華していく一因となる。
 「病室のガラス障子より見ゆる処に裏口の木戸あり。木戸の傍、竹垣の内に一むらの山吹あり(後略)。」と詞書を記したあと、

春の日の雨しき降ればガラス戸の
       曇りて見えぬ山吹の花
 
ガラス戸のくもり拭へばあきらかに
       寝ながら見ゆる山吹の花(注4)

など、数多くのガラス戸についての歌を詠み、そこから見える四季の草花などを写生している。
 死の1か月前には『草花帖』という写生画をまとめているが、「写生」という対象を凝視する作業を短歌や画により行っていく過程で草花の生命力に自らをも同一化させていく。
 「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分って来るやうな気がする」(注1)「神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんで居るのであらうか」(注1)などと述懐している。
 そして、「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(注1)という心境の変化につながっていく。
 『病牀六尺』などを読んで筆者が感銘するのは、そのような苛酷な状況に身をおきながらも、精神面では身体的衰弱と反比例するかのような多方面への関心の広がりで、好奇心が生命力の賦活作用に大きな役割を果たしていることである。障害者に対する知的、情緒的働きかけの大切さを彼は自証してきたと考える。
 関心は、俳句、短歌、随筆などの文芸から、絵画および写生、飲食物、世間の動向、さらに介抱のあり方にまで及んでいる。
 「病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。精神的の介抱といふのは看護人が同情を以て病人を介抱する事である。形式的の介抱といふのは病人をうまく取扱う事で、(中略)この2種の介抱の仕方が同様に得られるなら言分はないが、もしいずれか1つを択ぶといふ事ならばむしろ精神的同情のある方を必要とする(後略)」(注1)。
 この介抱のあり方論は、今日に通ずる提言でもあろう。
 なお『墨汁一滴』と『病牀六尺』は新聞「日本」に連載するために口述筆記などにより記された、いわば公的なものであるのに対し、『仰臥漫録』はそのような発表を考えずに記した私的記録であり、それだけに『病牀六尺』などよりもさらに彼の私生活や内面の気持ちの変化を赤裸々に記しており、より一層興味深いものである。
 たとえば、毎日の食事の献立を具体的に書いている(注3)。
 彼が仰臥の身でありながら、驚く程の健啖家であり、それが創作へのエネルギーになっていたことを改めて知らされるのである。
 障害や病気の進行の様子についても具体的に、自己を客観視して記述している。
 「一両日来左下横腹(腸骨か)のところいつもより痛み強くなりし故ほーたい取替のときちょっと見るに真黒になりて腐り居るやうなり定めてまた穴のあくことならんと思はる。(中略)また穴があくかと思へば余りいい心持はせずこのこと気にかかりながら午飯を食ひしに飯もいつもの如くうまからず食ひながら時々涙ぐむ」(注3)と言いつつも、翌日にはまたけろっとして前述のような健啖家ぶりを発揮するのである。
 彼のこの健啖ぶりや多方面への強い好奇心は、病苦による煩悶から自殺念慮に至り、ようやくにそれを思いとどまり生への執着へ再び戻る葛藤過程において如実に示される。
 「たまらんたまらん どうしやうどうしやう」と連呼すると母は『しかたがない』と静かな言葉、(中略)「さもなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起って来た(中略)。この小刀を手に持って見ようとまで思ふ。よっぽど手で取らうとしたがいやいやここだと思ふてじっとこらえた心の中は取らうと取るまいとの2つが戦って居る 考えているうちにしゃくりあげて泣き出した」(注3)。
 筆者が感心するのは、このような病苦と障害により強い自殺念慮にまで至ったのちの「苦しみを以て創作への意欲へと転化さす」強靭な生命力と柔軟な精神力である。前の文に続いてすぐこのように記している。
 「逆上するから目があけられぬ 目があけられぬから新聞が読めぬ 新聞が読めぬからただ考へる ただ考へるから死の近きを知る 死の近きを知るからそれまでに 楽みをして見たくなる。楽みをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる(後略)」(注3)。
 強い自殺念慮は束の間にさまざまな楽しみ、ご馳走など生への強い願望へと転化してしまうのである。
 このように死と生の両極を時計の振子のようにゆれ動きながらも、次第にその振幅は小さくなり、次第に病苦と障害を受容して死を心静かに迎える心境へと収斂していく。

いちはつの花咲きいでて我が目には
       今年ばかりの春行かんとす
 
別れゆく春のかたみと藤波の
       花の長ふさ絵にかけるかも
 
夕顔の棚つくらんと思へども
       秋待ちがてぬ我がいのちかも(注2)
 
わが心世にしのこらばあら金の
       この土くれのほとりにかあらん(注4)

など、死を心静かに迎え容れる心準備をするようになっていくのである。
 彼の病苦と障害の身でありながら創作活動にその生命を完全燃焼させ36歳の生涯を終えた生き様は、当たり前のように享受している我々の日々の生活の営みを改めてふり返り考える契機になるのではないだろうか。

おわりに―東京根岸の子規庵―

 休日の昼下がり、JR鶯谷駅で下車し子規が愛して終生の地とし第二次世界大戦で焼失後に弟子たちが再建した根岸の子規庵を訪れた。
 彼は、『根岸近況数件』として愛着の地の風情を点描している。

― 田圃に建家の殖えたる事

― 笹の雪横町に美しき氷店出来の事

― 時鳥例によってしばしば音をもらし、梟何処に去りしかこの頃鳴かずなりし事

― 御行の松のほとり御手軽御料理屋出来の事

― 美術床屋に煽風器を仕掛けし事(以下略)

 これらの記述から往時の根岸の風情が偲ばれると同時に彼の旺盛な好奇心も伝わってくる。
 没(1902年)後100年を経ずして周囲の状況は「桑田変して滄海となる」の喩のように、喧擾のホテル街となり、子規庵はその巷で手入れもされず無住で軒傾くいたましい姿であった。
 これがかの『病牀六尺』書きし地か子規庵喧擾の巷に沈む―の感慨を抱き立ち去った。
 松山市道後の立派な子規記念博物館と東京根岸の子規庵の落差の大きさにとまどいながら、松山の人たちが彼を郷土の誇りにしていることを改めて強く感じたのである。

(むらたのぶお 東京都立多摩総合精神保健福祉センター)

〈注・引用文献〉
 (1)正岡子規 『病牀六尺』岩波文庫、1927年、初版発行
 (2)正岡子規 『墨汁一滴』岩波文庫、1927年、初版発行
 (3)正岡子規 『仰臥漫録』岩波文庫、1927年、初版発行
 (4)正岡子規 『子規歌集』岩波文庫、1959年、初版発行
〈参考文献〉
 大岡信 『正岡子規―五つの入口』岩波セミナーブックス56 岩波書店、1995年、初版発行


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年5月号(第17巻 通巻190号)42頁~47頁