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1000字提言

依存関係を創造する能力

田中優子

 北極点へ徒歩で到達した日本人がいる。幾度も失敗を重ね、凍傷で足や手の指を失いながら、とうとう今回はたどりついた。その努力は並たいていのものではない。彼は談話で、「ほんとうの自立を知ってはじめて見えてくるものがある」と語った。ぎりぎりまで自分を「自立」に追い込んでいくことによって、自然と向き合い、自分と対面することができる、という意味である。
 同じころ私は、山岳修験についてのシンポジウムに出ることになった。峰入りの巡礼は減っていると思っていたのだが、それどころではない。むしろ増えているという。山岳修行はやはり、山を歩くことによって自分を死の際まで追いつめ、自然と向き合う。日本人は長いあいだ、「歩く」ことで精神を自立させるメソッドをつくってきた。その起源は縄文にまで遡ると言われている。
 しかし一方で、その「自立」について考えさせられた。峰入りは先達(案内者)もいるし、食糧も供給される。そのためにお金も払う。また北極点をめざした彼は、外からの定期的な食糧の補給を受けていた。もし食べることまで「自立」するのであれば、彼は北極熊やペンギンを殺したり魚を釣ったりしながら進むしかない。これは世界中の非難を浴びるはずである。つまり、私たちはもはや、どんな環境にいようと、障害をもとうがもつまいが、ほんとうの「自立」はできないのだ。自立しているかいないかは、相対的な程度の違いでしかないのである。
 社会や組織を作って「人間」となって以来、私たちは自立できないという決定的な「弱さ」をもつ生き物となった。だからこそ相互依存的な人間関係の創造が不可欠なのであるが、私が江戸時代の連や村について講演した時、ある建築家が言った。「ぼくは村がいやでたまらず都会に出てきた。昔がいいとは思えない」と。近代人は、人間関係を刻々と創造する手間を省いてむしろ「システムの構築」に力を入れ、それに効率よく依存する方法をつくってきた。システムへの依存は、自分の本来の「依存性」つまり「人間の弱さ」を見えなくしてくれるので、多くの人がそちらへ移行した。しかし、その背後で私たちは、自力で「依存しあう人間関係のルール」をつくる能力をなくしてしまったのではないだろうか。アジアやアフリカや江戸時代までの社会を見ていると、私たちは自立できるようになったわけではなく、単に、人間関係創造の能力を失っただけかもしれない、と思えるのである。

(たなかゆうこ 法政大学)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年9月号(第17巻 通巻194号)37頁