音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

1000字提言

私にとってのノーマライゼーション

川田隆一

 私は箸を上手に使えない。職場の上司は、見るに耐えないと言う。
 私が箸を使えないのは、けっして私が全盲だからではない。視覚障害者にも美しく食事のできる人はいくらでもいる。私の場合、両親がそれは障害故の限界であると考えてあきらめてしまった。そして中学、高校と過ごした盲学校の寮で、また大学を卒業した後にコンピュータの訓練を受けたリハビリテーションセンターでも、的確な指導をしてくれる寮母や指導員に恵まれなかった。かつての盲学校やリハビリテーション施設には、視覚障害者特有の不自然な姿勢や日常動作に細かく注意を払い、徹底的に指導してくれる先生がいたと聞く。しかし今は、点字、歩行、パソコンというように訓練内容が高度化、細分化されている。指導員は自らの専門分野以外のことに関与しなくなり、基本的な生活訓練が軽視されている。それが36歳になっても箸を使えない私を生み出した原因の1つではないか、と自分の努力不足をさておいて、そんなふうに分析しているのだが…。
 最近、私は視覚障害者リハビリテーション施設で入所生に話をする機会があった。私は箸が使えないという悩みを打ち明けた。それから「ここにいる間に、どんな些細なことでも自分でできないことがあったら指導員に訓練を依頼して欲しい」と話した。
 すると、その施設の全盲のカウンセラーがこう反論した。「たとえ箸を使えなくても、物を食べられるのだからそれでいい。健常者には奇異に見える動作であっても、それを個性として社会にありのままに受け入れさせる。それこそがノーマライゼーションなのだ」と。
 私は彼の言葉に疑問を感じた。どんなに努力をしても障害のためにできないのならしかたがない。しかし訓練をすれば箸を使うことはできる。障害者にも十分獲得できうる技能の指導を放棄しておいて、社会に対して「障害は個性だ」と主張するのはいかがなものだろう。リハビリテーション従事者としての自己責任を回避しているように思えてならない。
 ノーマライゼーションとは、社会が障害者をあまやかすことでも、リハビリ従事者の怠慢を放置することでもない。それは障害者と社会が相互に理解し合い、尊重し合うことではないのだろうか。障害者も、社会や文化を十分に理解し尊重しなければならないと私は思う。
 いまでも私は目の見える人と食事をするのが怖い。なんとかしたいと思い続けている。

(かわだりゅういち JBS日本福祉放送)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年10月号(第17巻 通巻195号)41頁